ドリーム小説
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吟酔 =1= うだるような暑さが、雲海の上にまで広がりを見せていた。
「慶でこの暑さなら、南の国は一体どうなんだろう」
そんな事がささやかれているここは、金波宮の夏官府である。
厚い甲冑に身を包んだ兵卒の、小さな嘆きであった。
「暑いわ…」
春官府の一郭で呟く女官。
名をと言った。
小さな祭祀が数日後に控えており、大宗伯に命じられて夏官府へ使いに行く予定でいるのだが…
「まったくだ。ああ、宵の頃に吟酔(ぎんすい)でも飲んで涼みたいものだな」
横から同僚が同意して言った。
「吟酔?」
「ああ。麦州の特産で軽い酒だ。不思議なことに、体を冷やす効果があるらしいぞ」
「へえ、お酒なのに凄い効果だわ。そんないいものがあるんですねぇ」
言いながらも、袖を扇子代わりに仰ぎ、顔に風を送り込む。
「、なんて締まりのない顔をしている。それでは夏官府でご不況をかってしまうぞ」
ふと咎められた声に動きを止め横を振り向くと、そこには新たな入室者が立っている。
「だ、大宗伯!申し訳ございません!」
締まりのない格好を改め、しゃんと立った女官に、大宗伯は苦笑しながら言った。
「ではこの書状を大司馬に」
は大宗伯の差し出した書状を、頭を下げながら恭(うやうや)しく受け取った。
顔を上げると大宗伯に微笑みかけ、行って参りますと元気良く言う。
大丈夫かと問いたげな大宗伯をそのままに、春官府を後にした。
暑い日射しを避けながら、夏官府へと辿り着いた。
大司馬へ取り次ぎを依頼すると、閑散とした房室に通された。
中にはいくつかの冬器が壁に立て掛けてある。
「すぐに呼んで参りますので、しばしお待ちを」
「はい」
頷くと夏官はすぐに退出し、房室にはが一人取り残される。
する事もないので、普段はあまり見ることのない冬器を見に、壁際へと寄っていった。
「これは鉄槍?」
鈍い光沢を放つ鉄槍を見上げ、その左右にも視線を送る。
半月の槍や、満月の槍もあった。
手入れしたばかりで、これだけの光沢が出ているのか、もとよりそういった物なのかは知らない。
ただ磨き上げられた武器は高潔であるようにも見えた。
あまり冬器に詳しくないは、それらの名前は知らなかったが、身丈よりも高いそれをぽかんと眺めながら時間を潰す。
ややして駆けてくるような足音に、は扉の方に体を向けた。
大司馬だろうかと待ち受けていると、男が勢いよく飛び込んでくる。
「ああ、やはりここに通したのか」
男がそう呟くように言うと、扉が自身の重みで自然に閉まる。
その振動が床を伝って足に響いた気がした。
「ここは危な…」
男がそう言った瞬間、振動が少し大きくなった。
扉はすでに閉まっているのに、何だろうかと不思議そうな表情になる。
それと同時に踏み出された男の足。
「危ない!」
男は目がけて突進している。
驚いて目を見開いた。
その視界が暗くなったのは刹那の後。
「え…?」
背後から忍び寄る影に気がついた時にはすでに遅く、あえなく鉄槍の下敷きになっていた。
がたがたと大きな音が房室に響いたが、は悲鳴を上げる間もなかった。
大きな衝撃の後、ぐっと押さえつけられる感覚はあったが、くらくらと目が回っていて、何がどうなっているのか分からない。
瞳が開けられているのか、閉じられているのかさえ分からなかった。
「おい、大丈夫か!」
男の声が遠くに聞こえたが、まだ目が回っており、視界は黒いままだ。
急激に圧迫感がなくなり、抱き起こされる感覚がした。
何が起きたのか理解できていないまま、は薄く瞳を開ける。
ぼんやりとした視界に、覗き込む顔があった。
「…」
「大丈夫か?俺が見えるか?」
声の方を見る。
