ドリーム小説
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千草の糸 =24= やがて一週間が過ぎようとしていた。
その日、朝議の終わりが近付た頃合になって、の目が開かれたとの知らせが入った。
急いで朝議を終わらせ、六太と供に後宮に向かった尚隆は、開かれた扉の前で三名の人物が停滞しているのを見て立ち止まった。
中を覗くと女官の姿だけが見える。
衝立と御簾(みす)で他が見えないようになっていたからだ。
中腰で牀(しんだい)の横に立っているので、が人と対面するための用意をしているのだと想像がついた。
しばらくすると、女官は体を起こして衝立をよける。
御簾を上げて一礼し、退出していった。
牀に半身を起こした、青白い顔が五名を見つめる。
ゆっくりと口が開かれ、か細い声が出された。
「みなさま……お久しぶりでございます」
それが合図でもあったかのように、房内になだれ込んだ五名。
ぐるりと囲まれたは微笑む。
「」
尚隆の手が、に伸ばされる。
それを萎えた手が制す。
「主上」
に呼ばれて、尚隆は何事かと表情を変えた。
「お顔を…」
近づけろと手招かれた尚隆は、不思議そうにしながらも、の手の届くところに顔を移動させた。
尚隆の両頬に向かうの手。
直後の軽い衝撃。
ぱちん―――
小さく響いた音。
頬を挟むようにして打った、力のない白い両手を下ろし、は辺りを見まわした。
そして一人一人に声をかけていく。
「朱衡さま、華瑟をよろしく頼みますね……彼女は何も知らないのです」
そう言うと、朱衡の目をしっかりと見ながら語った。
「僅か五歳の頃、盗賊の手によって彼女の両親は殺されました。その後、華明が中に入り込み、華瑟と名を改めて操っていたようです。その演奏技術と供に……ですが、幼いながらも駮弾琴(ほくだんきん)のおかげで、生き残る事が出来たようです。華明が一番拠点において、大切にしていた体ですが、もう操る者もおりません。彼女の生は今始まったのです」
「そのようですね。まだ何も知らぬ幼子のようではございますが、毎日少しずつ様々な事を学んでおりますから、大丈夫でしょう。私が責任を持って、預かりますよ」
はそれに頷いて微笑み、成笙を振り返った。
「華明は幾人もの、自分の化身と呼ぶべき女を用意しておりました。あの郷長を満足させるために……ですが、そのほとんどが実験に失敗した者でした。まるで物のように扱われる女性の姿は、思わず目を背けてしまうほど酷いありさまでした」
琶郷のものに温情をと、その瞳が語っているようだった。
「華瑟もその一人ということか……」
成笙は小さく頷いてからそう呟く。
「いいえ。華明は華瑟だけは守り抜きました。その体を……捧げたい相手と対峙するまでは、なんとしても守り抜いたでしょう。郷長と婚姻していたのは、彼女が唯一の成功例であったからなのです。仙籍に入れて体を保存しておく必要があったのです」
「なるほど……。しかしなぜそこまで分かった?」
不思議そうな顔をしているのは、成笙だけではなかった。
はそれを受けて、どこから話せばいいのか、と言い置いて語り始めた。
「私は……ずっと呪の中にいたようなのです」
自分の中にいた華明の意識が、ここ二日ほどは眠っているようだった。
尚隆が宮城にいない事を知って納得はしたが、同時に不安が心に重く落ちた。
『今は……どちらにおわしでしょうか』
月を見上げて尚隆を想う。
輝く月にその姿を重ねた。
『あんたのせいで……あんたのせいでわたしは一生報(むく)われない。殺したいほど愛していた、何を犠牲にしても欲していた。だけど私は受け入れられない。たった一人……たった一人の海客のせいで!』
頭の中、ふいに声が響いた。
『こ、これは……華明?』
『春官でもないくせに、その才能をひけらかした。地官府で仙籍に入ったばかりのものが、どうして楽士と面識が出来る!?』
はっと顔を上げた。
地官になりたての、遠い記憶が蘇った。
『あのころの……?私は笛を吹いて、駮弾琴の奏者の方と合奏を……』
『大宗伯にお褒(ほ)めの言葉を賜(たまわ)ったと言うのに、あんたはちっとも嬉しそうにしなかった』
笑うことも、泣くことも忘れていたあの頃。
