ドリーム小説




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千草の糸


=21=



翌日、関弓から歩いて一日程の小さな里で、らしき人物を見たと伍長が聞いたのは、昼が迫った頃だった。

報告を受けた尚隆が、兵卒らとそちらに向かっていると、違う伍とも合流し、十一名が関弓の北東を目指していた。

「主上!」

伍長が尚隆に駆け寄り、その険しい顔を横目で確認した。

王もまた、北東を目指していた。

何やらかき立てるような衝動が湧き、伍長は兵卒らを急がして足を速めた。

尚隆も駆け足になりそうな程の速度で歩いている。

なだらかな丘に差し掛かろうとしていた。

そこで新たな情報が入る。

男に引かれて行く、嫌がる女がいたとの情報だった。

女が着ていた襦裙の色は瑠璃色だったと。

恐らく頂上を目指しているのではないかとの事。

急いでいた足は、今や駆け足になっていた。





坂道を駆け登っている最中、頂上から瑠璃色が目に飛び込む。

後ろを向き、何かから逃げている様子だった。

!」

尚隆の声が丘の頂上に届き、女は坂道を見下ろす。

出会えたことが至上の喜びであったかのような、そんな表情をして、は丘を駆け下りようとしていた。





だが―――――









尚隆が見えたのは、腕だけだった。



袍に包まれた男の右腕。



その手には、鈍色の刃物が握られており、躊躇することなくに振り下ろされた。



右肩から鮮血が迸(ほとばし)る。



音もなく倒れて行くは、視界から消えうせた。



そして全員が辿り着いたとき、そこには蒼白の面で倒れているの姿しかなかった。



瑠璃の襦裙は血のせいで紫紺に変わり果て、の肌は色が抜け落ちたように白くなっていた。

信じられないような思いで駆け寄った尚隆は、を抱きかかえてその口元に耳を当てた。

だが、息をしている音は一切聞こえない。

ぴくりとも動かない体を手放すことが出来ず、そのまま騎獣を駆って城へと戻る。

血にまみれた王と小司徒が禁門に降り立った事で一時は騒然となった。

すぐさま瘍医が呼ばれたが、治療の施しようがないとの返答が返ってきた。

首を撥ねられた訳ではなかったが、息をしておらず、吹き返す気配がないとの事だった。

それでも何とかせよとの言葉に、瘍医はあらゆることを試してみたが、変化が訪れることはなく、の息が吹き返される事はなかった。











やがて、の周りからは人が消えていった。

ただ一人を除いて。

尚隆が人払いをしたのだった。

恐らく、今ここに出入り出来るのは、僅か二名。

宰輔は血の気に当たってしまうし、大司馬は捜索の指揮を執っている。











夕刻も深まった頃。

その二名――――――帷湍と朱衡だけが、後宮の一角に足を運んでいた。

扉を開けて中に入ると、窓際に立って外を眺める主に目が止まった。

薄暗いせいもあり、その表情は伺えない。

「主上…は…」

朱衡が問うても、何の返事もない。

帷湍が横からせっついて、房室の一角を指差した。

牀榻の紗は上げられており、牀の上に力なく横たわるの姿があった。

「おいたわしい…」

朱衡は膝を折って牀榻に乗っているだけのを見る。

何を言って良いのやら、言葉らしきものは浮かばない。

…」

帷湍も同じように膝を折り、その白い顔を眺めていた。

だが、その様子は朱衡とは違った。

帷湍は信じられないと言った面持ちで、眠るようなの顔を眺めていた。

五十年ばかりの記憶が、その脳裏を駆け巡る。





地官府に於いて、あらゆる新案を提出してきた

その着想によって、どれほどの治水が助かった事か。

予想も出来ないところから得た発想、誰にも好かれる人柄、何よりも大司徒としての帷湍を、補佐して余るほどの器量を持ち合わせていた。

無表情だった頃の記憶でさえ、今は懐かしく感じる。

震える手をに伸ばし、帷湍は軽くを揺らす。

「何故だ…何があった?どうして息を吹き返さない!」

「帷湍」

朱衡が止めるのも無視して、帷湍はの体を揺すぶっていた。

「起きろ…。まだ地官はお前が必要なんだぞ?大司徒から合議が夕刻にあると、伝言を頼まれている。早く地官に戻らんと合議が進まんじゃないか…。俺が地官にいた時から、いつも…進行していただろう?皆で頑張って来たじゃないか!戸籍が増えたと言って喜んでおっただろ?それも、まだまだこれから増えるんだ。均す土地もまだたくさんある。だから、こんなところで寝ている場合じゃないんだぞ!」

