ドリーム小説




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千草の糸


=25=



気が付くと暗闇の中にいた。

暗いのは瞳が閉じているせいだと分かったが、目を開けることが出来ない。

近くに人の気配がある。

何故か実体を感じないほど曖昧(あいまい)な人物だった。

意識をそちらに集中させようとした瞬間、気配が急激に近付きの手を持ち上げた。

持たれた手に力がはいらないと分かったが、それが自分の手だと感じるには違和感がある。

何処か切り離されたような感覚に戸惑っていると、ささやくような声が聞こえてきた。

《お前の身に……何が起きた》

は目を見開いた……つもりになった。

実際の肉体には変化がなかった。

動かすことの出来ぬまま、声の正体に意識を向ける。

《何故だ……》

(この声は……この、手は……)

《何故、糸を切らなかった!》

(糸……千草の……そうだわ!すぐにでも切らなければ……私は生きておりますと、早急に伝えなければ)

《お前は笑うか?一緒に死にたいなどと言えば……いや、むしろ怒るか》

今まで聞いたこともないような悲痛な声だった。

(尚隆……さ、ま……なんて、ことを……)

……》

尚隆がそこにいる。

だが、指は一本たりとも動かせない。

声を出したかった。

掴まれた手を握りかえしたかった。

だがの意識は急激にその場から離れようとしていた。

















『……尚隆さま!い、今のは……?』

騎獣の背で目を開いたは、夢のような感覚で見たものを思い出していた。

薄暗い荒れ地を騎獣は進んでいた。

『早く……帰らなく、て……は……』

上体を起こしたは、すぐ先にある地面に、深い亀裂があるのを見つけた。

騎獣の足元はまだ覚束(おぼつか)ないが、亀裂に向かって助走をはじめていた。

騎獣にしがみついたは、その背に顔を埋めるようにしてしがみつく。

風によって加速していくのを感じている。

ふいに宙に浮いた。

次いで痛みをともなう衝撃。

騎獣の悲痛な叫び声を聞いた。

傾いていく中で顔を上げた

目の前には岩が迫っていた。

『……っ!』

騎獣から投げ出され、声も出ないほどの衝撃が全身を打ち続けている。

転がり落ちて岩盤に背中をしたたかに打ち付けた瞬間、反動で投げ出された腕が、岩に絡みつくようにして伸びていた枝にひっかかってようやく転落が止まった。

だがの意識はそれを確認して安堵する間もなく落ちていた。



















耳元で火の爆(は)ぜる音がしていた。

何だろうと思ったが、その一瞬の後には自分の体が焼かれている音なのだと気が付いた。

慌てて起き上がり、火の粉をふりはらおうとしたが、やはり体は動かなかった。

『あ……つ、い』

ふと、意識が別の方に向く。

『消、して……火を……消し……』

ぱちりと音をたてて目が開かれる。

最初に瞳へ飛び込んできたのは、固い岩肌だった。

枝にひっかかったままの腕を感じ、横を向いた

首を動かすだけで体中が軋んだが、どこも燃えておらず、また、生きていることを実感して大きく息を吐き出した。

だが、安堵したことが再び意識を手放すことになるとは思っていなかった。

は自身も気付かぬ内に、瞳を固く閉ざしていた。

















次に目が覚めたとき、あたりには靄(もや)が深く漂っていた。

