ドリーム小説
Welcome to Adobe GoLive 5
襦裙と木刀 =3= 後日、約束を果たすべく、成笙は路門に向かっていた。
官衣を着るわけにも行かず、簡素な袍に身を包んで歩いていると、路門が見えてくる。
はまだ来ていないようだった。
門から少し離れた位置で、壁に背を預けて待つことにした成笙は、一人の女官が歩いて来るのに気がつく。
ふと目をやった先に、浅葱色の襦裙が見える。
「では参りましょうか」
女官はそう言って成笙の前で立ち止まる。
成笙は驚いて目を見開き、その女官を見ていた。
それはまぎれもなくだった。
だが、印象がまったく違う。
髪は丁寧に結い上げられ、唇にはうっすらと紅がさされている。
襦裙の裾をたおやかに靡かせ、清楚な感じに身を包んでいた。
「将軍?」
「あ…すまない。それで?何をすればいいのだ?」
「関弓に降りたいんです」
「降りて何を?」
「街を散策して、お茶を飲んで、買い物をして、とか。他愛もない事です。嫌ですか?」
「嫌も何も、約束したのだからな」
「いくら約束でも、嫌がる事を強要するような事は、したくないんですけど…」
「嫌ではない。が、そんな事でいいのか?」
「はい」
ぱあっと微笑んだは、成笙の手を取って門を潜る。
下山しながら、成笙は握られた手をそのままに、若干の動揺を必死に隠していた。
まったく読めないその心理に、どう対処してよいのやら、皆目検討がつかない。
やがて五つの門を潜り終えた二人は、広がる関弓の街に居た。
随分と活気が戻ったと思いながら、成笙は辺りを見回していた。
「将軍、あっちに行きましょう」
ぐいぐい引っ張られた成笙は、足をそちらに向けながらに言う。
「将軍と呼ぶのは少し拙くないか?街に紛れたいのなら…」
「じゃあ、成笙さま。あっちに新しい店が出たんですよ」
「よく来るのか?」
「さほどは。今日の為に調べていましたからね」
「調べていた?」
「ええ、楽しみましょうね」
にこりと笑った顔に、成笙は心音が跳ねるのを聞いた。
今まで女として意識した事はなかったと言うのに。
普段は着ない襦裙のせいだろうか。
それとも、一本取るためにつかれた嘘のせいだろうか。
いずれにしろ、何やら悔しい感じは残る。
見事にやられたような、そんな感じが拭えない。
戸惑う成笙の手を引きながら、ずんずんと街を歩く。
時折店に入っては、簪や織物を見て堪能している。
その姿は武人らしくなかったが、成笙は何とはなしに、それもいいと感じていた。
「何だ?気に入ったのか?」
綾を織り込んだ絹を手に持っていたは、はにかんだ様に言う。
「あ…いえ。ただ、綺麗だなと思って」
「そうか」
成笙は短く返すと、店主に歩み寄って耳打ちした。
それに気づかぬの周りは、いつの間にか店員が取り囲んでいた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて絹から手を離すの体を、店員たちは計るように触っている。
何事だろうかと思っている内にそれは終わり、は変な店だと思いながら、成笙の待つ場所へと戻って行った。
「ちょっと隣を覗いてみないか?」
「隣はさっき行ったでしょう?」
首を傾げて言うに、成笙はただ無言で微笑み、その手を引き始めた。
隣の店に移動した成笙は、先ほどが眺めていた簪を手にとって見ている。
細工をよく見ようとしているのだろうか、かなり顔を近付けて眺めていた。
「その簪がどうかしましたか?」
「これは、綺麗な細工だな」
「そうですね、とても素晴らしい物だと思います」
「では…」
成笙は簪を手にして奥へと消える。
ややして、小さな紙袋を手に戻ってくる。
「待たせたな」
「いっこうに。買ったんですか?」
それにも答えず、再び手を引く成笙。
そのまま街をぶらぶらと歩いて、適当に時間を潰していた成笙は、思い出したように紙袋を開けた。
きらりと反射したそれを眺めていた成笙は、に向き直ってその頭上に手を伸ばす。
僅かな感触を伴って、結われた髪に簪がささる。
「これは…」
「やはり似合うな」
「ひょっとして、私に買ってくれたんですか?」
「簪は嫌いか?」
「い、いえ…でも…似合いませんから」
「今、似合うと言っただろう?」
「本当にそう思います?」
ゆっくりと頷かれた顔を認めて、は嬉しい気持ちに包まれたが、同時に気恥ずかしいような気持ちも生まれていた。