『いいえ、嬉しかったのです。ただただ、嬉しかった記憶しかございません』
『そんなそぶり、ちらりとも感じなかった!』
『あのとき、私は……』
『表情がなかった、いっさい。それは聞いていた、だけど!それよりもずっと許せない……許せない!』
大きくなった声が全身を駆けめぐった。
体中が痺(しび)れたように震える。
『華……つっ……』
手で額を抑えたは、あまりの激情に気を失いかけた。
しかしその力はふいに弱まり、次に鳴り響く声も少し小さくなっていた。
『わたしは楽士だから、王を拝見することが出来る。一目見たときから、叶わないと分かっていても恋してしまった。ただお近くで、ごくたまにでいい、見つめる事ができたのなら……それでも構わないと思っていた。なのにあんたが流れ着いた。知らないと思っていた?わたしはあんたに色々教えていた官吏達と知り合いだった』
『あ……』
『王はきっと誰のものにもならない。そう思っていたのに、同じ国からやってきたあんたは王の命で勉強し、こともあろうか官吏にまでなった。さらに……さらに正寝への出入りまでもが許されて!』
もうは何も言えなかった。
鳴り響く自分を責める声に、ただ項垂(うなだ)れるしかない。
『たった一度だけでも抱いて欲しい……この願いがそんなに罪だと言うの!?くやしい、くやしい……』
もし逆の立場だったらと思うと、痛いほど華明の気持ちが分かった。
『想いが通じないのなら、いっそ殺してしまおうか……』
おそろしく強い想いが、に焦燥(しょうそう)感を呼び込んだ。
だが、直に語りかけるこの声に、どうやって抗(あらが)えばよいのだろうか。
『だけど……わたしの駮弾琴(ほくだんきん)に即興でついてこれたのも……あんた一人だけだった。わたしが演奏技能を押さえることなく、思う存分……心の赴(おもむ)くまま気持ちよく演奏出来たのは、あんたの笛と合わせた時だけだった』
『え……』
『あんたも主上が好き……でもどうしていいのか分からない。わたしから見れば不幸だよ、あんたも。いつまでも囚われている、黒い炎に』
『周防(すおう)を包んだ大火が……』
『あんたの国は……少し前の雁のよう?でも、わたしはそれを利用した』
『あの音は、駮弾琴だったのでしょうか』
『あんた……。……悪かったね』
『え……?』
すぐ側に感じていたものが、急激に遠ざかっていくような気配がした。
『華、明?』
辺りには何の気配もない。
そしてようやく自分自身の中の、今まで感じていた気配が消えている事に気が付いた。
『華明……。あなたは、わたしと……同じです……』
は卓子(つくえ)から笛をとり、胸元に握りしめて房室を出た。
『さま!いけません、房室から出ぬよう、主上から仰せつかっております』
『弔いの音を奏でねばなりません。みなさまが一緒に来る、ということで見逃していただけませんでしょうか』
顔を見合わす女官達。
しかし弔いという言葉に何かを感じ取って従った。
成笙から顔を逸らしたは、呼吸を整えるため小さく息をついてから言った。
「しかしその瞬間こそが、呪の完成した時でした」
「呪の、完成……?」
そう言ったのは成笙と帷湍が同時だった。
はそれに頷いて口を開く。
「一時は華明の力が弱まりました。主上によって華瑟の中から追い出されたからです。ですが、彼女の施した呪は、それによって完成いたしました。呪の原理は分かりませんが、彼女の呪の目的は私になる事でした。身も心も私になり、代わりに私を殺して入れ交わる…。その準備として、私を操っていたのです。思考を読み、語りかける。幾人もの人を使って、この為の実験をしてきた模様です。その最たるものが華瑟です」
首を少し傾げた成笙は、に向かって問う。
「地官になったばかりの頃から知っていたのなら、なぜ、今になって動き出したのだろう」
は自らの胸元に手をあて、瞳を閉じたまま顔だけを尚隆の方へ向けた。
「それは、私の心が深く閉ざされていたからです。彼女の侵入を許すほどの隙間がなかったのでしょう」
なるほど、と成笙は頷いた。
その場にいた全員が、過去に無表情だった頃のを思いだしていた。
「私の心は、環境によって少しずつ救われていきました。そして……いえ、続きのほうが重要ですわね」
そう言うとはまた成笙に顔を向けた。
