内海を望むことの出来る港に、一人の女が佇んでいた。白く光る海を眺め、潮の匂いを吸い込む。ここは世界の西に位置する国で、一番東にある港。範西国、東の港であった。女は東の空を眺めて、じっとしている。陽はすでに女を通り越して、背後に回っていた。碧落の空は僅か朱に染まり始めていたが、女は伸びる影と、瞬く海とをまれに見ながら、空を見ることをやめなかった。果てしなく広がる蒼茫(そうぼう)の彼方に、現れる予定の物を見つけようと目を凝らしている。「。空ばかり眺めていては、首を痛めてしまうよ」突如背後から投げられた声に、女は驚いて振り返った。「主上!いつの間に…ずっと見張っておりましたのに」「見張って?それで東の空を眺めておったのかえ?」は頷いて主を見上げた。そして思い出したかのように、その場に跪く。「主上。おかえりなさいませ。台輔はいかがなさいました?」「梨雪なら先に宮城に帰ったよ。随分と疲れていたからねえ。ゆっくりと休む事が必要なのだよ」「長旅、お疲れ様でした。他国での長期滞在でお疲れでございましょう?舎館の手配は済んでおります。視察は明日からになさりませ」「そうはいかぬよ。長い間、国を空けていたのだからね」本日の昼から、この港で待機せよと知らせを受けたのは、朝の鐘が鳴った直後の事であった。範西国の国主は、その対極に位置する、慶東国に滞在していた。玉の産地である戴極国の麒麟捜索のため、雁からの要請を受けて旅立っていたのだった。遠い異国の地の話を聞きたいような衝動もあったが、傾き始めた陽を背に受けた主は、すぐにでも視察に向かいたい様子を見せている。「ここの様子はどうだえ?」口元に扇を当て、優雅に問いかける主に、は微笑んで言う。「では参りましょう。私の拙い説明よりも、実際に御覧になられるのが良いでしょうから」そう言って、は案内のために足を上げた。後方に控えている者に指示を出し、主の騎獣を預ける。向かいながら、軽く説明を始める。「雁からの技師達は、先日帰国いたしました。枠は整っておりますので、現在は我が国の技師達が、細々(こまごま)とした設置を施している所でございます。近日中には完成いたしますでしょう。本日は国府から冬官の一人が視察に来る、という事にしておりますので、そのように振舞っていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」「もちろんだよ。は何時もながらに手際が良いねえ」「恐れ入ります」がそう言った所に、丁度目的の建造物が見えてきた。藍滌は目を細めて眺めている。灰白色の壁に薄縹(うすはなだ)の甍宇が目に映る。潤み色の門闕(もん)を潜って入ると、数名の目が向けられる。何台も連ねられた長卓を見ていた藍滌は、満足げに頷いていた。長卓の上には四角の台が置かれ、小さな道具を入れるための箱が丁度、設置されている最中だった。真ん中に出来た通路を通り抜けて次の堂室へと進むと、小さな竃(かまど)が点在している場所へと抜けた。熱が篭もらない様に、逃がすための筒が設置されており、高い天井を貫いている。新たに空気を入れる穴と、熱を逃がす穴の付近には、まだ作業をしている技師がいて、額にかいた汗を拭きながら手を動かしていた。「計器類はほぼこちらの施設で補う事が出来ましょう。これで冬官も研究に時間を取る事が出来ますわね。大司空も喜びますわ。もっと玉の加工に時間を割きたいと、言っておりましたから」「問題はここに入る人間だけだねえ」「ええ。でも極力、簡素に維持できるような造りにしておりますから、荒民がいなければ、それだけ平和でよろしゅうございましょう」「そうだねえ。戴も麒麟が見つかった事だし、落ち着いて再び玉の産地になってくれると有難いのだけれど…。こちら側はあまり荒れている国はないからね」「そうは言っても、皆無ではございません。荒民や浮民はいつの世でもいるものですから…」「‥‥‥どうやら、柳が少し危ないようだよ」「柳が?」「今回の慶…いや、雁の呼びかけにも応じてこなかった」「そうですか…」そう言っては考え込んでいた。柳北国は恭州国を挟んで一つ向こうの国だ。その恭州国は、虚海を経て対岸の芳国も今は空位である。荒民の救済に追われるのならば、範よりもむしろ恭―――――「範は隣国に恵まれておりますわね。才も随分と落ち着きましたし、荒民も減りつつあります。