上機嫌で歩く襦裙の女を、成笙は微笑ましく見守っている。
やがて黄昏が降り始める頃になると、歩きつかれたのか、の歩調はその速度を弱めていた。
それには気がつかずに歩いている、の前方から声がかかる。
「、こっちだ」
ふと気がつくと、いつの間にか成笙は前にいた。
ずっと後方にいるのだと思っていたのだが、成笙は前方に立ち、が追いつくのを待っている。
追いつくとそっと手が握られ、は引かれるままに歩いた。
やがて、一度入った店に着く。
が絹を見ていた店だった。
「お待ちしておりました。同じ絹で作った物でございます。きっとお似合いですよ」
にこりと笑った店主は、に目を向けていた。
何を言われているのか理解できなかったは、先ほど見ていた絹と同じ色の襦裙を手渡される。
「さ、こちらへどうぞ」
奥に連れて行かれて、それを着るように言われる。
「え…でもこれって売り物でしょう?」
「先ほどお連れ様がお買い上げに。ささ、どうぞ」
それだけを言い残して消えてしまった店主。
は戸惑いながらも袖を通す。
さらりとした心地よい感触が身を包む。
着終わった頃になると、店主は戻ってきてを見て頷いた。
「とても良くお似合いですよ」
「そ、そうですか?」
綾の織物は酷く滑稽に見えはしないだろうか。
色鮮やかなものなど、着る機会もないにとっては慣れない色合いだった。
半ば恐ろしい思いを抱えながら、成笙の許へと戻って行く。
しかし反応を見るのが怖くて、その表情を伺う事が出来ないでいた。
結局顔を見られないままに店を後にし、は顔を俯かせて歩いていた。
「そろそろ戻るか?」
そう言われて、はっと顔を上げる。
「やっと顔を上げたな。気に入らなかったか?」
は慌てて首を振って言った。
「とても嬉しいです。ありがとうございます。でも…私にはもったいない…しとやかな女なら似合ったのだと思うのですが…」
少し寂しそうに言うに対し、成笙はそんな事はないと断言した。
「だって…いつも木刀を振り回しているのにですよ?」
「は禁軍にいるのが嫌か?」
「そんな訳、ないじゃないですか」
「では軍に所属する自分は嫌いか?」
「嫌いじゃないですけど…」
「しとやかになりたいのか?」
「それも、何やら違うような…」
どう言って説明すれば良いのか、は考えあぐねていた。
すると成笙がぽつりと漏らす。
「綾の絹もに負けてしまって、色褪せて見えるほどだな」
「え?」
驚いて見上げた先に、成笙の顔はなかった。
瞬時に後ろを向いたのだろう。
背だけがを見つめている。
「それは、どうゆう意味ですか?」
「綾の絹よりも、は綺麗だと」
一度そこで言を切った成笙は、振り返ってを見る。
軽く開かれた瞳に、動揺がはっきりと読み取れた。
それを確認してか、にやりと笑った成笙。
はからかわれた事に気がついたが、頬に黄昏を映しながら言った。
「酷い冗談です」
「そうか?」
「そうですよ。酷いです、とっても」
「何しろ好きだと言って一本取られたのだからな。これくらいの報復は覚悟しての事だろう?」
では、仕返しと言う訳だったのだ。
わざわざ簪と襦裙を買ってまでして、報復するほど悔しかったのだろうか…。
いや、それよりも…
「本当に、酷い…」
うっかりとそれに嵌って、喜びそうになった自分がこの上なく恨めしい。
「?」
呼ばれても顔を上げることなど、今のには不可能な事だった。
往来の真っ只中に立ち止まってしまった二人は、押し黙ったまま時が過ぎて行くのを感じていた。
やがて黄昏はその姿を潜め、街は夜の灯火を揺らせていた。
ふいに手に感触を感じた。
引かれるままに歩き出したが、相変わらず顔は伏せたままだった。
しばらくして、成笙の声が響く。
「言っておくが、俺は冗談を言う趣味はないからな」
それから、と言い置いてさらに声を発する成笙。
「丸一日という約束だったな。まだ時間はあるが、どうしたい?」
俯いたままのは、それに小さく答えた。
「ご迷惑をおかけしました。もう、ここでいいです」
「欲しい物は手に入ったか?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。私は成笙さまの時間を下さいと言いました。だから、もう充分です」
「こんなものでいいのか?本当は欲しいものが他にあったんじゃないのか?」
