ドリーム小説
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千草の糸 =22= その翌日も、尚隆は朝議に参加した。
の墓を作る案が浮上しており、王宮内に作って欲しいと、多くの官僚からの声があると言う話を、尚隆はぼんやりと聞いていた。
ふと、その顔が上げられる。
「待て」
片手で官達を制した尚隆は、すべるように視線を足元へと移動し、その直後朝議は終わりを告げた。
王が散議を命じたのだった。
有無を言わせぬ勢いに、不安気な官達はその場を退出していく。
それを呼び止める声。
「成笙」
壇上の王が大司馬を呼びとめ、引き戻させた。
「空行師一両、すぐに動かせるか」
「一両でしたら。どちらへ?」
「の許へだ。禁門で待機させておけ、すぐに行く」
何も言えないまま固まった成笙。
気でも触れたのではないかと思ったのだ。
まだを斬った人物は分かっていない。
それどころか、謀反の気配すら見つけられずに、未だ謎のままだった。
王はその死を悼む余り、現実を受け入れようとしなかった。
このまま行けば、雁の危機だと、成笙はそう思った。
一度箍が外れてしまえば、後は転がり落ちるようにして崩落する。
前王がそうであったように…
「まだ、止める事は可能なはずだ」
成笙は自分にそう言い聞かせて、その場を後にした。
急いで主の許に向かいたかったが、念の為に空行師に指示を出し、禁門に待機させた。
王の自室へと駆け込むと、そこには朱衡の姿があった。
「成笙、準備は整ったか」
軽く武装した主を見て、成笙はますます不安が大きくなっていた。
「何処に行くつもりですか」
すると主は訝しげに成笙を見て言う。
「さっき言っただろう。の所へと。急いで行くぞ」
「待て!は昨日…」
「あれはではない」
これはいよいよ危ないぞと、成笙は心の中で呟いた。
「で、では誰だと…」
「成笙」
横から朱衡の声が飛ぶ。
「糸が切れたのですよ。でないと切れぬはずの糸が、先ほど切れたのです。足元を見ておられたでしょう。詳しい事は何も分かりませんが、糸が切れた以上、昨日のは偽者です。糸も一緒に燃えるはずですから、昨日切れたのなら分かりますが、切れたのは先ほどです。北を指していたようですね」
「そ、それでは…」
「生きておられます」
力強くそう言った朱衡に、成笙は驚きの表情を見せ、自分の勘違いを振り払った。
「では、気が触れた訳ではなかったんだな!よし、大丈夫だ。空行師一両はもう出せる。追加一両を後から追わせよう」
成笙はそう言うと、踵を返して手配に走り出した。
「気が触れたとは、俺のことか?」
「そうでしょうね」
「そうか…まあ、いいとしよう」
何も堪えた様子のない主に、朱衡は苦笑したいところだったが、実を言うとかなり安堵していて、それどころではなかった。
朱衡とて、視線の細かな動きに気がつかなければ、成笙と同じように思っただろう。
始め、その視線は手元にあった。
それがすぐさま足元に移動し、何かを拾い上げる動作があった。
ちらりと千草色が見えた。
それですぐに確認しに来たのだ。
後を頼んだといいながら出ていく主を見送って、朱衡は帷湍の許へと向かって行く。
一刻も早く伝えてやりたかった。
禁門から飛び立った騎獣の群れは、一路北を目指す。
吹きすさぶ条風を痛いほど顔に受け、尚隆はまっすぐと空行を続けた。
玄英宮を飛び立って一刻ほどしただろうか、手の中の糸はくるりと向きを変えた。
見てみると、今度は南西を指している。
糸に導かれるまま辿り着いたそこは―――――
「主上、なんだか何もない所ですね…」
靄然(あいぜん)とした山野に降り立った一行は、尚隆の指示でその場に待機となった。
光州は琶郷(はごう)の端だった。
山を二つほど越えれば靖州である。
一人歩き出す主の後ろ姿を、夏官達は不安げに見守っている。
尚隆は手中の糸を何度も確認する。
