ドリーム小説
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千草の糸 =26= は夕刻前に烏号(うごう)に辿り着いていた。
街は橙に染まり、はその町並みに感嘆の声をあげていた。
弧を描く港は、大型の船が停泊し、規則正しく切り出された石は、頑丈に港を支えている。
奏からの船だろうか。
立派な船に負けず劣らずの港だった。
港からは白い石畳が続く。
街に向かって整備され、閉門が近いというのに、人々の往来は絶えることがないようだった。
二階建て、三階建ての建築物も多く、文句のつけようがないほどの街だった。
「すばらしいですわ。これほどの港がこの国にできようとは……五十年前なら考えもつきませんでした」
「そうだな」
街を散策しながら、は嬉しそうに尚隆を見上げる。
喧騒に包まれた街中を歩きながら、各所に寄っては民の声を聞いている。
それはだけではなく、尚隆も同じだった。
活気に満ちていて、賑わっている。
「まあ……」
足を止めたの視線を追った尚隆は、その先に妓楼があるのを見つけた。
「新しい街でも、やはり出来るものなのですね」
「そう……だな」
後ろめたいのか、少しだけ詰まった声に、は笑いかける。
「今夜の舎館を決めてしまいましょう。たまも疲れているでしょうから」
尚隆はそれに頷いて、緑の装飾から逃れるようにして進んで行った。
舎館を決めた二人は、再び街中に戻っていた。
「やはり牛を使った荷が多いな」
の顔を覗きこみながら尚隆は言った。
「ええ。あら、し……風漢さま、あれは何でしょう?」
「行ってみよう」
ごく自然に握られた手に、は頬を染めていた。
引かれるままについたそこには、魚が大量に陳列されている。
「とれたての魚だよ!お、どうだい旦那!新鮮な魚はいらんかね?」
人の良さそうな男が、尚隆に向かって大きな魚を持ち上げていた。
「住んでいる訳ではないのでな。悪いが、持って帰りようがない」
「ああ、でしたらうちで食べて行って下さいよ。今日とれたばかりの魚を使った料理だよ」
「……それは旨そうだな」
「だろ?うちだけの味だよ。もちろん味は保障しますぜ」
「では食べて行こうか」
一度を見て店の中に入っていった。
店内は簡素で清潔だった。
最近建ったばかりなのだろう。
注文を聞きにきた店員に、はそっと質問する。
「ここは新しいお店ですか?」
「そうですよ。港が新しくなるってんで、旦那が……ああ、外で魚を売ってる人ですがね、土地を売り払ってここを建てたのさ。自ら漁に出かけて、魚をとってくるんでさ。才能があったのかね、いつも大量なんで、外でも売ってるって訳だ」
は感心したように頷いて、再度店内を見回している。
しばらくするとさきほどの店員が、料理を手に戻ってくる。
魚の煮物や炒め物があり、どれもおいしいものだった。
新鮮だからと言うのもあるだろうが、腕のいい料理人がいるのだろうかと考えながら、は店の奥を見つめていた。
食べ終わった二人は外に出て、散策を再開した。
よく見ると、魚を売っているのは一人ではない。
各所に露天が出されており、その背後に店があるのも珍しくない。
売っているのは魚ばかりではなく、饅頭やお茶などもあった。
休憩できるように椅子が設置されてあったり、人目を惹くように陳列された装飾品が目に止まったりと、の視線は絶えず忙しく動いていた。
様々な店が並び、歩いているだけでも楽しい街だった。
一通り見終わった頃には、歩きすぎで足が痛い程だったが、は満足気な表情のまま、舎館に向かって歩いている。
やがて舎館に戻って湯につかると、どっと疲れが出たように感じた。
夢中で歩き回っていた自分を思い返し、それに黙って付き添っていた尚隆が脳裏を過ぎる。
すまない思いを抱えて湯から上がり、は尚隆の待つ房室へと戻っていった。
榻に寝そべりながら酒を飲んでいた尚隆は、さっぱりした表情のに微笑む。
「視察の感想は?」
手招きと供に言われたは、まっすぐ尚隆の許へと歩み寄り、すぐ横で腰を降ろした。
「たくさんの民が、自ら考えて工夫を凝らしておりました。それだけ国に余裕が出来たと言うことでしょう。烏号は雁国一番の港ですわ」
「そうだな。大きな港に乏しく、奏からの商船が停泊出来ずにいた。辛うじて虚海側の港がそれに対応し、そちらを渡っておったからな。これで随分と近くなっただろう」
「ええ。もっと盛んになりますわね。虚海側にも同じような港ができれば良いのですが……内海も虚海も、他国が荒れれば使いようがなくなりますから。両方が塞がれると言うことはないでしょうが、どちらか一方を多用すれば、いざという時に困りましょう」
「そうだな。他国もそのように対策を講じておるからな。まあ、せいぜいこの国が荒れないようにせねば」