数回目をしばたいて、再度男をじっと見つめた。
「…はい」
そう言うと、ほうっと大きな息が額にかかった。
「申し訳ない。ここに通したと聞いて慌てて来たんだが…危惧した通りになってしまった。磨いた冬器をここに立て掛けておいたんだ。誰も出入りしないとふんでいたんだが…」
「も…申し訳ありません」
まだはっきりしない意識のまま謝ったは、ふいに体が浮いたような気がした。
「え?」
抱きかかえられたまま、移動をしている事に気が付く。
「あ、あの…」
「訓練なんかで倒れた時に休むための休憩場がすぐそこにある。少し寝ていたほうがいい。目が回っているだろう?」
言われて宙を見据える。
じっと一点を見据えていると、視界は上へ上へと移動を続けており、瞳を閉じなければ酔ってしまいそうだった。
「う…」
急に気分が悪くなったのか、抱えられたままで身を縮めるような仕草をする。
「痛い所は?」
「だ…大丈夫です」
「本当に大丈夫か?」
「は…い。恐らく…」
弱々しい微笑みに、不安気な気配を見せる男。
しかしそれ以上瞳を開けていることが出来ず、ぎゅっと目を閉じて堪えようとして、男はの視界から消えた。
「うっかりしていた。俺のせいだ…」
休憩場に着いたのか、揺れがぴたりと止まる。
扉の開く音が聞こえ、次いで柔らかい牀(しんだい)の上に、丁寧に置かれたのを感じた。
そっと瞳を開けてみる。
視界はさきほどより安定を取り戻したようだった。
「大宗伯からの書状を持った春官があの房室に入ったと聞いて、急いで向かったんだが…かえって惨事を招いたようだ。本当に申し訳ない」
男の言葉に、は急激に用事を思い出し、慌てて起き上がった。
「そうだわ!大宗伯、の…」
ぐらりと回り出す視界に加え、気分の悪さが倍増した。
「駄目だ、寝ていないと…しばらく安静にしていたほうがいい」
「申し訳ございません、ですが大宗伯の…」
「書状なら俺が預かろう。責任を持って大司馬にお渡ししておく」
そう言った男に、は訝しげな表情を向けた。
「失礼ですが…?」
「ああ、名乗るのを忘れていたな。ええっと、禁軍の将軍を勤めさせて頂いている、桓タイと言う。将軍では駄目だろうか?」
「しょ…将軍であらせられましたか!」
「おっと、起き上がらなくていい」
制されて起こしかけた身を再び牀に沈める。
「これから大司馬に申し上げねばならない事があるので、一緒に渡す事が出来ればゆっくり休んでもらえる事だし…どうだろう」
そう言われて、は少しの間逡巡した。
しかし将軍と名乗った男の人柄を信用する事に決め、袂から書状を取りだして渡す。
「では、将軍。よろしくお願い致します」
「確かに、賜った」
桓タイはそう言うと牀から離れた。
しかし振り返ってに言う。
「また様子を見に戻ってくる。え〜と…」
「あ…と申します」
「じゃあ。ここには誰も来ないように言っておくから、しばらく眠るといい」
退出していく桓タイを見送る。
その頃には視界の回転は収まっていた。
牀の上で、まだぼんやりする視界のまま、はじっとしていた。
何がどこに当たったのか、まるで覚えていない。
これだけぼんやりするのだから、頭をぶつけた事には違いないだろうと思い、そっと手で探ってみた。
「あ…」
右上の方に大きなたんこぶがあることに気がつく。
「間抜けだわ…あまりにも間抜けすぎる…」
そう呟くと、今度はおかしさが込み上げてきた。
鉄槍を受けて転んだ自分の姿を想像してしまったのだ。
笑った振動で頭が動くと、たんこぶが布にこすれて痛みが走る。
反省したように大人しくなったは、そのままじっと動かないようにして瞳を閉じた。
その為、寝不足でもないのに、微睡むような眠りに誘われていった。
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