ドリーム小説




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千草の糸


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その日の夕刻。

は王に呼ばれて正寝に来ていた。

「来たか」

「いかがなさいました?」

尚隆は細かく観察しようとその顔を凝視していたが、そこにはいつもと変わらぬ笑みがあるだけだった。

凝視したまま何も言わない尚隆に対し、は不思議そうに見つめ返す。

「…。は地官の仕事が好きか?」

「え?はい」

すぐに返ってきた返事に、尚隆は頷いて言う。

「先だって各官府で移動があっただろう」

「はい。私も危うく大司徒を拝命いたしそうになりましたから、よく覚えておりますわ」

「危うく…。大司徒になるのは嫌か?」

「まだ人を引っ張っていくような自信がございません。それに次官のままであった方が、身動きが取れてようございます」

「そうか…改めて大司徒に、と思ったのだが。もしくは他の役職はどうだ?」

はしばし考え込む。

再度、他から声がかかっているのだろうか。

心当たりがあったは、あれこれと思い浮かべていた。

朱衡や帷湍ら六官の長が移動する時、の移動も密かに囁かれていた。

帷湍について、天官になるのではないのだろうかと囁く声も多かったが、これを機にと各方面から動きがあった。

帷湍から頼み込まれたと聞かされたり、直接声をかけられたりと様々ではあったが、あまりの声の多さに答えることが出来ず、結局慣れ親しんだ地官に留まると言って、すべてを断っていたのだった。

