ドリーム小説
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千草の糸 =1= 暁降(あかときくた)ち―――染まる空を見上げていた女は、目を手首に向けた。
今は色彩の消えてしまった千草色の糸を確認し、そっとなぞる様に触る。
ややして歩き出した女は、雲海の見える庭院に辿りついた。
しばし追懐(ついかい)に身を置く。
小さい若を連れて逃げた林。
飛び込んだ北の海。
流れ着いたこの国で眺めた雲海。
亡国に囚われた二つの心。
同じ魂を持つ男。
互いが互いを求めているのに、その手を取るのに五十年以上の年月を要した。
ただひたすら優しく、抱きしめられた強い腕。
何度も落とされた口付け。
『、手を』
そう言われたのは数刻も前、まだ月華(げっか)の中だった。
千草色の糸は、二つの魂を結ぶ。
一方が切れると、もう一方も切れ、互いの場所を指し示す呪の施された糸。
と尚隆を繋ぐ糸。
「不思議…」
静かに打ち寄せる波に目を向けて、そのまま涼しい風に身を晒す。
穏やかな朝であった。
初めて玄英宮に来た時も、こうして庭院の露台にいた。
遥か彼方にまで続く景観を眺め、暗闇にさざなむ波音を聞いていた。
その後呼ばれて出会った男は、同じ蓬莱から来た者だった。
菱紋の意を知り、同じ思いに苛まれた瞳を持っていた。
小松最後の君主…この国の王。
物思いに耽っているの耳に、ふと音が飛び込んできた。
聞いた事のない旋律ではあったが、何処か物悲しい、琴のような音色。
振り返って音の出所を探す。
庭院の隅のほうから聞こえるその音に、引き寄せられるようにして歩いて行った。
音は徐々に大きくなり、その旋律ははっきりと聞こえてくる。
そして、寂寥(せきりょう)の音に混じって幼子の声がする。
「…。…。…て…」
驚いて辺りを見回すが、何も見つけることは出来なかった。
やがては旋律を超えて、声の音量が大きくなっていく。
「痛いよ、。助けて…助けて…」
はその声を覚えていた。
もう遥か昔となったはずの、忘れえぬ声。
「わ…若様」
突然脳裏に映像が現れる。
薄暗い寺。
諦めた表情の義隆。
おびえて震える義尊。
白刃が光る。
「やめて…!」
両手を頭に添えたまま、はその場に崩れ落ちた。
後には静かな雲海の漣だけが聞こえている。
「―――――。!」
ふっと目を開けると、尚隆の顔が間近にあった。
「主上…」
尚隆は眉を顰めていた。
戻ってきたはずの言葉はかき消され、諫めるための言葉が還ってきている事に対してだった。
「何があった?」
「い…いえ…」
辺りを見回すに、尚隆は訝しげな視線を投げている。
言ったものかどうかを悩んでいるようだった。
「もう一度聞く。何があった?」
いつもなら、誤魔化したことを追及しないはずの尚隆が、珍しく再度問いかける。
しばらく逡巡した後、の口が開かれた。
「眩暈が…恐らく、ですが」
「恐らく?」
「ええ…雲海を眺めていたのです。その後…何故この場所に来たのかは覚えていないのですが、眩暈がしたような気が致します」
尚隆は安堵したかのように息を吐き、の頭を抱え込んだ。
「そうか…。昨夜は寝ておらんからな。今日は休むがよかろう」
「いえ。もう大丈夫ですわ」
「だが…」
言いかけた尚隆を制して、は立ち上がる。
微塵にも眩暈を感じていない事を、証明して見せるために動く。
「大丈夫なのだな?」
再度念を押して言う尚隆に、にこりと微笑みをもって返した。
「では、あまり無理をしないようにな」
「はい。どちらかに行かれるのですか?」
「朝議だ」
少し嫌そうな顔をしてみせる主に、はくすりと笑い言う。
「まあ。珍しいこと」
「お前な…」
軽やかな空気になり、はその場を離れようと歩き出す。
「」
呼び止められたは、立ち止まって振り返った。
「はい?」
「何かあったのなら、すぐに言え」
「はい」
再び微笑んで消え行くを見送りながら、尚隆は深い息を漏らした。
「主上と呼ぶか…」
五十年もの間、そう呼んでいたのだから、咄嗟に出ただけなのだろう。
だが主上と呼ばれただけで、一度掴んだ物がすり抜けていったような気がした。
しかしもう、諫める必要もない。
過去に囚われる念が、まだそれほどまでに強いと言うのなら、昨日の時点ではっきりしていただろう。
ただ腕に抱いただけの女の残像は、やはり儚いものであった。
腕に抱くにはあまりに儚く、陽炎のように消えうせてしまいそうだった。
「ふっ…」
一人自嘲的に笑って、尚隆は朝議に向かって行った。
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