ドリーム小説
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千草の糸 =23= やがて一週間が過ぎようとしていた。
その日、朝議の終わりが近付いていた頃合になって、知らせが入った。
の目が開かれ、体を起こしたと言う事だった。
急いで朝議を終わらせ、六太と供に後宮に向かった尚隆は、すでに到着していた三名と供に扉を開けた。
牀のすぐ横について、世話をしていた女官は、王の顔を認めて退がった。
牀に半身を起こした、の顔が五名を見つめる。
ゆっくりと口が開かれ、か細い声が出された。
「みなさま…お久しぶりでございます」
それが合図でもあったかのように、房内になだれ込んだ五名。
「」
最初に口を開いたのは尚隆だった。
牀の上で半身を起こし、驚いた顔を見せていたは、ぐるりと囲まれて微笑み、尚隆の瞳を見つめた。
尚隆の手が、に伸ばされる。それを萎えた手が制す。
「主上」
に呼ばれて、尚隆は何事かと表情を変えた。
「お顔を…」
皆が居るというのに、珍しい事もあるものだとでも言いたげな表情のまま、の手の届くところに顔を移動させた尚隆は、軽い衝撃を感じた。
ぱちん―――
小さく響いた音。
尚隆の両頬を挟むようにして打った、力のない白い両手を下ろし、は辺りを見まわした。
そして一人一人に声をかけていく。
「朱衡さま、華瑟をよろしく頼みますね…彼女は何も知らないのです。まだ僅か五歳の頃、盗賊の手によって、彼女の両親は殺されました。その後華明が中に入り込み、華瑟と名を改めて操っていたようです。その演奏技術と供に…ですが、幼いながらも駮弾琴のおかげで、生き残る事が出来たようです。華明が一番拠点において、操っていた体ですが、もうその操る者もおりません。彼女の生は今始まったのです」
「そのようですね。まだ何も知らぬ幼子のようではございますが、彼女は終始笑っておりますよ。毎日少しずつ学んでおりますから、大丈夫でしょう。私が責任を持って、お預かりいたします」
はそれに頷いて微笑み、成笙を振り返った。
「華明は幾人もの、自分の化身と呼ぶべき女を用意しておりました。あの郷長を満足させるために…ですが、そのほとんどが実験に失敗した者でした。その女達が郷長には華明に見えているようでした」
「華瑟ではないのか?」
「いいえ。華明としてでございます。華瑟と婚姻していたのは、彼女が唯一の成功例であったからなのです。あの郷長は慕っておりましたから…華瑟ではなく、華明を。実態がないのは知った上で、その心と力とを欲したのです。ですから、私と華明の区別がつかなかったのでしょう。その心を愛したのですから…姿かたちではなく。外を覆うものが華瑟であろうと、私であろうと、彼にとっては関係ないのです。その心が華明でさえあればよかったのですから」
「それは一体…?」
分からないと言った様子を見せたのは、成笙だけではなかった。
はそれを受けて、どこから話せばいいのか、と言い置いて語り始めた。
「私は…まだ呪の中にいたようなのです。一時は華明の力が弱まりました。華瑟の中から追い出されたからです。ですが、彼女の施した呪は、それによって完成いたしました。呪の原理は分かりませんが、彼女の呪の目的は私になる事でした。身も心も私になり、代わりに私を殺して入れ交わる…。その準備として、私を操っていたのです。思考を読み、語りかける。幾人もの人を使って、この為の実験をしてきた模様です。その最たるものが華瑟です。ですが、あの郷城には実験の残骸とも言える者が大勢おりました。華明の死と供に解放されておりましょうが、中には命が消えたものもおりましょう…郷長のために用意された女達は…生きていけないのです。食べることから操られねば、生命の維持が不可能なほどだったのですから」
一度言を切ったは、一息置いてから再び語る。
