ドリーム小説
Welcome to Adobe GoLive 5
千草の糸 =2= その日の夕刻。
は王に呼ばれて正寝に来ていた。
「来たか」
「いかがなさいました?」
尚隆は細かく観察しようとその顔を凝視していたが、そこにはいつもと変わらぬ笑みがあるだけだった。
凝視したまま何も言わない尚隆に対し、は不思議そうに見つめ返す。
「…。は地官の仕事が好きか?」
「え?はい」
すぐに返ってきた返事に、尚隆は頷いて言う。
「先だって各官府で移動があっただろう」
「はい。私も危うく大司徒を拝命いたしそうになりましたから、よく覚えておりますわ」
「危うく…。大司徒になるのは嫌か?」
「まだ人を引っ張っていくような自信がございません。それに次官のままであった方が、身動きが取れてようございます」
「そうか…改めて大司徒に、と思ったのだが。もしくは他の役職はどうだ?」
はしばし考え込む。
再度、他から声がかかっているのだろうか。
心当たりがあったは、あれこれと思い浮かべていた。
朱衡や帷湍ら六官の長が移動する時、の移動も密かに囁かれていた。
帷湍について、天官になるのではないのだろうかと囁く声も多かったが、これを機にと各方面から動きがあった。
帷湍から頼み込まれたと聞かされたり、直接声をかけられたりと様々ではあったが、あまりの声の多さに答えることが出来ず、結局慣れ親しんだ地官に留まると言って、すべてを断っていたのだった。
「いずこからか…お声をかけていただいているのでしょうか?」
「いや…他の官府にと言うことではないのだがな」
「他の官府ではない、とは?」
「三公か、もしくは王后だな」
の顔は見る間に驚愕の形相に包まれ、絶句して何も言えない様子だった。
「そんなに驚く事か?できれば後宮に入ってもらいたいのだが?」
「恐れ多くも主上」
はそう言い置いて、その場に跪いた。
「実務から離れてしまうのは、私にとって本懐ではございません。できる事なら…このままの位置でお使い下さいませんか」
「…分かった」
尚隆は口を噤もうとしたが、立ち上がるを見ながら、次いで言を発していた。
「では、後宮に住まいを移すと言うのは」
「後宮に、でございますか?」
「そうだ。出来れば安全な所にいてもらいたいのだが」
「はい…そうゆう事でしたら」
胸を撫で下ろしたい気持ちを隠しながら、尚隆は立ち上がっての傍へと近づく。
何事かと見守っているその瞳を、大きな胸が覆って隠した。
「どう…されたのですか?」
「なんでもない。嫌か?」
「嫌では…ございませぬ…。ですが、あの…」
胸元に押し付けられるような感触がして、尚隆は顔を下げてを見る。顔を伏せて表情が伺えぬようにしている。
だが朱に染まった耳だけは、どうやら隠しきれなかったようで、その表情がありありと思い浮かぶ。
ふと笑って、尚隆は体を離す。
顔が表に出てしまい、焦った様子のは、急いで尚隆に背を向けた。
「」
呼んでみるが、当然のように振り返りはしない。
後ろからそっと手を伸ばせば、嫌がらずに再び腕の中に戻ってくる。
背後から覗き込めば、自分のとった行動を後悔する顔と行き当たる。
昨夜何度も口付けたと言うのに、まだ恥ずかしいのかと思いながら、尚隆は朱に染まった顔を見ていた。
「五十年も待った。これ以上待てない…のだが。心の準備がないようだからな。今日は止めておこう」
何を、とは言わなかったが、それを受けてますます頬が暑くなる。
「ただ…もう少し付き合え」
尚隆は抱いていた手を離し、榻へとを引いていく。
そのまま腰を降ろし、自分の上にを乗せて満足げに微笑んだ。
「尚隆さま…お、お隣に座らせて下さいませ」
ふと呼ばれた名に反応した尚隆は、自分の上に乗せていたの腰に腕を回し、力を篭めて抱きしめる。
もう呼ばれないのではないかと、危惧した事にはならなかったようだ。
「駄目だ。早く慣れるのだな」
「な、慣れ…慣れますでしょうか…」
「今更恥ずかしがらずとも良いだろう?一緒に寝た仲ではないか」
「寝て?…い、一緒に寝てなどおりませぬ!」
「五十年前」
ぽそりと言われ、は急激に思い出した。
忘れていたが確かに五十年前、一緒の衾褥で寝た記憶がある。
が後宮で治療を受けていた時だ。
「お疲れで、眠ってしまわれた時ですわね」
くすりと笑って言うと、したり顔が返ってくる。
「そうだ。明け方にが、俺の顔で遊んでいた時だな」
「お…起きてらしたのですか!?」
何も言わずに尚隆の手がもち上がる。
「この指が…」
の手を取り、自分の口元に当てる。