「琶郷城には実験の残骸とも言える者が大勢おりました。華明の死と供に解放されておりましょうが、中には命が消えたものもおりましょう……郷長のために用意された女達は……生きていけないのです。食べることから操られねば、生命の維持が不可能なほどだったのですから」
声を切ったは一息置いてから再び語る。
「華瑟を初めとする、妓楼の花娘(ゆうじょ)達も彼女の実験に使われてきました。主上がお出ましになる場所に、送り込むためです……」
そこまでを言うと、ふっと顔を上げた。
六太を見て頭を下げる。
「台輔、血の匂いを宮城に持ち込んでしまった事、深くお詫び申しあげます。お体に障りございませんか?」
「うん。ぜーんぜんヘーキ。でも、あんまり見舞いに来れなかった。ごめんな」
「とんでもない。そのお心遣いだけで、充分でございますわ」
はそう言うと、六太から視線を外し、誰もいない前方を見た。
「華明の体は幾重にもかけられた呪によって保存されておりました。そして呪が完遂された時、琶郷長に頼んで私を殺すようにと、指示を出していたのです。私を誘き寄せる事を前提に入れて。彼女は琶郷の端に庵を持ち、そこに自分の体を安置しておりました。周りには操られた数人の男が、常に見張っていたのです。私はそこへ連れて行かれました。関弓に降りた直後からの意識がございませんから、どのようにして光州まで行ったのかは分かりません。気がついた時には、もう一人の私に、顔を覗きこまれておりました」
「では、荼毘されたこそ華明だと?」
帷湍からの問いかけに、の頷きが肯定を示す。
「彼女は私に思い込ませたのです。華瑟の体から抜ける時に、死んで行く様な言を私に残し、もっともらしく消えたのです」
だけど庭院(なかにわ)には相変わらず引き寄せられた。
あの日の朝も、ふと雲海を覗いてみたくなった。
「もう随分と寒いのに、雨が降っておりました。今は……もう冬でございましょう?ですが、私には秋の様子を映し出すのです。関弓に降りたのもそのせいです。気温との差が私に疑問を抱かせたのですが、華明からしてみれば、どのような事が起これば、私が宮城を離れるか、分かっていたのでしょう」
心が繋がるのがどんな感じなのか、きっと体験しなければ分からないだろう。
だが相手の心が見えてくるあの感覚を思えば、思考を読むことも容易いはずだ。
そしてそれは華明も予測していなかったことかもしれないが、呪をかけられている方にも相手の心が見えていた。
「なぜなら私達はほとんど同じだったからです」
「ほとんど、同じ?」
意味を取りかねているのか、帷湍の声は不思議そうだった。
は帷湍に頷いてから目を伏せて言った。
「はい。華明は私で、私は華明でした。幾度となく聞いた音は、呪を促進させるものでした。それによって私は、私であることを手放していったのです」
己が確固としてあるための心壁を解(ほぐ)したのは、優しく繊細な旋律。
そして力強い音が、心に食い込む異物の侵入を許していった。
音が鳴るたび……口づけるたびに華明に侵されていくことに、気付かなかったわけではない。
華明に意識を奪われてもなお、跳ね返そうする力は常にあった。
だが、その死を悼み、弔いの音を奏でた時に、警戒心も何もかも、手放してしまったのだ。
ようやくそれに気が付いた時には、自分自身に顔を覗き込まれていた。
同時に流れ込んでくる他人の思考。
これが呪であることには欠片の疑いもなかった。
「では……最後に残した言葉は、嘘だったと?」
尚隆の声がに飛んだが、その顔が尚隆に向けられることはなかった。
「謝罪の言葉も何もかも、死を信じ込ませるためのものだったのです」
は伏せた視線を上げて、帷湍に目を向けた。
「太宰(たいさい)……」
手を伸ばしたは、帷湍がそれを受け取るのを待った。
戸惑いがちに受け取った帷湍は、隣に立つ主(あるじ)から痛いほどの視線を受けていたが、生き返ったを妙に実感して、思わず涙が流れそうになっていた。
「申し訳ございませんでした。大司徒からのご伝言、お伝え頂いて感謝しております。合議には参加できませんでしたが、なるべく早く戻ると、そうお伝え願えますか?増える戸籍も、均(なら)す地も、まだまだございますから」
はそう言って、にこりと笑った。