「華瑟を初めとする、妓楼の花娘達も彼女の実験に使われて参りました。主上がお出ましになる場所に、送り込むためです…ですが、私の心は深く閉ざされておりました。主上がその心を解放して下さるまで、彼女の侵入を許す空間がなかったのでしょう…」
そこまでを言うと、ふっと顔を上げた。
六太を見て頭を下げる。
「台輔、血の匂いを宮城に持ち込んでしまった事、深くお詫び申しあげます。お体に障りございませんか?」
尚隆がぶたれたのが面白かったのか、六太は満面の笑みでに返す。
「うん。ぜーんぜん大丈夫。でも、あんまり見舞いに来れなかった。ごめんな」
「とんでもないことです。そのお心遣いだけで、充分でございますわ」
はそう言うと、六太から視線を外し、誰もいない前方を見た。
「彼女の体は、幾重にもかけられた呪によって、保存されておりました。そして呪が完遂された時、琶郷長に頼んで私を殺すようにと、指示を出していたのです。私を誘き寄せる事を前提に入れて。彼女は琶郷の端に庵を持ち、そこに自分の体を安置しておりました。周りには操られた数人の男が、常に見張っていたのです。私はそこへ連れて行かれました。関弓に降りた直後からの意識がございませんから、どのようにして光州まで行ったのかは分かりませんが、気がついた時には、もう一人の私に、顔を覗きこまれておりました」
「では、焼かれたこそ華明だと?」
帷湍からの問いかけに、の顔が伏せられる。
「はい。彼女は私に思い込ませたのです。華瑟の体から抜ける時に、死んで行く様な言を私に残し、もっとらしく消えたのです。ですが…庭院には相変わらず引き寄せられました。雲海を覗くと、雨が降っております。今は…もう冬でございましょう?ですが、私には秋の様子を映し出すのです。関弓に降りたのもそのせいです。気温との差が私に疑問を抱かせたのですが、華明からしてみれば、どのような事が起これば、私が宮城を離れるか、分かっていたのでしょう。私は彼女と繋がっておりました。それは呪の最中からあった事でしたが、彼女が完全に私になると、一層強く彼女の心が流れ込んで参りました。その本音が見えてしまうほどに」
「では…最後に残した言というのは、嘘だったと?」
尚隆の声がに飛んだが、その顔は尚隆に向けられない。
「恐らく…謝罪の言葉も何もかも、死を信じ込ませるための物だったのでしょう」
伏せた視線を上げて、は帷湍に目を向けた。
「太宰…」
手を伸ばしたは、帷湍がそれを受け取るのを待った。
戸惑いがちに受け取った帷湍は、隣に立つ主から痛いほどの視線を受けていたが、生き返ったを妙に実感して、思わず涙が流れそうになっていた。
「申し訳ございませんでした。大司徒からのご伝言、お伝え頂いて感謝しております。合議には参加できませんでしたが、なるべく早くに復帰すると、そうお伝え願えますか?増える戸籍も、均す地も、まだまだございますから」
はそう言って、にこりと笑った。
「…それは…その事は…。あれは華明だったのだろう?何故知って…?」
「ですから、私は深く彼女と繋がっていたのです。どちらかの意識が途絶えると、それは一層強くなました。それが続くと、恐らく気が触れていたでしょう…何しろ互いの意識が流れるのですから」
手をそっと下ろした。
帷湍の手も同時に降ろされ、その手を離した。
「華明は私と同じ姿になり、郷長に私を斬らせようとしておりました。ですが、呼びつけられた彼は、どちらが華明か分からなかったのですね…宮城に戻るために、私と同じ色の襦裙と、表情までもが同じ顔。これでは見抜くのが難しいでしょう。私はその時意識がなかったのですが、夢の中で様子を見ておりました。郷長が決めたのは、華明のほうでした。違うと言って逃げ惑う彼女の肩に、彼は冬器を振り下ろしました。心が違うと言って…。ずっと保管されて使っていなかった体、それに加え大きな呪の後です。体力のない彼女はそれだけで、あっさりと息を引き取りました。痛みまでもが伝わるほどの強力な呪のおかげで、私は目を覚ましました。ですが、私以外は華明が死んだ事によって、その呪縛から解放され、意識を失ってしまいました」