柳なら恭か雁に分散するでしょうし、芳も虚海を渡るのですから恭に辿り着くのが精一杯でしょう」荒れた国を思ってか、の顔は苦渋に満ちていた。藍滌はそれに笑んで返す。「わたしは能吏に恵まれているよ。もちろん隣国にもだね。慶東国を見てきて、強くそう思ったのだねえ」 ふっと軽い吐息が漏れて、扇が開かれる。「戴にしては酷い有様だし、隣国の巧国は空位だからねえ。それらが全部雁に駆け込むのはいい気味じゃが、雁が補えなくなっては慶を頼る事になろう?小さな女王だったよ。しっかりとして凛々しい王ではあったけどね。あの小さな肩に背負うには、大きすぎる重責だろうねえ。慶はまだまだ貧しいから」戴は雁の対岸に位置する。丁度、恭と芳の様に…条件を同じくして柳の問題が控えている。それに加え、慶は新王が起ってまだ浅い。近頃激動の時代が続いていたから、慶の荒民は多い。雁や巧、はたまた奏にまで流れていたのだから、国と民との確執は深いのだろう。豊かな雁が隣にあって、流れない方が不自然なのかもしれないが…。それでも主の口調からは、何処か景王に対し信頼を感じ取る事が出来る。では、とは思う。「考えてみれば、雁が一番大変でございますね」慶の荒民を抱え、さらには巧も今は空位だ。巧が頼るのなら、隣国の奏か、慶を飛ばして雁になるのだろう。柳、巧、戴が雁を頼り、新王登極の浅い、慶の民もまだ多く残っているだろう。四つもの国が被さってくれば、さしもの雁も大変だろう。「あそこはいいのだよ。豊かなのだから、少しくらい他国に施しても構わないのじゃないかえ?」「―――――主上」呼ばれた藍滌は、ぱしっと扇子を閉じてを振り返る。「また言い争いを?」「嬌娘を苛めるのでね。敵を討ってやったのだよ」「まあ…主上。あれほど申し上げましたのに…」国を出立する前、は重々言っていたのだ。国交の深い雁と、これ以上の確執は作ってくれるなと。言い合いなど、本人達にとっては他愛もない事なのだろうが、周囲の者からすれば迷惑この上ない。自身も一度目前でやられて、おろおろした経験がある。国交が途絶えるのではないか、逆上した延王が主に手をかけるのではないか。口を挟む隙などありはしないのだが、止めなければと言う思いばかりが先走って、落ち着きがなくなってくる。しかし、王という立場の者同士が争っているのを、如何にして止めよと言うのか。畢竟、ただ見守るしか策はなく、どちらかがその場から動かねば終着をむかえない。難しい顔をして黙っているに、藍滌は目を向けて微笑んだ。「おや。どうやらを怒らせたようだね」「怒ってなどおりませぬ。ただ少し…いえ。忘れて下さいまし」心配していたのだと、無事帰ってきた主に言った所で、意味のない事。「最後まで言うがよかろ」「…いえ。こうして主上が戻って来られたのですから、何も申し上げる必要などございません。さ、視察の続きに参りましょう」はにこりと笑いかけて、案内を再開する。この建設中の建物は、荒民対策として作られた。荒民、浮民を問わず、申し入れれば働くことが出来る。計器類などの機器は、細かな小さい部品を組み立てていく事によって完成する。ここはその部品を作るための、いわば工場みたいな場所だった。鉄を溶かし、加工する。決められた規定の長さに切ったり、先を尖らせるために削ったり出来るよう、長卓に小道具を設置してある。慣れるまでは指導する者の指揮下で、研修のような事も行う。とは言っても、さほど難しい事をさせる訳ではない。誰にでも出来るように考案された部品ばかりだから、慣れだけの問題だった。そして、出来た部品に対し、給金が支払われる。歩合制という訳だ。慣れればそれだけ給金はあがる。作られた部品は国府に上がり、機器として組み立てられ、他国へと流通する。荒民はただ施されるだけではなく、きちんと仕事を得て自分の稼ぎを出し、国はそれによって事業を支えられる。しかし、国が落ち着けば帰りたいと願っている荒民は多い。ゆえに港町に作ったのだ。薄く笑んだままの主を見上げながら、はほっと胸を撫で下ろした。雁からの要請で、以前から疑問に思っていた戴の現状が分かり、すぐに国を発った藍滌も、ここの完成を気にかけていたのだった。近頃港の整備も行われ、この港町は大きく発展した。活気に溢れている街の様子を見るのが、藍滌は好きだという事を知っている。視察は当然のように思われた。