陽は薄く、靄はそのまま霜に変化するのではないかと思うほどの冷気を纏っている。

体は寒さで凍り付きそうだった。

『尚隆……さま』

手首を探り、見えない糸に指を絡ませる。

『この糸を……』

力を込めて引きちぎって、見えない糸を投げ捨てる。

何もなかったところに千草の糸が現れ、真っ直ぐに伸びていくのを見ていた

それが一定の方向を指すと、安堵したように大きな息が漏れた。

『私は、生きて……います。尚隆……さ、ま……』

たったそれだけの動作で、もう、瞳が重くて開けてられそうになかった。


































「そこからは深い暗闇しか見えておりません。華明の意識も体も存在しなかったのですから、それが普通なのかもしれませんが…」

そこまで言うと、は長い息を吐き出し、今言えることの全部を言ったのだと、周囲に悟らせた。

靠枕(まくら)に身を預け、瞳を閉じると苦しげな表情に変わる。

、少し眠った方が良いのでは?苦しそうですよ」

朱衡がそう言い、王を除く周囲がそれに賛成した。

「はい……ですが……」

「まだ、何か言い足りないのか?」

帷湍がそう言うと、は再び身を起こして、姿勢を整えた。そして、ぐるりと周囲を見て言う。

「主上とお話をさせて頂いても、よろしゅうございますか?」

「それは、もちろん構わないが……大丈夫なのか?」

心配そうな帷湍に、の笑顔が向けられる。

「はい」

そうかと言って、王以外の四名はその場から消えた。

頬をぶたれた直後から、はまったく尚隆を見ようとしない。

「主上」

一気に人が減った房室に、の静かな声が響いた。

まだ、ただの一度も名を呼ばれておらず、それが少し不安にさせる。

本当になのだろうかと。

尚隆だけを残したの姿をしたこの女は、実は華明なのではないかという不安が、その心中を覆っていた。

「何故、名を呼ばぬ」

は顔を伏せて手を握り締めた。

だが、それでも静かに言う。

「怒っているからです」

「怒っておる、と?」

予想を外れて、何とも意外な言葉が返ってきた。

は手に更なる力を入れて言う。

「私は、最後まで諦めませんでした。それは主上と約束したからです。そして主上は死なぬと……俺は死なぬと仰られませんでしたか?」

みるみる瞳を潤まして、は前方を見据えている。

「何を……?」

「私は華明が荼毘されるその瞬間まで、彼女と繋がっていたのですよ?帷湍さまの言葉は痛く、早く戻らねばと私に思わせました。なれど、その直後……主上は……」

は涙を噛み下すようにして息を呑み込み、続けて言った。

「なぜ糸を切らぬと仰せられた言が、私の中に響きました。誰の声かはすぐに分かりました。……嬉しかった。意識が戻れば、すぐにでも糸を切ろうと思ったその矢先、私は信じられない言を聞きました」

一度切ったは、睨むようにして尚隆を見上げた。

「一緒に……死にたいなど、我侭にもほどがございます。民はどうなるのです。たかだか女一人の為に、王を失のうたこの国の、行く末はどうなるのです?冗談でも聞きたい言ではございません。今後、二度とそのような事を口になさいますな」

呆気にとられた尚隆は、涙を流しながら静かに怒るをただ見つめていた。

「五十年前、主上に言われた事を、私は守ってきたつもりです。悪あがきでも何でもして、生きることを考えよと、自ら命を絶つなど許せぬと、そう仰せられました。そのご本人が、いとも簡単にそのような事を……」