「では、その隙に逃げ出したのか?」
帷湍の問いかけに、はそちらに顔を向けて頷いた。
隣にちらりと見える王を無視して、さらに語りは続く。
「郷長だけは、その呪詛から解き放たれてもなお、私を殺そうとするでしょう。華明ではなかったのですから。急いで庵付近を調べ、騎獣を発見しましたが、私は騎獣に乗ることができません。それでも、何とかしなければと苦戦している所に、郷長が早くも戻って参ったのです。逃げようとしている私を見て、彼は自分の失態を知りました。逆上して刀を振り回し、騎獣も私も数箇所斬られたのです…」
は身震いを一つ起こして、続きを話す。
「斬られて、夢を見ました。その中で、太宰のお言葉を聴いたのです。ですが私の上で動く者があり、それに圧迫され呼吸が苦しくなって目が開いたのです。もちろんあの男でした。ですが、すでに彼の目は狂人のものでした。何度も何度も華明と名を呼ぶのです。華明の名を呼び、逃げられぬように、私を切り刻んでいきました。恐らく気が触れたのでしょう…そこで私は華明のふりをして、彼に声をかけました。少しは言うことを聞いてくれたので、とにかく眠るように言い渡したのです」
「何もされなかったのか?」
尚隆の声が横から聞こえ、は首を横に振った。
「切り刻まれた以外は…。彼が寝入ったのを合図に、私は郷城に戻るようにと書置きを残し、再び騎獣の許へと参りました。手当てを施し、関弓まで行って欲しいと頼みました。騎獣も体力がなさそうでしたが、一先ずは動いてくれました。その歩行は遅かったのだと思いますが、郷長の目からは逃れられたようでした。何度もその背で気を失い、気がつけば投げ出されておりました。騎獣を探すために立ち上がったのですが、足はかなり萎えておりました。その時…」
の声は掠れ初めていた。
それに気がついた尚隆は、水を差し出して、それを飲ませた。
喉の潤ったは、なおも続ける。
「その時、夢現の中で彼女が荼毘にふされたのを思い出しました。暑さまで伝わって参りましたから…私は生きていることを知らせる方法として、何よりも生きるために、糸を切りました。騎獣が見当たらず、このままでは死んでしまうと思ったのです。騎獣を探して林をさ迷い、気がつけば何かに足を取られておりました。そこからは深い暗闇しか見えておりません。華明の意識も体も存在しなかったのですから、これが普通なのかもしれませんが…」
そこまで言うと、は長い息を吐き出し、今言えることの全部を言ったのだと、周囲に悟らせた。
靠枕に身を預け、瞳を閉じると苦しげな表情に変わる。
「、少し眠った方が良いのでは?苦しそうですよ」
朱衡がそう言い、王を除く周囲がそれに賛成した。
「はい…ですが…」
「まだ、何か言い足りないのか?」
帷湍がそう言うと、は再び身を起こして、姿勢を整えた。
そして、ぐるりと周囲を見て言う。
「主上とお話をさせて頂いても、よろしゅうございますか?」
「それは、もちろん構わないが…大丈夫なのか?」
心配そうな帷湍に、の笑顔が向けられる。
「はい」
そうかと言って、王以外の四名はその場から消えた。
頬をぶたれた直後から、はまったく尚隆を見ようとしない。
ここに入って来てからは、一度しか目を合わせていない。
それどころか…
「主上」
一気に人が減った房室に、の静かな声が響いた。
まだ、ただの一度も名を呼ばれておらず、それが少し不安にさせる。
本当になのだろうかと。
尚隆だけを残したの姿をしたこの女は、実は華明なのではないかという不安が、その心中を襲っていた。
「何故、名を呼ばぬ」
は顔を伏せて手を握り締めた。
だが、それでも静かに言う。
「怒っているからです」
「怒っておる、と?」
予想を外れて、何とも意外な言葉が返ってきた。