言われたは少し目を開いて足元を見ていた。
何が欲しいのかを隠して、一緒に街に来たのだと思ったのだろうか。
遠慮と取られたのか。
だから色々買ってくれたのだろうか。
「本当に欲しいものは…」
は言いかけた声を呑み込んで、語尾を弱めていった。
とても言える様な心境ではない。
惨めだと思う。
慣れない襦裙に、そぐわない簪。
着飾る事など滅多にないのだから、見慣れないのは当然だが、こんなにも惨めな気分になるのだとは思ってもいなかった。
軽口に敏感な反応を見せ、些細な仕草が苦しくなる。
こんな筈ではなかった…。
もっと楽しい一日になる予定であったと言うのに。
「。一年も頑張って来て、本当に欲しいものを言わないのか?」
「ちょっと、卑怯だったかなって…思いますので」
「関係ないと言っただろう?」
「…」
「?」
「言えません…」
こんな心境では。
成笙が好きなのだとは、とても言えない。
もっと襦裙が似合う容姿を持っていれば。
あるいはもっと素直であれば、言えたかもしれないが。
「言いたくないか…襦裙でも簪でもないのは分かっていたが…」
気遣わせた事を感じ取り、は慌てて言う。
「嬉しかったんですよ、とても。でも…やっぱり私には似合わない」
「似合うと言っただろう?自分が見慣れないからといって、人の目までもが同じだとは限らないだろう。いつもの自然な感じも健康的で良いが、襦裙姿のもとても良い。だから…」
成笙はに目を向ける。
相変わらず俯いたままのは、無言になった成笙を気にしている。
だがそれは気配だけで、視線は足先に集中しているようだった。
「顔を上げないか」
はそのまま首を横に振った。
悪気はなくとも、もう一度笑われたり、からかわれたりすれば、もう泣いてしまうかもしれない。
そう思うと顔を上げようなどと、まったくもって無理な話だった。
「俺に言われても嬉しくないか…」
ふっと吐かれたため息は、の前髪を掠めて闇に解ける。
嬉しくないはずがない。
それが真実、成笙の思っている事ならば。
冗談や偽りではなく、本心であるのなら、これ以上の喜びはないだろう。
「お気遣いなく…私は武人ですから、襦裙や簪が似合わなくても気にしてません。将…成笙さまに一本取れたのですから、それを糧に精進するのみです」
「気遣っている訳ではないんだが…似合うと思ったから簪を贈ったのだし、襦裙ももっと着て欲しいと思った。だから是非を問わずに無理に渡したのだが…気にいらないのなら、返してくれても構わないぞ」
「気にいらないなんて!」
勢いよく顔を上げてはそう叫んだ。
「やっと顔を見せたな」
はっと気がついたは、慌てて顔を伏せようとした。
だが何かに引っかかって、顔を下に向けることが出来ない。
確認するまでもなく、それを阻止していたのは成笙の手だったが、頬に黄昏を呼び戻したは、どうしていいのか分からないまま固まっている。
ただ、うろうろと目だけが動いていた。
「ひ、人が…」
「誰もいない」
その言でようやく辺りの様子に気がつく。
明かりは何処にもなく、喧騒もない。
行きかう人もいない事にようやく気がついた。
少し開けた閑地のような場所にいたのだった。
「本当に欲しいものを言ってみろ。何のために一年も頑張って来たんだ?」
「何故それほどまでにお聞きになるんです?成笙さまのお時間を下さいと、そう言ったではないですか…」
「では、本当にそれが欲しいものだと言うんだな?」
確認するその顔には、何処にもふざけた様子がない。
もちろんからかうようでも、軽蔑している様子もない。
真実が知りたいのだと、瞳が訴えている。
闇夜に溶け込みそうになっている成笙を見ながら、は小さく、しかし確実に頷いた。
「それは何故かと聞くのは…酷な事だろうか?」
「はい…」
すっと成笙の手が離れて、の顔は解放された。
「許せよ」
成笙はそう呟いて、の背後に向かう。
は俯いていくと同時に感じていた。
一つの区切りがついたと。
淡く抱いていた恋もこれで終わった。
一年間追い続けた人物は、その思いを受け取り、その上で返されたのだと思った。
でも、今日は思い出をくれた。
それは駆け引きで勝ち取ったものではあったが、元より承知の事だったのだから後悔はしまい。
だが、今だけは泣いても許されるだろうか?
あっけなく幕を閉じた恋を、弔って泣く事ぐらいは許されるだろうか?