千草の糸は僅かに方向を変えながら、尚隆を導いて行く。
今は南東に糸は向いている。
注意深く足を進め、糸を見ながら奥まった幽翠(ゆうすい)へと入っていった。
「ここはまだ荒地のままか…」
所々大きくひび割れている地面。
草地が続いたかと思うと、急な渓谷に行き当たったり、大きな穴が開いていたりする。
注意深く辺りを見ながら、尚隆はさらに奥を目指す。
ふと、目に留まったものを確認しようと、尚隆はたなびく靄を振り払いながら、奥へと進んでいく。
決められた動作のように糸を確認するが、もはや無用の長物と相違なかった。
その視線の先には、靄に見え隠れしている白いものが見えている。
明らかに人の手であり、女性特有の形をしている。
血の気を失ったような手には、一筋の赤い線が見えており、糸はそちらを指し示していた。
不安に駆り立てながらも、辺りを注意深く見ながら進む尚隆。
何者かが潜んでいるような気配はない。
靄を払うたびにはっきりと見えてくる手。
一筋の赤いものが何かは分かっていたが、認めたくない思いも強い。
だが、糸が切れたという事実は、少なくとも朝の時点では、意識があったと言うことだ。
もう、白い手は目前まで迫っていた。
ふと、手前に目が止まる。
切れた千草色の糸が、そこにはあった。
糸をそのままに、自ら手中に入れてある糸をも捨て去り、尚隆は手の主の許へと駆けよった。
大きく割れた地面の端にある、剥き出しの岩肌に、引っかかるようにして置かれた白い腕。
奇しくも斬られたが身に着けていたものと、同じ色の襦裙。
瑠璃色はやはり血に染まり、紫紺に変色している。
顔にかかる靄を振り払いながら、その手に自らの手を差し伸べる。
伸ばされたその指先が、僅かに震えているようにも感じた。
それでも手を伸べ、赤い筋のついた白い手を取った。
上に引き上げると、血にまみれたの体が現れ、斬られたのだと知れる。
だが、微弱ながら息もしている。
割れた地の下には、鹿蜀(ろくしょく)が血まみれで倒れていた。
尚隆はをそっと腕の中に抱え込むと、急いで一両の待機する場所まで戻っていった。
「主上!」
両司馬が駆け寄ってきて、目を見開いている。
「これは…。一体何が?」
「分からぬ。だが、早急に手当てを施さねばならん」
の体は速やかに近隣の里へと運ばれ、応急処置が施された。
その間に、尚隆は遅れて到着した一両に命じ、琶郷の郷城を調べさせた。
はその後、一日をかけて玄英宮に運び、さらなる治療がなされた。
誰もがこの不思議な出来事に頭を捻っていた。
荼毘にふされる直前、面前に花を添えた者もいたのだから、当然の困惑だった。
今や後宮で治療を受けているのが本物のだと、確信を持って信じているのは、僅か五名だけだった。
即ち、王、宰輔、大宗伯、太宰、大司馬のみだった。
千草色の糸の存在を知っていた、五名と言う事だ。
しかしその五名とて、何故こうなったのかは分からない。
荼毘にふされたが何者であったのかも、検討つけようがなかった。
何より、が消えた、または発見された事によって、何者かが動いたような形跡もなく、また目に留まるような情報の一切がない。
が目を覚まし、その口から事情を聞くより他はなさそうである。
瘍医は全力で手当てに当たったし、傷も随分とふさがったが、は呻き声も漏らさずに眠り続けている。
静かに呼吸を繰り返しているのが、せめてもの救いと言うところだった。
翌日。
光州琶郷に残してきた両司馬からの報を持った成笙が、尚隆の許を訪ねて後宮へと足を踏み入れた。
その時尚隆は牀の横に椅子を置き、そこから立ち上がらぬまま、首だけを成笙に向けていた。
「琶郷郷長は、狂っていたようです」
成笙が言ったそれに対し、尚隆は訝しげな視線を投げていた。
そこへ、朱衡が現れて、成笙の口が一旦閉ざされる。
「主上。先日お預け頂きました女性ですが…」
「どうした」