は拳に更なる力を入れて言う。
「私は、最後まで諦めませんでした。それは主上と約束したからです。そして主上は死なぬと…俺は死なぬと仰られませんでしたか?」
みるみる瞳を潤まして、は前方を見据えている。
「何を…?」
「私は…華明が荼毘にふされるその瞬間まで、彼女と繋がっていたのですよ?帷湍さまの言葉は痛く、早く戻らねばと私に思わせました。なれど、その直後…主上は…」
は涙を噛み下すようにして、息を呑み込み続ける。
「何故糸を切らぬと仰せられた言が、私の中に響きました。誰の声かはすぐに分かりました…嬉しかった。意識が戻れば、すぐにでも糸を切ろうと思ったその矢先、私は信じられない言を聞きました」
一度切ったは、睨むようにして尚隆を見上げた。
「一緒に…死にたいなど、我侭にもほどがございます。民はどうなるのです!たかだか女一人の為に、王を失のうたこの国の、行く末はどうなるのです?冗談でも聞きたい言ではございません。今後、二度とそのような事を口になされますな!」
呆気にとられた尚隆は、涙を流しながら怒るをただ見つめていた。
「五十年前主上に言われた事を、私は守ってきたつもりです。悪あがきでも何でもして、生きることを考えよと、自ら命を絶つなど許せぬと、そう仰せられました。そのご本人が、いとも簡単にそのような事を…」
「それに対して怒っておったのか?」
「さようでございます。当分は許しません。私の気がおさまるまでは、主上と呼ばせて頂きます」
これは完全に華明ではない。
の考えそのものだった。
尚隆は怒りで涙を流す体に手を伸ばした。
振り払おうとする手を掻い潜り、その体を抱きしめて言う。
「すまなかった」
「…。いえ…主上。助けて頂いて、身に余る光栄でございます。言葉では言い尽くせないほど、感謝致しております」
「無理をせずとも良い。恐ろしい思いをしたのだから、ただの女として泣けばいいのだぞ?」
「恐ろしい思いなど…王を失うことに比べれば、些細な事でございます。なれど…お逢いしとうございました」
抱き返してくる微弱な力。
それを感じ取った尚隆は、少し体を離し、に口付けようと顔を近付けて行った。
だが、の手がそれを制し、駄目だと言う声がする。
「それも…怒っておるからか?」
「はい」
「では、は口付けたくないと?」
「今は…」
再び声が掠れている事に気がついた尚隆は、さらに体を離して水を取った。
の手が伸びて到達しようとした瞬間に、それは頭上に持ち上げられていった。
何事かと見守る目前で、水は尚隆の口に含まれ、そのままの唇に流し込まれる。
もちろん抵抗はしたが、萎えた手足ではどうにも抗えなかった。
「尚隆さま!」
水を飲み終え、怒ろうとした直後、はっと口を押さえた。
それを笑って見ている尚隆を、軽く睨んでは言う。
「今のは口付けではございませんわ…」
幾分か柔らかくなった口調に、尚隆の笑みが深まる。
「では、本当の口付けをしてやろうか?」
「駄目ですと、申し上げませんでしたか?」
「さて、聞いておらんが?」
「先ほど申し上げましたでしょう!」
「知らんな」
再び引き寄せられて、は尚隆の胸元に頭を預ける形となった。
「生きていて…よかった」
およそ尚隆らしからぬ言に、の目が見開かれる。
本心の声、心の声。
その死を悼み、泣きそうだった声とは違い、温かい声だった。
自らも死んでしまおうかという声は、華明に囁かれてに夢の中で伝えられた。
「尚隆さま…」
再び出された名に、尚隆から口付けが降る。
それは雨のように降り注ぎ、止むことがないように思われた。
やがて体を気遣ってか、尚隆の手によっての体が横たわる。
静かに身を沈めて行くと、誘うような眠りが手招いていた。
握られた手の感触を感じながら、は夢の中へと埋没していった。
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