気使わせるのを嫌うのなら、泣くべきではない。
心の根底ではそう思っているのに、涙は表面上に現れた意思を尊重して、独りでに溢れていた。
なんとか声を押し殺そうと、が唇を噛んだその瞬間。
強く後ろから抱きすくめられる。
背後に気配はあったのに、それが動いたのにはまるで気がつかなかった。
それが自失しているせいなのか、成笙の将軍たる所以(ゆえん)なのかは判断出来ないが、あまりの行動に涙は止まっていた。
「誤解であるのなら、許せよ。都合の良い様に解釈したからな」
締め付けられるような感触に、は何と形容して良いのか分からなかった。
しかし戸惑うを無視して、ますます成笙の腕に力が篭められる。
褐色の肌と、綾を織り込んだ絹だけが目に映り、ただ包まれるだけのの心中にも、綾が織り込まれていく。
「綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)だな。武人にしておくのが勿体無い」
跳ねる心音を押さえ込んで、はそろりと問う。
「それは…武人には向かないと言う事ですか?」
「いや。そうではないが…。着飾ったは閉じ込めたくなる。こうして腕の中に、いつまでも」
押さえ込もうとしても、もはや心音は大きく鳴り響き、その体までをも揺さぶっている。
気づかれまいかと心配する余裕すら、今のにはなかった。
「将軍…」
「一本取られた時…好きだと言ったのが、その為だけだと思った時には少し憤慨したが、そうではないのだな?そう…誤解したのだが?」
「誤解じゃない…。少しでも気に留めてもらいたくて、勝負を挑んで行ったんですから。あの時の言葉に、嘘なんてないんです。本当は今日、言うつもりだったんですけど…他に何も思いつかなかったから。だって、将軍の気配だけで、私の心は揺れるんですから…気配を消すことなんて、無理なんです。無理なら正面からぶつかるしかないのに、正面から向かって敵うわけないし、苦肉の策でした…でも、作戦に便乗しなければ言えなかったと思います」
「。今まで気がついてやれなくてすまない」
「そんな。どうして謝るんですか?」
「俺も同じ気持ちでいたからだ。一本取られるまで、自分の感情にすら気がついていなかったんだからな」
「それは…本当に?本当の事を言っています?冗談ではなくて?」
「冗談は言わんと、先ほど教えたように思うが?」
は抱きしめられている成笙の腕をぎゅっと掴んで、その言葉を噛みしめた。
胸中は相変わらず大騒ぎだったが、もう、それもどうでもいいように思えた。
後ろから顎を引き上げられ、口付けが落とされると、それは飛んで弾けてしまいそうになる。
「俺の完敗だな」
ぽつりと呟かれた言に、の顔が上がる。
すっと腕が解かれて、体が少し前へと出るが、それはすぐに引き寄せられて、再び成笙の腕の中に帰ってくる。
先ほどと違うのは体の向きだけだった。
正面に成笙の顔がある。
は気恥ずかしく思いながらも、その顔を見上げていた。
「どうゆう意味ですか?」
何に対して完敗なのだろうか。
煩いほど胸が騒いでいるのは、自分のほうなのにと、は思って聞いた。
「今日のような格好で来られると…どうにも太刀打ち出来ない。俺は自分が女に対して、物を贈るような人間だとは思ってなかったんだが…」
困ったように言って、成笙はの頭を軽くたたく。
「あの…本当に変じゃないですか?見慣れないと思いませんか?」
「見慣れてはいないが、似合っていると思う…その…目が奪われるとは、この事なんだろうな」
そっとの手を取って、自分の胸に引き寄せる。
掌から伝わる成笙の鼓動は、と同じような速度で鳴っていた。
「早い…将軍が?まさか…」
小さく言ったのだが、近距離であった成笙に聞こえないはずがない。
それを誤魔化すように、再び顎が持ち上げられる。
解けてしまいそうな口付けを受け、は体を成笙に預けた。
お互いの鼓動が早鐘を打っていたが、それと同時に深い幸福感が押し寄せていた。
「夢みたい…。でも、夢でもいい。今日が終わるまで、将軍の時間は私のものですもんね」
「そうだな」
軽く笑った表情を見せ、成笙はの手を引いて、関弓山へと向かって歩き出す。
帰ってしまっても一緒にいてくれるのだろうかと、まだ危惧するは何も知らなかった。
今日が終わるまでは絶対に離さないと誓った、成笙の心の内など。
街の明かりを背に、二つの影は国府へと消えて行った。
|