この世の誰よりも、幸せになって欲しい。わたしはそう願ったんだよ。今は消えてしまった君に…伝えたかったのは、ただそれだけ…
中華人民共和国・北京には、かの有名な天安門広場があった。赤銅色の建物と、緑の木々が異国情緒を引き立てている。そして今そこには、五星紅旗を見上げた一人の日本人が立っていた。見上げた五星紅旗は強い風に翻り、さらにその上に見えている空には鈍色の雲が垂れ込めようとしていた。「歴史文化都市…凄い」「、雨が降りそうよ」「あ、待ってお母さん。もうちょっとだけ…」がそう言った矢先、ぽつりと頬に冷たい感触が降り立つ。雨だと思った瞬間、鳴り響く雷鳴。蜘蛛の子を散らすように駆け出す人々の群れ。「お母さん!」逸れまいと手を伸ばしたの視線の先に、閃光が舞い降りた。「きゃ…」一瞬、目が眩んだ気がした。しかしその後には強い衝撃が全身を襲い、大きく弾かれる感触があった。言葉を出す事も叶わず、の意識は遠のいて行った。 薄く開かれた瞳に映りこんできたものは、眩いまでの蒼穹だった。頬を打つ波に意識が覚醒される。「うっ…」小さな呻きをあげて、は体を起こした。ぐらりと傾く体を不思議に思い、地に手を着きながら顔を上げると、頂上が見えないほどの山の麓に居る事が分かった。山は急斜を描き、気を抜くと滑り落ちてしまいそうだ。「高い山…どうしてこんな所にいるのかしら…?」どこか安定した場所に移動しなければと思ったは、辺りを見回す。「え?」ふっと視界を通り過ぎた海に異変を感じ、再度見ようと顔を捻ったは、そこに信じられないものを見る。「黒い…?まさか」海は黒く輝いている。一瞬、目がおかしくなったのかと思った。しかし四方へ向けられた視線は、他の正常を映しだし、海の異常さを物語る。黒く不思議な瞬きを見せた海を、もちろんは知らない。切り立つようにそびえる山、黒色の海。「ここは…何処?」固まったように動けないでいたの足元を、黒い波が遊んでは消えていく。背後にそびえる山はもちろん、何も答えてくれない。見える先には黒い海しかなく、後ろの山には足場の良さそうな場所もなかった。これでは何処にどう動いて良いのか分からない。どうすれば良いのだろうかと、は泣きそうになりながら考えていた。しかし、何もいい考えが浮かばない。次第に混乱し始める思考。「お母さん…」ぽつりと呟いた言葉に、はっと息を呑む。「そうだわ…お母さんは?何処に行ったのかしら…」きょろきょろと辺りを見回すが、やはり何も見つける事は出来なかった。「お母さん!お母さ〜ん!!」立ち上がって、先ほどよりも大きな声で呼んでみる。「お母さん!何処にいるの!!!お母さん!やだ…何よ…ここは何?…お母さ!――――――――きゃ!」涙で煙った視界のせいか、は足を踏み外した。ずり落ちながらも山に爪を立てるが、抵抗むなしく海へと落ちていく。黒い海は思ったほど冷たくはなかったが、それでもの心情は混乱を極めようとしていた。叫ぼうにも口に海水が入り込み、ごぼごぼ言うだけだった。「――ま――て―――――く!」誰かの声が耳を掠める。「早く、掴まって!早く!!」は力の限り手を伸ばして、見えない声の相手を探った。手を掴むような感触の後、引き上げられる体を感じる。「げほっ、げほっ!」むせ返る背中をさする感触がしたが、どのような人物かと確認する事も出来ず、何かの背にうつ伏せたまま、咳を続けていた。ようやく収まりかけた頃、目を開けてみると、白と黒の縞模様が見える。海が遠くなっている事に気がつき、は大きく目を開いた。「大丈夫かい?」上から降る若い男の声に、うつ伏せたまま首を捻ると、蒼穹に影が映った。さらりと流れた黒髪が映り、豊かに揺れる衣服が頬を掠める。