「それに対して怒っておったのか?」

「さようでございます。当分は許しません。私の気がおさまるまでは、主上と呼ばせて頂きます」

華明ではない、の考えそのものだった。

尚隆は怒りで涙を流す体に手を伸ばした。

振り払おうとする手を掻い潜り、その体を抱きしめて言う。

「すまなかった」

「……。いえ……主上。助けて頂いて、見に余る光栄でございます。言葉ではいい尽くせないほど、感謝致しております」

「無理をせずとも良い。恐ろしい思いをしたのだから、ただの女として泣けばいいのだぞ?」

「恐ろしい思いなど……王を失うことに比べれば、些細な事でございます。なれど……お逢いしとうございました」

抱き返してくる微弱な力。

それを感じ取った尚隆は、少し体を離し、に口付けようと顔を近付けて行った。

だが、の手がそれを制し、駄目だと言う声がする。

「それも、怒っておるからか?」

「はい」

「では、は口付けたくないと?」

「それは……」

再び声が掠れている事に気がついた尚隆は、さらに体を離して水を取った。

の手が伸びて到達しようとした瞬間に、それは頭上に持ち上げられていった。

何事かと見守る目前で、水は尚隆の口に含まれ、そのままの唇から流し込まれる。

もちろん抵抗はしたが、萎えた手足ではどうにも抗えなかった。

「尚隆さま!」

水を飲み終え、怒ろうとした直後、はっと口を押さえた

それを笑って見ている尚隆を、軽く睨んでは言う。

「今のは口付けではございませんわ……」

幾分か柔らかくなった口調に、尚隆の笑みが深まる。

「では、本当の口付けをしてやろうか?」

「駄目ですと、申し上げませんでしたか?」

「さて、聞いておらんが?」

「先ほど申し上げましたでしょう!」

「知らんな」

再び引き寄せられて、は尚隆の胸元に頭を預ける形となった。

「生きていて……よかった」

およそ尚隆らしからぬ言に、の目が見開かれる。

心の声、だと思った。

その死を悼み、泣きそうだった声とは違い、温かい声だった。

「尚隆さま……」

再び出された名に、尚隆から口付けが降る。

それは雨のように降り注ぎ、止むことがないように思われた。

やがて体を気遣ってか、尚隆の手によっての体が横たわる。

静かに身を沈めて行くと、誘うような眠りが手招いていた。

握られた手の感触を感じながら、は夢の中へと埋没していった。













次にが目覚めたのは、それらか二日後だった。

偶然見舞っていた台輔から、郷長の処遇について聞かされる。

「謀反って訳じゃなかったし、表ざたにはならなかったんで、仙籍を剥奪して、投獄をする。生きて出ることはないだろうな……。からしてみれば、軽すぎるだろうけど……」

「いいえ。充分でございますわ。正常な精神をお持ちではないのですから、外に出しても大変でございましょう……。でしたら、それより他にないのですわ」

「そうだな。殺さないだけ、まだ温情があったってところか?」

「ええ。さようでございますわね……。琶郷の他の方達には、何もお咎めはなしでございますか?」

「そうだな。事情を知らないっぽいからなぁ。知ってれば、別だろうけどさ」

「良かった……。恐らく何も知らないものかと。国府から派遣して、中を整える程度で大丈夫でございましょう?」

「そだな。さっそく誰か行っているようだぞ。やはり人員が減っていたようだから、登用のために色々動いているらしい」

「さすがは迅速でございますね」

「うん。あ、そうだ。地官長から伝言。生きていたとは驚きです。ゆっくりと養生して、また戻って来て欲しいってさ。なんだか涙ぐんでたぞ」

「ありがとうございます。大司徒にはご迷惑を……いえ、皆様には多大なるご迷惑をおかけいたしました」

「改まらなくていいって!皆生きてるって知って喜んでるんだからさ。詳しい事情を知ってるのって、すげー少ないけどな」

は六太に微笑んで答え、再度礼を言った。

少し寝たほうがいいと言って、退出していく六太を見送った視線は、その後南の窓に向けられる。

蒼穹の空と、たなびく様な雲海の穏やかな音が流れており、平穏な心持を象徴しているようだった。

ふっと笑って、首を元に戻した。

《お前は笑うか?一緒に死にたいなどと言えば……いや、むしろ怒るか》

何度も繰り返し脳裏を巡るこの言葉。

これほどまでに怒る必要などないはずなのに……国や民を引き出して、王が死ねばどうなるのかと、そう言った。

だが、華明の一件から、はそれに疑問を抱き始めていた。

何故それほどまでに国を憂う?そうやって生きてきたからだろうか……。