「……それは……その事は……。あれは華明だったのだろう?それもすでに息がなかった。なぜ知って……?」
「ですから、私は深く彼女と繋がっていたのです。どちらかの意識が途絶えると、それは一層強くなました。それが続くと、恐らく気が触れていたでしょう……何しろ互いの意識が流れるのですから」
手をそっと下ろした。
帷湍の手も同時に降ろされ、その手を離した。
『同じ女が二人……?わたしを斬れとは、どういうことだ、華明!』
郷長はそう叫びなららも、剣を抜いて身構えた。
『姿が変わっても、あなたはいつもわたしを愛してくれたじゃない。わからないの、このわたしが』
瑠璃(るり)色の襦裙(じゅくん)を来た女が二人、琶郷長の目の前存在した。
顔も姿もまったくと言っていいほど同じ。
ただ、一人は気を失っている。
『お前は……華明なのか?』
『え……ええ、そうよ。見えないでしょうけど』
『本当か?』
『もちろんよ。わたしは身も心もこの女になったのよ。呪があまりにも強くて、華明であったことも忘れそうになっているんだわ』
『本物の華明なら、もっと堂々としているはずだ』
郷長は剣を握ったまま、左右の女を見比べる。
不安げに本物だと主張する女。
元々実体がないだけに判断が難しい。
だが、同じ女が二人などという、複雑な呪を見るのは郷長といえども初めてだった。
『な、何を言って……!わたしは、ほ、本物に決まっているじゃない!この呪は長い年月をかけたのよ。完璧に入れ替わるために、それこそ何十年とかけてきたのよ!さあ、早く偽物を始末してちょうだい!』
蒼白になった女の顔を見た郷長の疑問は、確信に変わろうとしていた。
『お前、にせものだな』
男はうなり声を上げると瑠璃の襦裙に突進する。
『なに言ってるのよ!や、やめて!』
逃げ出す華明と、それを追う郷長。
はまるで宙に浮かんで見ているかのように様子が分かった。
岡を駆け上り逃げる華明。
背後から鈍く光る冬器。
「私は夢の中のような状態で様子を見ておりました。ずっと保管されて使っていなかった体、それに加え大きな呪の後です。体力のない彼女はそれだけで、あっさりと息を引き取りました」
『きゃあぁ!』
華明の叫びと同時に激痛が全身を駆けめぐり、意識は急激に覚醒を迎える。
痛みまでもが伝わるほどの強力な呪のおかげで、目を覚ましましたのだと理解した。
『あ……あ……華明……まさか……』
背筋を悪寒が駆けめぐった。
あの男はすぐに戻ってくるだろう。
華明と思いこんでいる、の本体を抱きに。
『今のうちに逃げなきゃ……』
萎(な)えた足を叱咤しながら走る。
厩(うまや)を見つけて駆け込んだ。
鹿蜀(ろくしょく)が取り残されたようにいたが、には乗りこなす事が出来ない。
だが、琶郷長が戻ってくる前に逃げ出さなくてはと、手綱を取って騎獣を引っ張って行った。
『お願い、走って!』
騎乗して手綱を握り、萎えた体でしがみつきながら叫んだ。
だが鹿蜀はぴくりとも動かない。
手綱を打ってみたり、引いてみたりしたが、振り落とされないようにしがみついているのが精一杯で、何をどうすれば前に進むのか分からなかった。
そうこうしている内に、鼻歌交じりに琶郷長は戻ってきた。
鹿蜀に乗ったを見て郷長の鼻歌は止まり、腰の剣がするすると音をたてて抜かれた。
『だめよ、お願い。動いて……お願い!』
『うおおぉぉぉ!』
『行って、早く!』
馬を乗るときのように足で鹿蜀の胴を挟み、手綱を打ったのがよかったのか、急激に走りだした騎獣。
走るに任せてその場から逃げた。
しかし郷長もすぐに後を追って来た。
もちろん、鹿蜀より足の速い騎獣によって。
逃げはじめてのち、横からの衝撃によって鹿蜀から投げ飛ばされた。
『……!』
騎獣から投げ出されたは、転がり落ちて岩にぶつかった。
あまりの衝撃に声も出ない。
『俺から逃げようなんて、許さないからな。逃げられないようにしてやるよ』
『や……やめ……』
の足に剣が入る。
『や……め……きゃあぁ!やめて、あぁ!』
両足首、両腕に深い傷が入ると、郷長は手を止めた。
だが同時にの意識は深く沈んでいった。
《何故だ…何があった?どうして息を吹き返さない!》
自分のものである実感のない、ただの器のような気さえする体を、揺さぶっている何者かの存在を感じていた。
(た、太宰?)