「王が玉座におられれば、大丈夫でございましょう?」
「まあな」
「明日には戻りましょうね」
「もう帰るのか?少しゆっくりしていってはどうだ?」
「明日一日あれば、視察は完了いたしましょう。視察が終わったのなら、報告しに戻りませんと。それに、主上には朝議が待っておりますよ?御璽(ぎょじ)を待つ紙に、高く囲まれたくはありませんでしょう?」
具体的な意見にげんなりした尚隆は、嫌そうな顔を向けて酒を煽った。
酒杯が空いたのを見たは、新たな酒を注ぎ込んで、尚隆の顔を見た。
「ご不満でしょうか?」
「多少な」
「では、先に帰っておりましょうか?」
「そんな危ない事はさせん」
「ではご一緒にお戻り下さりますか?」
「‥‥‥仕方がなかろう」
注がれた酒をまた煽り、尚隆は深い溜息を吐いた。
は軽く笑って、そっと尚隆に寄り添った。
「また、こうして視察に来て下さいますか?」
その言に驚いた尚隆の動きは、一瞬だけ止まったが、すぐに包む腕が持ち上がる。
「俺を呼ばないのはではないか?」
くすりと笑ったは、小さく頷いて言う。
「だって、悔しいのですもの。すべて見透かされているようで……どうして私が行きたい時期と、行きたい場所が分かってしまうのか、不思議で堪りませんわ」
「なんだ、気がついてなかったのか」
は包まれた腕を除けて、空いた酒杯に酒を注ぎ、何故かと問うた。
「考えることが同じだからな。俺が見たいと思う場所と時期。が見たいと思うそれが一致する。そろそろ烏号が見たいと思っていた。そこへの様子が変わる。これは視察か調査だと思わせる表情をするからな。隠していてもすぐに分かる」
言われたは、自分の顔に手を当てて、考え込んでいた。
どういった動作や、どういった表情が顔に出ているのだろうかと。
「考えても分からんだろう」
笑いながら指摘されたは、尚隆の顔を見て何処が変化するのか問いかけた。
「色々あってとても一言ではな。それに教えて対策を講じられては、俺がつまらん」
何かを言いかけて口を開いたは、それをやめて微笑みに変えた。
「やはり、敵いませんわ……尚隆さまには、いつだって負けてしまいます」
そう言って視線を逸らしたの体を、浚う腕があった。
そのまま榻に体は沈んで行き、は優しく与えられる口付けを受けた。
「ま、俺は玄英宮の連中より詳しい。連れて行くなら、お勧めだがな」
そう言いながら、襟元を緩めていく手を感じながら、は静かに言う。
「賭博場とかもですわね?」
一瞬、その手が止まった。
「まあ……そうだな」
「緑の柱は……あそこは舎館なのでしょう?」
再度動こうとしていた手は、ぴくりと跳ねただけで止まる。
「一応な」
「総称を妓楼と?」
「妓楼とは……」
「私は関係なく、宮城を開けている時にお泊りになるのでしょう?確かに情報も集めやすいことでしょう。体を重ねるのですから」
刺すような声に、尚隆は固まったまま問いかけた。
「……いつ知った?」
「華明が教えてくれました。ついでにお教え差し上げますと、尚隆さまが夜を供にした、華明に操られていた花娘は、合計で五名になります。内、固執してらしたのが一名。大層綺麗なお方で、足繁く通われていた模様ですわね」
実を言うと朱衡からも聞いていた。
だが、それよりもはるか前に理解していた。
華明との同調によって。
何も返してこない尚隆を、は横目で見ていた。
それにくすりと笑い、わざと辛辣(しんらつ)な声を作って言った。
「では、おやすみなさいませ」
すっと腕の中から逃げ出したは、尚隆とは別の臥室に姿を消して行った。
後には空間の出来た腕の中を見つめる、固まった王が残っただけだった。
翌日。
朝から忙しく視察に回っている。
昨日の事は何もなかったように振舞っていたが、当分は長く宮城を空けられないだろうなと、尚隆は考えていた。
これでは朱衡の思うつぼである。
だがそこを大人しく従っていてはこちらも面白くない。
を拉致して行けば、問題ないだろうと心に決め、幾分か軽くなった面持ちで付き添って歩いていた。
昼を回った頃、昼餉を取っていた時だった。
は唐突に昨日の事と思(おぼ)しき話を持ち出す。
「華明の事なのですが……」
怒った様子はない。
考えてみれば、昨日も怒っていたわけではなかった。
ただ後ろ暗い気がしていたから、そのように感じていただけなのかもしれない。
「後で港まで行ってみても、よろしゅうございますか?彼女の……いえ、今はよしておきましょう」
少し悲しそうに顔を歪めて、は茶を飲んでいた。
「このお店も……とても良い感じですわね」
それを打ち消すかのような笑顔では言う。
先程の顔が嘘のようだった。
昼餉を終えてしばらく、は港の先に向かって歩き出した。
蒼色が一面に広がった場所へと歩みを進め、波が打ち寄せる直前で足を止める。