しかし―――――

「あ……私は……」は唐突に結論に辿り着いた。

「私はなんて、醜い……」

それは、絶対我だった。

利己主義的な考え方。

自分が嫌だったのだ。

戦火の中から逃げ出し、流れ着いたこの国は、まだ貧しかった。

聞けば先の王のせいで、滅びかけたのだという。

そこに周防が重なった。

だが、戦火はない。

内乱程度しかなく、権力者を争って行われるものではない。

は見てみたかったのだ。

戦火のない泰平の世を。

民は飢えることなく、君主を称える。

山は焼けておらず、土地は均され、国は発展して行く。

それは蓬莱では見ることの出来なかった、理想的な景観であったのだろう。

それがこの世界では、王の命に直結する。

王が亡くなれば、国は荒れて荒廃する。

次の王がすぐに現れる事は少なく、空位の時代に荒れ果てて行く。

ただひたすら、それが恐ろしいのだ。

国の為に、尚隆に身を捧げろと言っているものではないかと、この時はようやく気がついた。

自分が見たい世など、尚隆が見たいものと一致するはずもないのに、それをひたすら求めてきた。

これが利己的でないと、どうして言えようか。

尚隆は王だが、同時に人間だ。

感情があるだけに、弱さも持っている。

それを自分の都合だけで、立場が王だからと言う理由だけで、すべてを押し付けていいはずはない。

はそんな事を考えながら、起こしていた半身を横たえ、瞳を閉じた。

次に王が尋ねてきた時には、主上と言うのを止めようと考えながら……。



















その日の夜、は夢を見た。

華明の影響で再三再四見た、周防の夢だった。

だが、華明が見せる夢とは違っていた。

華明が見せていたのは、その末路。

最後の瞬間が、想像できる範疇(はんちゅう)であったのだろうが、様々な形で現れていた。

二人の命が散っていく、その瞬間は辛く苦しいもの。

煌く白刃であったり、包まれる炎であったり……それはまさに多様であったが、今日の夢は違っていた。

二人は微笑んでの両側にいる。

幼い義尊は大きくなっており、と同じ背丈になっていた。

導かれるままに歩くの前に、緑の世界が広がっている。

一面の緑野に腰を降ろし、義隆がそれを見守っている。

穏やかな空気が流れ、蓬莱独特の山間が続いている。

義尊は将来嫁いでくる姫の話を、真剣な面持ちで話し、たくさん子を成す事をに約束していた。

そして、は乳母の子として……いや、乳姉弟として、義尊がしっかりとした男性を選ぶと、そう言っている。

義尊について歩いていると、遠めに海が見えはじめていた。

不思議な事にその海だけが、何故か蓬莱のものではなかった。

半分は黒、半分は青だった。

はあたりをぐるりと見渡す。

幼い頃、庭に咲いていた石楠花(しゃくなげ)が、風に揺れていた。



大きくなった義尊が、を見つめていた。

どこか知ったような、別の顔に思うが、それが誰かは判然としない。

「もし、が死んだら……」

「え……」

「こことあそこ。どちらに埋めてほしい?」

義尊が指差したのは、下と横。

下は今立っている場所。

眩しいぐらいに輝く緑野。

横は遠くに見える海だった。

黒と青の海。

「もし、私が死んだら……若様。私の灰は、海に巻いて下さいませ。黒海でも、青海でも、どちらでも構いませんわ」

(そうすればきっと欠片ぐらいは、あの方の許へと帰る事が出来ましょう……)

「分かった。でも、まだまだ死ねないね」

義尊はそう言って微笑む。

もつられて微笑み、その瞳を閉じた。

そして夢の中に居るというのに、夢だと気がついた。

ふと、頬に宛がわれる手の感触に気がつき、は目を開ける。

滲んだ目前に、義尊の顔が見えていた。

「若様……」

「周防の夢を見ておったのか?」

徐々に視界が開け、緑野ではなく牀榻である事を知る。

義尊だと思った人物は、尚隆だった。

隣に横たわり、覗き込むようにして頬に手を当てている。

の頬は涙に濡れ、それを拭っていたようだった。

「尚隆さま……はい。周防でございました。幼い頃、よく若様と駆けていた緑野……見守る母の代わりに、義隆様がおわしでした」

しっかりと記憶があるのを見て取った尚隆は、心なしか安堵の息を深めていた。

「若様は大きくおなりでした……でも……あれは若様ではなく、若い姿の尚隆さまだったのでしょうか……とても似ておいででしたわ。広い緑野に座る義隆様。私の手を引く大きい若様。低い山々と揺れる石楠花。そこに映る海だけが、雁から見える内海でした。黒海と青海……不思議な夢……」