帷湍の声だとわかったが、その姿を見ることが出来ない。
目蓋はぴくりともしなかった。
いや、指一本動かすことが出来い。
《起きろ…。まだ地官はお前が必要なんだぞ?大司徒から合議が夕刻にあると、伝言を頼まれている。早く地官に戻らんと合議が進まんじゃないか…。俺が地官にいた時から、いつも…進行していただろう?皆で頑張って来たじゃないか!戸籍が増えたと言って喜んでおっただろ?それも、まだまだこれから増えるんだ。均す土地もまだたくさんある。だから、こんなところで寝ている場合じゃないんだぞ!》
(苦しい……な、に……?)
『明……華……明……』
『なに……く、る……しい』
圧迫される感覚に意識が浮上する。
琶郷長がうっすらと空けた瞳の前に見えていた。
息苦しいのは、琶郷長が胸元をきつく押さえつけているからだった。
『や、やめて……』
もがく声に眉を寄せた琶郷長は、横から剣を出しての腕に突き立てた。
『うっ……』
『華明……華明……』
虚ろな目がを見ていた。
『華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……』
襦裙に手をかけ、脱がそうとしている男。
ぶつぶつと一つの事を呟いているのは異常で恐ろしかった。
『離して。私を、帰して……』
『華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……華明……』
男は呟きながら剣を素早く振るった。
また、の腕から鮮血がほとばしる。
『や……やめ……』
さらに剣を振りかぶる男。
は口をきつく結んだ。
『華明……華明……華明……華明……華明……』
さきほどから、華明としか言わない。はその異常な様子を逆に利用できないかと考えた。
これ以上口を開くのは恐かったが、助かるためにはやってみるしかなかった。
『……ちょっと、お前』
『華明……?華明……だな、やっぱり華明だったんだな。違ってなんか、いなかったんだな』
『わたしは疲れていま…疲れてるんだよ、わかるだろう?お前も疲れてるはず、だ。少し眠ったらどうで……どうだい?』
『疲れているのか……そうか、華明は疲れているのか。では少し休もうか』
そう言うと男はあっさりの上から体をよけた。
さっさと寝るために移動を始めたようだ。
全身が悲鳴を上げていた。
だが男が視界を消えた瞬間、は体を起こして辺りを見回した。
『ここは……』
近くにあった布で深い傷を覆う。
その間に、鼾(いびき)が聞こえてきた。
『書き置きとか、効果あるかしら?』
運が良ければ効果あるのかもしれない。
だが効果がないのなら今の間に逃げてしまったほうがいい。
『いいえ、可能性があるのなら……』
やってみるべきだと小さく呟いたは、急いで郷城に戻るようにとの書き置きを作った。
見つけやすい場所に置くと、衣桁にかかっていた大判の布を取って騎獣の許へと急ぐ。
痛みと恐怖で目が霞(かす)んでいたが、止まることはもっと恐かった。
『いた』
厩には同じ騎獣が傷だらけで繋がれていた。
『かわいそうに』
はそう呟くと、鹿蜀(ろくしょく)の首を労るように抱いた。
『ごめんなさい、私を運んだために……』
持ってきた布を切り裂きながら、騎獣の手当をした。一通り終わると、優しく語りかけた。
『あなたも傷だらけね。でも、お願い……私を、関弓に連れて行ってほしいの』
に向けられていたつぶらな瞳が、ふっと背をさしたように感じた。
背に乗るとゆっくりと鹿蜀の足が前に出された。
厩を出ても、野をいくら進んでも、鹿蜀の足は速くならなかった。
を乗せているのが精一杯であるかのように、足元がぶれている。
だがも鹿蜀の背にしがみつくようにして乗っているのが精一杯だった。
もう、上体を起こす体力がない。
はそのまま騎獣の背で気を失った。
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