袂に手を入れて、紙の包みを取り出していた。
「それは……?」
後ろから覗き込んだ尚隆は、の手元に注目して問いかける。
だが、は黙ったまま包みを広げた。
黒と灰色の粉や欠片のような物が乗っている。
前方に紙ごと手を差し出して、粉と欠片が風に浚われるのを待つ。
ざっと風が吹きぬけ、冷風が通り抜けたと同時に、紙の上に乗っていた粉が舞う。
「あ……」
風に煽られたのか、ぐらりとの体が揺らめき、海に向かって倒れそうになっていた。
すぐに気がついた尚隆によって、それは阻止され、安堵したは紙ごと手放した。
紙は風に舞い、西の方角へと飛んで行く。
どこまで舞うのか、小さな影を残して消えていった。
「あれは……駮弾琴の残骸です。冬官府にて処分された、華明の駮弾琴です。撥(ばち)の一部と、胴の一部。あの楽器には華明が宿っていたのだと、冬官の方が教えて下さいました……本当のようですわね。危うく連れて行かれるところでした」
未だ両肩に置かれた尚隆の手は、力を入れたままにしてある。
「何故ここに?」
「華明は貞州の出身でした。青海に面した里で育ったようです。彼女が教えた訳ではなく、覗き見たようなものですが……」
「弔(とむら)ってやったのか」
「分かりません……今はもう、彼女の声を聞くことが出来ません。なれど……私なら海に埋葬して欲しいと思うでしょう。ですからここに……。私は今回のことで、つくづく思ったのです。人の醜さ、卑しさ、汚さを……そしてそれらが、紛れもなく自分の中に存在する事を」
は海を眺めながら続ける。
「そして、私は弱く、欲深い人間でした。五十年もの間、愛しい方と向き合えずいたのに、嫉妬だけはしてしまう。過去の残像に囚われ、いつまでも何かに固執している。華明はそんな私の分身のようでした。ただ、生まれた場所が違っただけ……ただ、出会い方が違っただけ……」
同じように考えた事があったなと、尚隆は考えていた。
その時はそれが天の采配だと、いとも簡単に諭されてしまったが。
笑ったような声が横から聞こえ、の視線は海から尚隆に移された。
「同じ所に行き着くものだな……俺も同じような事を考えた事があった。やはり、同じ心を持っておるのだろうよ」
「私と尚……風漢さまがでしょうか?」
がそう問うと、遠く北を見つめていた視線が、に戻ってくる。
「そうだ。我慢はしているが、実は視察、調査が大好きだろう?」
「え?え、ええ……」
「俺もだな」
目的が少し違うような気もするが、それには触れずに笑って返したは、視察を再開すると言って歩き出した。
は夕刻になって、ようやくそれを打ち切った。
宮城に戻る前に、上から烏号を見たいと言うに従って、二人は冷たい風を頬に受け、新しい烏号の街を見下ろせる丘に上がる。
西日を受けた青海は金碧に縁取られ、玉石のような瞬きを見せていた。
「いつか……」
は言葉に詰まったように、途切れた声を振り絞った。
「いつかこの地に降り立つ他国の人々が、雁は凄いと褒め称える事となりましょう。なにしろ長い治世を敷くのですから。荒廃した国から、雁に逃げてくる民もおりましょう。その時、この国に逃げてきてよかったと人々が言うような、そんな国であればいいのですが」
尚隆を振り返ったの瞳は、未来を映して輝いている。
「では、そんな国を目指してみよう。小松の民にしてやれなかった事を、この国の民には与えたい。それに、約束したからな、色々と」
「約束?」
「色々な人物と言ったほうが分かりやすいか……。妖魔に怯えることのない国。緑の山野が広がる国。誰もが飢える事なく、親が子を捨てる必要もない。戦火にも怯えず、安定した国を……もちろんその中には、の願いも含まれておる」
「では、私はいつまでもそれをお助けして参りましょう。私の願い、民の願い、尚隆さまの願い。すべての人々の願いが叶う、その時まで」
すべての人々の願いが叶うことなど、なかろうにと、尚隆は心中で呟く。
だからこそ言ったのだろうが……それが真に実現するものならば、自分はこの国にとって必要のない物になってしまう。
尚隆はふっと笑って金碧の海に言う。
「そんな世を見てみるのも、悪くない」
「私は欲深い人間ですので、大変でございますが……どうぞ、このままお傍に置いて下さいましね」
を引き寄せながら尚隆は言う。
「では逃げないように気をつけていよう。いつもこの手からすり抜けてしまうようだからな」
「もう、逃げま……」
言い終わらない内に、尚隆の唇が重なった。
金の瞬き、蒼い海。
西の空には斜陽がまどろみ、海の彼方に消えようとしている。
まだ喧騒の絶えぬ新しい街に、夜が舞い降りようとしていた。
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