「気をつけて、もう空の上だから」差し出された腕を支えに、体制を直したは、何も言えないまま辺りを見回す。背後にあった天を貫く山は横に移り、黒い海は遥か下方に広がっていた。「空…を…飛んでいる…?」虎のような獣が、空を駆けていた。信じられない思いは当然の事、驚愕して声も出せない。 どれほどの距離を飛んだのだろうか、白と黒の獣は地に足をつけた。「君は山客だね?」は首を傾げて声の人物を見た。男は空に字を描いて説明する。「山の客と書いて、山客。崑崙から来た人の事だよ」「中国から来た?日本語を話しているのに?」「ん?…違うのかな?どこから来たの?」「何処からって…?日本からよ。中国はここでしょう?」「残念ながら、ここは崑崙ではないよ。名前は?」「名前は……」「?それが名前?」驚いた様子の表情に、どう反応していいいのか困る。「あの…何か…?」「あ、ああ、いや。何でもない、気にしないでいいよ」とにかく、と男は言って、の背を押した。「そのままでは風邪を引いてしまうよ。服をなんとかしなくてはね」「で、でも…」「いいから」押されるままに歩き出したは、喧騒の漂う街が目前である事に気がついた。その街並みは、の見た中国とは違った。近代的な建物ではなく、昔風である。しかしそれが中国かと聞かれると、違うと言えよう。何処がとはっきり言える訳ではないが、北京市内とはまるで違う。かと言って、天安門を初めとする、歴史的建造物とも一致しない。利広だと名乗った男に着いて、訳も分からぬまま歩き続けた。街に入ってしばらく歩くと、宿らしき場所に辿り着く。利広は迷わず中に入り、中にいた者に二言、三言をいいつけてを振り返る。「着替えるといいよ。それからもう少し、詳しく聞かせてくれるかな?崑崙…じゃないのか…。蓬莱の話を」は頷いていいのかも判断出来ず、ただ指された先を見た。そこには女の店員がにこやかに立っており、を待っているようだった。そちらに歩いていくと、背を押されて部屋へと案内される。簡素な部屋だった。寝るためだけに用意されたような部屋で、彼女の寝所だろうかと質問をした。しかし、言葉が通じないのか、女は首を傾げてを見る。ややして頷き、着物を取り出した。着物を指して何やら説明をしているが、何と言っているのか理解する事は出来ない。お互い分からぬ言葉で聞きあい、ややして諦め、身振りでなんとかその場を過ごした。渡された物の着方が分からず、苦労していると手を添えて教えてくれる。なんとか着替え終わると、女は部屋から出ていった。「ここに居ればいいのかしら…」がそう呟くと、女はすぐに戻って来て、小さく頭を下げた。次いでの手を取り、歩き始める。先ほどとは違う部屋に通され、そこに利広が居るのを見つけると、ほっと大きく息を吐いた。言葉の通じる人物がいるのが、とても安堵感を招いていた。女は利広に何かを言い、それに笑った利広はを見た。「彼女がごめんなさいって」「え?どうして謝るの?」「着いて来てって言ったらしいよ。後ろから来ているものとして歩き始めて、すぐに取り残してきた事に気がついて、慌てて戻ったんだって。謝ったけど分かっていないようだったから、再度謝ってほしいと」は納得して頷いた。「私の方こそ、分からなくてごめんなさい」女に向かっていった言葉を、利広が同じように言って彼女に伝えた。彼女は笑ってそれに答え、一礼をして退出した。
続く
シリーズにするのに、あまり深い意味はなかったのですが…
一応、太陽編のヒロインさんも登場します。
お話が続いている訳ではなく、設定が続いていると言った所でしょうか。
あとはイメージですね。「太陽と月」の対比と言った感じです。
美耶子