「こう当たって、引いてしまった。逃がさないように引き寄せたかな、確か」
「そんな事まで覚えておられるのですね…」
これ以上赤くなりようのない顔を、逸らす場所も見つからずに、は横を向いてやり過ごした。
その顔を引き寄せた手は、暖かくを包む。
寄せられるまま閉じた瞳。
与えられる優しい口付け。
その時―――――
びいぃん
何かの弦が弾ける様な音が、の脳裏に鳴り響く。
「あっ…」
片手で頭を抑え俯いた顔。
「どうした?」
「あ、いえ。何やら耳鳴りが…」
「耳鳴り?」
「でも…気のせいでございます。もう聞こえませんから」
そうかと言った尚隆は、の体を再び引き寄せる。
抱きしめたまま榻に崩れ落ちようとしている体制に、は焦って力を入れる。
「尚隆さまっ」
「…」
この場の空気に乗じて、そのまま押し倒そうとしていた尚隆は、諦めて身を起こす。
を引き起こし、その顔を覗き込んだ。
「今日はこれくらいにしておいてやろう。胸が破裂してはいかんからな」
「も、申し訳ございませぬ…」
何やら情けない声で言うに、尚隆は大きく笑って問う。
「あまり男に慣れておらんな」
「それは…お勤めがございましたから」
「縁談はなかったのか?」
「多少はございましたが…。色々と騒動もございましたから、それどころではなかったのです。何より若様が私以外に慣れぬ方で、ずっとお傍についておりましたから」
「羨ましい限りだな」
「まあ、何を仰いますか。そうゆう尚隆さまは…」
は問いかけている途中で思い出した。
「大内の支族の者が奥方で…」
「形式上はな。指一本触れておらなんだが」
「指一本?それは勿体のうございます」
「ろくに顔も覚えておらぬが。とは言え、向こうが嫌がるのだから致し方あるまい。…勿体無いほど容貌の整った女だったのか?」
「私は奥方様を存じ上げませぬ。それに、容貌の良し悪しも、聞いた事がございませぬ」
「ではどうして勿体ないと思うのだ?」
「尚隆さまに触れぬと言うのが…勿体のうございますわ…」
「…。それは、今日は帰りたくないと言っておるのか?」
「?」
「いや、いい」
頭の上を軽く叩いて、尚隆は苦笑していた。
「では、そろそろお暇(いとま)致します。明日の用意がございますので」
「明日の用意?」
は一瞬表情を動かしたが、すぐに何でもないように取り繕い、微笑んで尚隆に言った。
「明日、地官で合議がございますから。資料の用意ですわ」
「」
「はい」
「何処まで行くのだ?」
「…ですから」
「調査に行くのだろう?」
「いいえ。そのような…」
慌てだすを見ながら、尚隆はその体を引き寄せる。
「言わぬなら…このまま押し倒してしまおうか」
「光州の方面へ」
素早い答えに、苦笑を禁じ得ない。
「良いのやら悪いのやら…ともかく、俺も行くからな」
「いけません!」
今まで何度こういう会話をしたことか。
その内、の意見が何度通った事か。
結果、これ以上の会話を続けることが、虚しい事は分かっている。
それでも抵抗しようとするに、尚隆は被せる様にして言った。
「朝議には出る」
畢竟、それで承諾する事になってしまった。
「ああ…申し訳ございません。帷湍さま、成笙さま、朱衡さま…」
「まあ気にするな」
「気にいたします!」
「では禁門でな」
「…はい」
しぶしぶ言って退出しようとするを、一瞬の内に引き寄せて、掠めるような口付けを与える。
びいぃぃいいん
「!」
またしても、弦が切れるような音が頭の中で鳴り響く。
「ではな」
驚いた顔を勘違いした尚隆は、何も気がついていない。
「おやすみなさいませ」
は冷静に努めて言い、その場を退がった。
宮道を歩きながら、まだ音の余韻が残っている頭に手を当てる。
額にも手を当て、熱を測ってみるが、特に変わった所もない。
「何だったのかしら…」
一度ならず二度までも、同じ間合いで鳴り響いた奇妙な音。
昨日、口付けた時には何もなかったと言うのに、今日になって急にどうした事だろう。
は朝気を失った事と、関係があるような気がして、雲海の望める庭院へと向かった。
夜の雲海は静かにさざなみ、庭院には涼しい葉の擦れる音がしていた。
「朝…ここから海を眺めていて…」
は自分の取った行動を、思い返しながら庭院を歩いていた。
燦然(さんぜん)と輝いていた昨夜とは違い、今夜は靄然(あいぜん)とした景色である。
それはの心模様を表すようでもあったが、自分自身の感情に何も気がつかぬままに庭院を一周したは、やがては諦めて帰るために庭院を出た。
|