「いずこからか…お声をかけていただいているのでしょうか?」

「いや…他の官府にと言うことではないのだがな」

「他の官府ではない、とは?」

「三公か、もしくは王后だな」

の顔は見る間に驚愕の形相に包まれ、絶句して何も言えない様子だった。

「そんなに驚く事か?できれば後宮に入ってもらいたいのだが?」

「恐れ多くも主上」

はそう言い置いて、その場に跪いた。

「実務から離れてしまうのは、私にとって本懐ではございません。できる事なら…このままの位置でお使い下さいませんか」

「…分かった」

尚隆は口を噤もうとしたが、立ち上がるを見ながら、次いで言を発していた。

「では、後宮に住まいを移すと言うのは」

「後宮に、でございますか?」

「そうだ。出来れば安全な所にいてもらいたいのだが」

「はい…そうゆう事でしたら」

胸を撫で下ろしたい気持ちを隠しながら、尚隆は立ち上がっての傍へと近づく。

何事かと見守っているその瞳を、大きな胸が覆って隠した。

「どう…されたのですか?」

「なんでもない。嫌か?」

「嫌では…ございませぬ…。ですが、あの…」

胸元に押し付けられるような感触がして、尚隆は顔を下げてを見る。顔を伏せて表情が伺えぬようにしている。

だが朱に染まった耳だけは、どうやら隠しきれなかったようで、その表情がありありと思い浮かぶ。

ふと笑って、尚隆は体を離す。

顔が表に出てしまい、焦った様子のは、急いで尚隆に背を向けた。



呼んでみるが、当然のように振り返りはしない。

後ろからそっと手を伸ばせば、嫌がらずに再び腕の中に戻ってくる。

背後から覗き込めば、自分のとった行動を後悔する顔と行き当たる。

昨夜何度も口付けたと言うのに、まだ恥ずかしいのかと思いながら、尚隆は朱に染まった顔を見ていた。

「五十年も待った。これ以上待てない…のだが。心の準備がないようだからな。今日は止めておこう」

何を、とは言わなかったが、それを受けてますます頬が暑くなる。

「ただ…もう少し付き合え」

尚隆は抱いていた手を離し、榻へとを引いていく。

そのまま腰を降ろし、自分の上にを乗せて満足げに微笑んだ。

「尚隆さま…お、お隣に座らせて下さいませ」

ふと呼ばれた名に反応した尚隆は、自分の上に乗せていたの腰に腕を回し、力を篭めて抱きしめる。

もう呼ばれないのではないかと、危惧した事にはならなかったようだ。

「駄目だ。早く慣れるのだな」

「な、慣れ…慣れますでしょうか…」

「今更恥ずかしがらずとも良いだろう?一緒に寝た仲ではないか」

「寝て?…い、一緒に寝てなどおりませぬ!」

「五十年前」

ぽそりと言われ、は急激に思い出した。

忘れていたが確かに五十年前、一緒の衾褥で寝た記憶がある。

が後宮で治療を受けていた時だ。

「お疲れで、眠ってしまわれた時ですわね」

くすりと笑って言うと、したり顔が返ってくる。

「そうだ。明け方にが、俺の顔で遊んでいた時だな」

「お…起きてらしたのですか!?」

何も言わずに尚隆の手がもち上がる。

「この指が…」

の手を取り、自分の口元に当てる。

「こう当たって、引いてしまった。逃がさないように引き寄せたかな、確か」

「そんな事まで覚えておられるのですね…」

これ以上赤くなりようのない顔を、逸らす場所も見つからずに、は横を向いてやり過ごした。

その顔を引き寄せた手は、暖かくを包む。

寄せられるまま閉じた瞳。

与えられる優しい口付け。







その時―――――







びいぃん







何かの弦が弾ける様な音が、の脳裏に鳴り響く。

「あっ…」

片手で頭を抑え俯いた顔。

「どうした?」

「あ、いえ。何やら耳鳴りが…」

「耳鳴り?」

「でも…気のせいでございます。もう聞こえませんから」

そうかと言った尚隆は、の体を再び引き寄せる。

抱きしめたまま榻に崩れ落ちようとしている体制に、は焦って力を入れる。

「尚隆さまっ」

「…」

この場の空気に乗じて、そのまま押し倒そうとしていた尚隆は、諦めて身を起こす。

を引き起こし、その顔を覗き込んだ。

「今日はこれくらいにしておいてやろう。胸が破裂してはいかんからな」

「も、申し訳ございませぬ…」

何やら情けない声で言うに、尚隆は大きく笑って問う。

「あまり男に慣れておらんな」

「それは…お勤めがございましたから」

「縁談はなかったのか?」

「多少はございましたが…。色々と騒動もございましたから、それどころではなかったのです。何より若様が私以外に慣れぬ方で、ずっとお傍についておりましたから」

「羨ましい限りだな」

「まあ、何を仰いますか。そうゆう尚隆さまは…」

は問いかけている途中で思い出した。

「大内の支族の者が奥方で…」

「形式上はな。指一本触れておらなんだが」

「指一本?それは勿体のうございます」

「ろくに顔も覚えておらぬが。とは言え、向こうが嫌がるのだから致し方あるまい。…勿体無いほど容貌の整った女だったのか?」

「私は奥方様を存じ上げませぬ。それに、容貌の良し悪しも、聞いた事がございませぬ」

「ではどうして勿体ないと思うのだ?」

「尚隆さまに触れぬと言うのが…勿体のうございますわ…」

「…。それは、今日は帰りたくないと言っておるのか?」

「?」

「いや、いい」

頭の上を軽く叩いて、尚隆は苦笑していた。

「では、そろそろお暇(いとま)致します。明日の用意がございますので」

「明日の用意?」

は一瞬表情を動かしたが、すぐに何でもないように取り繕い、微笑んで尚隆に言った。

「明日、地官で合議がございますから。資料の用意ですわ」



「はい」

「何処まで行くのだ?」

「…ですから」

「調査に行くのだろう?」

「いいえ。そのような…」

慌てだすを見ながら、尚隆はその体を引き寄せる。

「言わぬなら…このまま押し倒してしまおうか」

「光州の方面へ」

素早い答えに、苦笑を禁じ得ない。

「良いのやら悪いのやら…ともかく、俺も行くからな」

「いけません!」

今まで何度こういう会話をしたことか。

その内、の意見が何度通った事か。

結果、これ以上の会話を続けることが、虚しい事は分かっている。

それでも抵抗しようとするに、尚隆は被せる様にして言った。

「朝議には出る」

畢竟、それで承諾する事になってしまった。

「ああ…申し訳ございません。帷湍さま、成笙さま、朱衡さま…」

「まあ気にするな」

「気にいたします!」

「では禁門でな」

「…はい」

しぶしぶ言って退出しようとするを、一瞬の内に引き寄せて、掠めるような口付けを与える。







びいぃぃいいん







「!」

またしても、弦が切れるような音が頭の中で鳴り響く。

「ではな」

驚いた顔を勘違いした尚隆は、何も気がついていない。

「おやすみなさいませ」

は冷静に努めて言い、その場を退がった。

宮道を歩きながら、まだ音の余韻が残っている頭に手を当てる。

額にも手を当て、熱を測ってみるが、特に変わった所もない。

「何だったのかしら…」

一度ならず二度までも、同じ間合いで鳴り響いた奇妙な音。

昨日、口付けた時には何もなかったと言うのに、今日になって急にどうした事だろう。

は朝気を失った事と、関係があるような気がして、雲海の望める庭院へと向かった。

夜の雲海は静かにさざなみ、庭院には涼しい葉の擦れる音がしていた。

「朝…ここから海を眺めていて…」

は自分の取った行動を、思い返しながら庭院を歩いていた。

燦然(さんぜん)と輝いていた昨夜とは違い、今夜は靄然(あいぜん)とした景色である。

それはの心模様を表すようでもあったが、自分自身の感情に何も気がつかぬままに庭院を一周したは、やがては諦めて帰るために庭院を出た。



続く






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耳に響く音、内に鼓動する音。

音も様々な世界を持っています。

                   美耶子