帰国して休む間もなく、見たいと思うほど気にかけていたのだと、知らせを受けて深く思った。疲れているだろうに、藍滌はそんな様子は見せず、視察を続けている。やがてすべての視察が終わり、潤み色の門闕を出ると、斜陽は遠くの山に落ち着こうとしていた。「いかがでございましたか?」「想像以上に良い感じだねえ。みんなよく頑張ってくれている」「ようございました。これからいかがなさいますか?舎館へ向かわれますか?それとも宮城に戻られますか?」「せっかく用意してくれたのだから、舎館に向かおうかね」「はい。ではこちらへどうぞ」さらりと身を翻し、再び案内の為に先行く。は一軒の舎館の前で立ち止まり、ここだと主に教える。「おや?は宮城に帰るのかえ?」「はい。護衛の者以外の舎館は、手配いたしておりませんので」近頃開けたこの港町には、立ち寄る旅の者が多いのか、舎館はあまり空いていなかった。この舎館も辛うじて一室空けてもらったのだった。護衛の者は近くの舎館が空いていなかった為、少し離れた場所に舎館を取って、交代で見張りにつく事になっている。そうかと呟いて、藍滌は舎館の中へと入って行く。それを見送っては踵を返した。「」呼び止められたは、先ほど中に入ったはずの主を振り返る。「夕餉ぐらい、食べて行きなさい」「ですが…」「嫌なら別だけども」そのように言われてしまえば断ることも出来ず、はおとなしく後についていった。夕餉までを待てば門は閉まってしまうし、帰ることは出来ないだろう。舎館を取っていないには、寝るための場所がなかった。護衛の者と一緒に、夜通し起きていようと思って諦めたは、夕餉の相伴を預かりながら長旅の話を聞いた。藍滌の話を聞く限り、活躍していたのはもちろん麒麟達だったが、次いで走り回っていたのは延王のように聞こえる。なんのかんのと言いながら、よく延王の名が浮上する。くすりと笑ったに、主の目が向けられ、何事かと問われる。「いえ…お気になさらずに」そう言って続きを促すが再度問われて、は諦めて言った。「延王君と仲良くなされば良いのにと…これだけの誼があるのですから、悪い事ではございませんでしょう?」そう言ったに、やれやれと言った風な視線を投げかけて、藍滌はため息と供に言った。「蛮人と馴れ合う趣味はないのだよ」「まあ、蛮人などと…」「野蛮で粗暴だよ、あれは。目が汚れてしまう」「私は延王君を拝見させて頂いた事はございませんが、立派な方だとお聞きしております。一国を五百年も支えてきたお方なのですから、さぞや立派だろうと思うのですが?」「治世が長いのは、認めざるを得ない。だが、それと好みとは別物なのだえ」「それはそうでしょうが…」は一度言を切ったが、すぐに続いて言う。「それほどまでに主上に疎まれる延王君を、一度拝顔させていただきたいものですわね」くすくす笑って言うに対し、藍滌は露骨に顔を顰めている。「あの男の前に晒したら、が穢れてしまう。そんな事は許せないからねえ。対面することは叶わぬと心得よ」「まあ、視界に入ったぐらいで穢れたり致しませんわ」「わたしが嫌なのだよ。を他の男に見せるのは」「以前にもそう仰っておりましたわね。何故なのか理由を教えては下さいませんか?」それは今から二年ほど前に遡る。当時、は大司徒の任に着いていた。国官になったのはおよそ十年前。初めは秋官におり、次いで春官を経由して、地官に落ち着いた。位を上げながらの移動であったため、地官になって一年程で地官長の位置についた。朝議に参加するようになると、王の憶えもめでたく、次期には冢宰かとも噂が立つほどだった。ある日、正寝に呼ばれたは王に言い渡され、その場で太宰の任についた。「本当は三公のどれかにしたかったのだけどねえ。さすがに嫌がるかと思ったものでね、太宰にしたのだよ」ぽかんとしたままのに、藍滌は笑いかけながらそう言った。そのまま何も言わずに太宰の任についたが、何故そうなったかの説明は一切なかった。しかし、地官長として力が足りなかったのだろうかと考えるようになると、不安ばかりが身を包み、天官長としてはどうだろうかと考えるようになっていく。王の傍に仕えるようになってしばらく、はようやくそれを聞く事が出来た。地官長として不服があった訳ではないと言われ、一先ずは安心したが、では何故移動だったのかと問いかける。「地官は男が多かったからねえ」返ってきた答えがさっぱり呑み込めず、再度問うと、が男に囲まれるのは嫌だと言う。