「駮弾琴を弾く事が出来ますね。楽士に引き合わせてみたところ、かなりの腕前とか。彼女は何者なのです?」
「長い間華明に使われていたのだろう。大丈夫だとは思うがな…。何か思い出した様子は?」
「皆無でございます。それこそ駮弾琴の演奏以外は、名も思い出せぬようですね。駮弾琴にしても思い出したと言うよりは、指が覚えていると言った方が正しいでしょう。彼女自身の記憶らしきものは、幼い頃に死んだ両親の記憶ぐらいでした。ただ、殺されているようですので、辛い記憶ではありますが…」
「殺されておるのか…幼い頃から操られていたのだな…」
尚隆は物思いに更けそうになる意識を引き戻し、成笙に目を向けなおした。
「で、琶郷長が狂っていたとは?」
「はい」
簡素に返事をして、成笙は語り始めた。
元々琶郷の郷長は、良くも悪くもない人物だったようだ。
国に逆らうこともなく、民を虐げるような事もない。
だが、よく地を均しているのかと言えば、そうでもないようだった。
可もなく、不可もなくと言った具合で、目立たぬ存在であり、ゆえに琶郷自体も、取り立てて目につくような事などなかった。
今回の事が起こるまで、禁軍が押し寄せるなど、郷府の者達には考えもつかなかった事だろう。
の下で事切れていた鹿蜀は、郷長の物であったが、らしき者が囚われていたような形跡はない。
ただ郷長は留守にする事も多く、長期間郷城を空けるので、誰も知らない時間もある。
その間に何をしていてもおかしくないとの事だった。
郷城から程近い場所に、館第を一つ持っていると聞き、そこに向かったのが三両。
両司馬らが目算をつけて踏み込んだ場所は、臥室のようだった。
そこで見たものは、腐りかけた女の死体と、裸で抱き合っている琶郷長だった。
彼はその死体を華明だと思い、愛撫を続けていたようだ。
死んでいるなど思いもよらず、まるで何かに取り憑かれたように見えたのだと言う。
「まて、華瑟ではなく、華明だと言っていたのか?」
尚隆の質問に、成笙は頷いて答えた。
「戸籍の上では、郷長の妻君は華瑟のはずですが?」
朱衡も質問を成笙にぶつける。
「だが、狂ったように華明の名を呼び、貪る様にしてその体を抱いていたと。腐ったような匂いが立ち込め、顔は酷く歪んで、辛うじて女と分かる程度だったと、報告にはあります」
今のところは他に取り立てて情報もないと締めくくり、成笙は口を閉ざして反応を待った。
「では、一先ず郷長の身柄を拘束せよ。死体は身元を洗い、丁寧に弔ってやれ」
指示を受けた成笙は畏まって退出し、その場には朱衡のみが残った。
「華瑟のほうはいかが致しましょう」
「そちらは一任する。害はないと思うがな。どうだ?」
「そうですね。害はないと思うのですが、まだ分かりませんね。一連の動きが収まるまで、わたしの官邸から出さないようには致しますが…」
「では問題ないだろう。彼女は被害者だからな。冷遇する気にはなれん」
「さようでございますね」
微笑んで言った朱衡は、物音立てずに眠り続けているに一度目を向けてから、その場を離れていった。
翌日、琶郷長が抱いていた死体は、郷城に勤める女である事が判明した。
仙籍にはなく、郷長の妻が個人的に雇い入れた者だと言う事だった。
その死の原因は餓死のようだった。
呪の類がかかっていると、冬官からの声もあり、調べにかかったのだが、腐敗が著しく、すぐに埋葬される事になった。
その報告の数刻後、の目が開かれたと報を受けたが、尚隆が駆けつけた時には再び瞳を閉じていた。
ほんの瞬きの間だけ、意識が回復したとの事だった。
それからも、度々の目は開かれた。
意識は徐々に回復を見せ、瘍医からはもう大丈夫だと言う声が上がる。
だが、尚隆は間合いに恵まれず、の瞳を見る事がないまま、日数だけが経過して行った。
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