「夢とは本来そういうものかもしれんぞ」

「ええ……そうかもしれません」

「怒りは解けたか?」

はそう言うと、薄く微笑んで尚隆の顔を覗くように見る。

「尚隆さま。私は自分の醜さに気がつきました。これで、怒るような道理がなくなってしまったのです。私の我侭でございました。どうぞ、お許し下さい……」

言い終わると同時に顔を背けて、は暗闇に目を向けていた。

牀榻の外は何も見えない。

白い紗が僅かにあるのが分かる程度だった。

「人は皆、我侭な生き物だからな。はもう少し我侭でもいいと思うが?」

「いえ……私には、尚隆さまのお気持ちを考えるという事が、欠落しておりました。ただ自分の感情だけであったのです。失いたくないのは緑の山野、豊かな国……尚隆さまの感情が、ここからは欠落しております」

「俺もそれを望むというなら?」

「望んでおられます。それは分かっているのですが……でも、死にたいと言った事に対し、私は感謝こそすれ、怒るべきではなかったのです。一個人としての考えを否定するのは、蓬莱だけで良いのです……」

「立場上、そうも言っておられんがな。の言った事が正しい。だが……」

尚隆は未だ逸らされたままの顔に手を伸ばし、それを振り向かせて言った。

「愛しいと思うものと、ともに歩む生が、どれほ色鮮やかなものだったのか……俺は知り得なかった。誰かに固執したりしなかったからな。適度にちやほやされ、適度に遊んでおれば、それで満足なのだと思っていた。だが……すまぬ。俺はお前を離してやる事が出来ん。国も何も関係なく、ただお前がおれば良いと、そう思うことさえある」

「それが……尚隆さま個人のお考えですか?国も民も関係ない、一人の人間としての……?」

「そうだ。だが、の望みが俺を生かすのだろう。色鮮やかな生を俺は望み、お前を手放さない。は色鮮やかな国を望み、そこで生きたいと思っている。畢竟、国を豊かにするのが、二人ともが望む世界なのではないか?供に望むものがそこにある」

想像もしなかったその発想に、はただ目を見開いていた。

「人間は勝手なものだ。自分の幸せの為に生きている。だから何度も言ったのだ。ただの女として、幸せになれと」

「はい……」

再び溢れる涙が見えたのか、尚隆の手がまたしても涙を拭う。

抱き込む尚隆の腕は、の心を満たしていく。

「それとも俺では、を幸せに出来んか?」

「……私を幸せに出来るのは、尚隆さまだけです。私の望みは戦火のない国。そして、私の愛しい人は尚隆さま唯一人です。それを二つとも与えてくれるのですから、これ以上の幸せなど、何処を探しても出てきませぬ」