「それは…どうゆう事でしょう?」首を傾げながら問うに、藍滌は苦笑して返し、その答えをくれなかった。だが、太宰がまったく他の男に関わらないと言うことはない。今日のような事があれば、夏官の手配のために動くし、こうして港まで来るのに幾人もの男と会う。天官にだって男は多数いたし、朝議の際にも会う機会は多い。他の六官にも男は大勢いるのだから。それらを踏まえると、完全に駄目だと言う事でもないようだった。「その問いかけは微妙だねえ」「微妙…でしょうか?」「以前は問いかけが悪かった。どうゆう事かと聞かれると、答えに窮してしまうものだよ」「では…どのように問えばよかったのでしょうか?」「どうゆう意味か、と問えばよかったのだね」「意味、でございますか?」微細な違いが明暗を分けたと言うのだろうか。がそう問うと、軽い頷きが返ってきた。「口からついて出るものは、その者の内実を表す大切な物なのだえ。言った事をよく吟味してやれば、その者がどのように考え、どのような感情を抱いているのか、おのずと見えてくるものだよ」はしばし考える。言われた事を頭の中で繰り返し、考える。だが…「―――分かりませんわ…教えては下さらないのでしょうか?」「そうだねえ…教えるのなら、条件があるよ」「条件ですか?」「ここは二つ牀榻があったね。今日はその一つで寝ること。これが条件じゃが、呑むかえ?」寝る場所のないにとって、ありがたい事であるはずなのだが、相部屋の相手が王とあっては、恐れ多くて簡単には頷けない。「どうせ夜通し起きているつもりであろ?それならば、わたしも眠る訳にはいかないねえ」「主上は長旅でお疲れです。私なら大丈夫ですわ」「護衛の者と話をして夜を明かすつもりであろう?」「それは…はい。そのように考えておりました」「護衛は?」「護衛は…男です」「なかなか察しが良くなったねえ。で、言いたい事は分かるであろ?」条件も何も、これではどちらを選択しても同じだ。寝ずに夜を明かすにしろ、この房室を出ることは出来ないだろう。は小さく頷くと、呑みますと言った。すっくと立ち上がった藍滌は、房室の外に控えている護衛に声をかけていた。ややして戻って来て、に報告する。「護衛の者は舎館に引き下がらせたよ。明日の朝一番で迎えに来るように言ってあるから、心配せずとも…」「下がらせたと仰いましたか?」最後まで言い終わらない内に、が遮って言う。「護衛を下がらせて、主上に何かあったらどうするのですか」少し語調を強めて言うに、藍滌は微笑んで足元を見た。「あ…。台輔の使令がおられるのですね…」「そうゆうことだねえ。さて、何でも聞くがよかろう」ゆったりと腰を下ろした主を見ながら、は聞きたいことを考える。「では…私が太宰を賜った件からお話頂けますか?」ゆったりと扇が開かれ、藍滌は瞳を天井に向けて答える。「前にも言った通り、地官は男が多かったからだよ。天官はまだ女が多いからね」「何故男が多いといけないのです?」「わたしが嫌だからだよ」「何故…嫌なのですか?」「を愛しているからだねえ」「?」何を言われたのか、ゆっくりと反復してみる。あいしている、と聞こえたのだが…空耳だったのだろうか。「あの、主上?何やら耳が可笑しくなったようなので、もう一度仰って頂いてもよろしいでしょうか?」藍滌は微笑んで扇を閉じた。すっと体の向きを変えて、を正面に捕らえる。「を愛しているから、と言ったのじゃが」あまりの事に、は言葉を失っていた。「他の男に触れさせたくはないのだねえ。政務の関係もあるから、完全にとは行かないのだけれど、極力遠ざけておきたかったからね。自国の官でも嫌じゃと言うのに、他国の猿などの目に触れさせてなるものかと思うのは、当然の事ではないかえ?」言い終わった藍滌は、すっと手を差し出す。来いと言う事だろうか。は無意識のままに立ち上がって、藍滌の手に自分の手を乗せていた。そのままその場に座り、唖然とした表情のまま藍滌を見ていた。「が太宰になったばかりの頃、これを言ったら卒倒しただろうねえ」「な、何故今日は教えて下さったのですか?」「その時期が来たからだよ」「時期が?」「の中に、わたしを受け入れる場所が出来たようだからね」「私の中に?」頷いて藍滌はの手を包む。その動きに、ようやく移動した自分の行動を思い出し、あまりに大胆な自分の行為に頬を染めていた。