の言を受けた尚隆は、その顎を引き寄せる。

優しく口付けて軽く笑った。























それから二週間をかけて、は官吏として復帰を果たした。

ようやく姿を現したに、再び駆け寄る地官達。

だが、今回は体を厭ってか、他官府へ引かれようとすると、地官達が庇ってそれを阻止した。

調査も今後は一人で行かないと約束させられ、神妙な面持ちでそれを受けていた。

「大司徒。長い間申し訳ございませんでした」

は朝議が終わるのを待って、大司徒に会いに行く。

深く頭を下げて言う小司徒に、大司徒から朗らかな声がかけられる。

「本当に生きていてよかった。調査に行くことを許可するのではなかったと、何度も後悔に苛まれたが……無事戻って来ることができてよかった」

心の底から安堵したような声で、大司徒はに言う。

も微笑んでそれに答え、遅れていたの仕事を引き渡された。

「今日一日でやってしまわないようにな。どうせ遅れているのだから、いつでもいいだろう。毎日少しずつ消化していけばいい」

「はい。ありがとうございます」

そうは言ったが、は遅れを取り戻すかのように、書面に向かっていた。

夜中になってようやく作業が終わり、誰も居なくなった地官府を一人後にした。

誰もいない宮道を後宮へ向かって歩き、ふと外を見やると、三日月がこっそりと顔を覗かせている。

冬の冷気に煽られて、寒そうだと思ったは身を小さくして急いだ。

疲れていたので、早く寝てしまいたかった。

新しい自宅で。

は療養中に、自宅を移っていた。

随分と前に約束した通り、後宮に住まいを移したのだった。

寒そうな月に見送られて、は王宮の奥へと姿を消した。











それから幾日かが経過した。

その間、待っていた他官府の官吏達にも挨拶をして回り、忙しく日々を過ごしていた

頃合を見計らって、大司徒に視察に行く旨を提出していた。

「前々から言っていた貞州か。誰と行くことになっているのだろうか?」

「はい。大司馬が手配をして、夏官の方が付き添って下さるようです」

ほっと安堵の息を漏らした大司徒は、ようやく了承を出した。

「烏号だな?近頃大規模な港を建設したようだから、さぞかし活気があることだろう。石材の運搬に手間取っていたようだが、の牛を使うといった案件のおかげで、それを生業にする者が増えた。それによって、一気に新しい港の仕上げが出来たようだからな。港の出来具合をしっかりと見て来てほしい」

「とても楽しみでございます」

「では、くれぐれも気をつけて」

「はい。行って参ります」

















翌日、が禁門に辿り着くと、そこに夏官の姿はなかった。

想像していた事だが、毎回どこから情報を仕入れてくるのか、たまの手綱を取って待っている王の姿があった。

「偶然だな。俺も視察だ」

「どちらまで?」

「貞州白郡だな」

「首陽郷ではありませんか?」

「よく分かったな。乗せていってやろうか?烏号まで」

「‥‥‥では、よろしくお願いいたします」











「悟ったな」

飛び立ちながら、そう言う尚隆に、は大きな溜息を吐いて言う。

「無駄な言い争いを避けたいだけですわ」

「それが悟ったと言うに」

「そうでしょうか……?」























その頃、春官府では。

「朱衡!お前か、許可を出したのは!」

なだれ込んできた帷湍と成笙に、涼しい顔を向けて朱衡は問う。

「何の許可です?」

「あいつの視察をだ!」

帷湍の顔は赤らんでおり、額に浮かんだ血管が今にも切れそうだった。

「ええ、そうですよ。今回ばかりは快く送り出しましたが。何か問題でも?朝議には出席なさったでしょう?」

成笙が不機嫌な顔を向けて朱衡に言う。

「またしても夏官を騙したんだぞ?それにまた数日戻らんだろう。折角近頃真面目にしていると思ったら」

「もう真面目ではなくなりますよ」

「何故そう言い切れるんだ?」

「何故真面目にご政務に従事なさっていたのか、考えてごらんなさい。まさか性根が入れ替わったとでも、お思いでしたか?」

「そ、それは……」

言に詰まった成笙の横で、唸るような帷湍の声が発せられた。

か……?」

「そうですよ。が完全に回復し、目をかける心配がなくなれば…あるいは彼女が忙しくなれば、また抜け出すでしょう。ですから先手を打ったのです」

「そうか。前回のように、早めに戻ってきてもらおうというのだな」

「いいえ。そういった事ではないですね。ですがまあの事ですから、すぐに戻って参るでしょう」

帷湍は不思議そうな視線を投げて朱衡を見ていた。

「やはり、早く戻ってくるための作戦ではないのか?」

「違いますね。今回よりも、もっと先の話ですよ。恐らく視察から戻られたら、当分は外出なされないと思われますね。せいぜい関弓止まりでしょう。にある事を吹き込んでおきましたから」

「?」

不思議そうな二つの顔を見ながら、朱衡は笑みを深くしていった。



続く






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日常が戻って来てようやく、

終わりが見えて参りました。

次回で終了です。

                    美耶子