「嫌がる姿は見たくないからねえ」「そのような事…」そうは言っても、あの頃の自分はまだ、王の事をほとんど知らない。王に対し敬愛の念はあったが、男として見ている訳ではなかった。では、今はどうだろうか?もちろん敬愛している。だがそれ以上の事は考えたことがなかった。「普通に考えてごらん。他の男の目に入れたくないと言う心境を」藍滌から目を逸らして考える。それは容易く想像できた。自分が言われたのでなければ、すぐにでも分かってしまうほど、簡単な話だったのだ。それが何故、分からなかったのだろうか。「私は、主上をお慕い申し上げているのでしょうか?」「話す内容の端々に現れていようよ」「それはいったい…?」「そうだね。例えば先ほどもそうだねえ。理由を聞きたかったのではないかえ?」「ええ。さようでございますが…」「それが何よりの証拠だよ」「?」「理由など、どうでも良い事であろ?王の宣旨が下った。大抵の者はこれで納得しようよ。簡単に納得しない者と言うのは、それに不満のある者。もしくはわたしを気にかけている者ぐらいだねえ」確かにそうかもしれない。が秋官から春官に移動になった時、あるいは春官から地官へと移動が決まった時、これに対して不満もなければ疑問もなかった。秋官よりも春官が合うと、上が判断したのだと思っていたし、地官への移動に関しては前兆があった。以前から助言をしていた、仲の良い女官の一人が地官に在席しており、地官に移動できるよう、上に奏上すると言われていたからだった。そのせいだろうか、何の前兆もなく移動となった事に疑問を憶えたのは。「私の場合は…不満ではございません。ですが…何か力不足があったのではないかと思っていたのです」「もっと自分を愛さなければいけないよ」優しく言われて、は藍滌に目を向けた。「自分を?」頷いた藍滌は握った手に目を向けた。その視線を追って、も握られた手を見る。繊細で長い指がの手を包み込んで、温もりを与えていた。ふいには、言われた意味を理解したような気がした。は自信がなかったのだ。相手が王という事も手伝っていたのだが、敬愛する主に対し、恐れとも言えるほどの大きな感情を抱いていた。それが愛情だと分かった瞬間、苦しい日々が待ち受けているのだろう。それを回避するため、無意識に考えないでいたのだった。思い返せば、主の言葉の端々に、自分を気遣う思いが散りばめられていた。そして傍に仕え、常に近い所にいる主に、の心は奪われていたのだろう。それも、今思えばの事だったのだが。今日もそうだ。主のいるであろう東の方角を見つめ、空に黒点が現れる瞬間を待ち望んでいた。舎館で待っていればよかったのだが、今か今かと空を眺めていた。いつの間にやら時は過ぎ、影が伸びている事すら、気がついていなかったのだ。背後からかけられた声だけで、主だと確信を持って分かった。心が軽くなり、色めきたつようだったからだ。「主上は…ご自分を愛しておりますか?」「もちろんだよ」にこりと笑みを見せた藍滌は、包んでいた手を開放して、の頬に添える。「わたしがわたしと言う一個人を愛せるのは、ひとえに愛を注ぐ相手が居るからなのだよ。自分を愛せない者は、人に愛を与えることなど出来ぬであろう?愛する、という事を知らぬのだからねえ」細長い指に絡め取られて、は力が抜けて行くのを感じていた。「主上…」頬に添えられただけの手に熱が篭もり、吸い寄せられるようにして近づく顔を、どうにも止めることは叶わなかった。手は頬を離れて後ろに回り、頭を軽く押されてさらに近寄る。見るも鮮やかな相貌を目前に、の思考は停止していた。口付けられた所から、騒ぐような感情が沸き起こったが、ただ瞳を閉じてその余韻に酔う。藍滌はの頭を胸元に抱え込み、ふうっと息を漏らす。「これで後宮に引き篭もってくれれば、嬉しいのだけどねえ…」「それは…不満が残ります」「何もしなくていいのだえ?」「私も嫌ですもの。主上の身の回りを、他の者に任せるのは」微かに笑った声が上から降り、は紅色の頬を隠すように埋めた。国主の戻ってきた西国の東。範西国は明日も動く。だが、国府に王が戻ったのは、それから三日後だったという。
完
始めこのリクエストを頂いたとき、聞き返しました。
どうも女性を相手にするようなイメージが、とんとなかったものですから…
話し方も難しい☆
なんとか終わって、ほっと安心を通り越して、一気に脱力…したかもしれない
美耶子