「帷湍、お止めなさい」

止める朱衡の顔も、帷湍に負けないほど苦痛に満ちていた。

「主上…失礼いたしました。せめて、を手にかけた者が分かるよう、尽力いたします」

朱衡はそう言って、まだに語りかけようとしていた帷湍を、無理矢理外に連れ出した。

閉まる扉の向こうから、帷湍の声がまだ響いていた。

天官達も、太宰―――帷湍のその様子に心を痛め、の事で口を開くことは躊躇われた。

もちろん王の許を訪ねようと思う者は、現在の雁には皆無である。






























朱衡と帷湍が退出した房内には、動かぬ二人の人物がいた。

翳りを見せた西日が射し込んで、の頬を薄暗く照らし出している。

尚隆は南に面している窓際から動こうとはせず、ただじっと雲海を眺めていた。

もし、今動いてしまえば、たちまち帷湍と同じような行動に出ただろう。

未だ信じられぬ思いが、心中に渦巻いている。

だが、は尚隆の目前で、冬器に貫かれたのだ。

あんなにも鮮やかな血が流れていたのかと、そのような事を考えていた。

どういった事情が絡み合って、が斬られねばならなかったのか、今の尚隆には考えるような気力もなかった。





何も考えられない。





ただとの思い出ばかりが脳裏を駆け巡り、何度も同じように巡回していた。






菱紋を持ち込んだ女。

瀬戸内の残像をありありと思い出した。

小松を滅ぼした村上の現状を教え、大内が同じ道を辿ると予言した。

その後尚隆が小松の生き残りと知り、気絶してしまった

君主が自害しても、民には何も残らない、為にならぬと言った女。

瀬戸内を思い出させ、その残像から救い上げた女。

そして、泣けと言った―――――





『若様は、何故お泣きにならない…』





ようやく融けた体を、窓から引き剥がして牀榻へと移動した。

腰を降ろすと、僅かに沈んだの体。

胸下に乗せられた手を、そっと包み込む。

「お前の身に…何が起きた」

見下ろしたの口は、それに対して何も答えない。

ただ、握られた手が揺れるだけだった。

過去の呪縛から解放され、ようやく前に進もうというときに呪詛を受け、それが解決したと思ったら、今度は斬られて息を止めた。

「何故だ…」

小さく言った声は、翳を強めた黄昏の中に消えていく。

それでも尚隆は言わずにはおれなかった。



「何故、糸を切らなかった!」

の手首に巻かれているはずの、千草の糸。

身に危険が迫ったのなら、迷わず切れと言った。





呪詛を受けた時は、常に宮城にいた。

尚隆が命じたのもあったが、後宮か正寝の間しか移動をしていない。

常に何処にいるのか分かっていた。

ゆえに糸を切る必要もなかったのだが、今回は違う。

五十年前の囚われた時のように、危険が迫っていたのならば、その糸を切るものだと思っていた。

そうすれば、すぐさま救済に向かったと言うのに、は何を危惧してそれを実行に移さなかったのだろうか。

今や夜と化した房室は、尚隆の闇を深めていくようだった。

一条の光であった存在が消え失せてしまった心には、蠢く様に燻る闇だけが残っている。

何もかもが、どうでもよくなったような気がした。

このまま一緒に埋葬されてもいいと思うような、そんな気になっていたのだ。

弱さが露見したように感じた尚隆は、自嘲的な笑みを浮かべたまま、の手を自らの袂に引き寄せていた。

冷たくなった手はやはり動かず、なされるがままの体は白いままだった。

「お前は笑うか?一緒に死にたいなどと言えば…いや、むしろ怒るか」

なら怒るのだろう。

盾になりたくないあまり自害しようとしたのだから、尚隆が一緒に死ぬなどと戯けた事を言いだせば、怒るに決まっている。



怒って言うのだ。

『そんな事をすれば、民が悲しみます』と。



尚隆は引き寄せていた手を離し、その体ごと腕の中に閉じ込めた。

不思議そうに見上げる顔も、恥ずかしそうに伏せる表情も、柔らかい芬芳(ふんぼう)も、愛しい微笑みも、そのどれも今のからは発せられない。

動かぬ頭に冷たい肌。

死の匂いだけがそれらを取り巻いて、離れようとしない。

…」

硬く閉ざされた瞳に口付けを落とし、冷たい唇にもそれを与える。

まるで人形のようになったを、それでも放すことが出来ずにいた。

腕に抱いていれば、再び動きそうな気がして、力を緩めることは不可能だった。

夜が深まり、条風が開けたままの窓から流れ込んでも、尚隆はただ固まったように横になっている。

愛しい人の残骸を抱いたまま、夜は更けていった。









































翌朝、朝の鐘がなると、心配した女官らが尚隆の様子を伺いに来た。

それに大丈夫だと言い、朝議に出るために着替えをすませる。

朝餉を取って朝議に出るが、何も耳に入っては来なかった。

ただ自らの手首に巻かれた千草の糸を、時折触っては耳を傾けるふりを続けている。

誰の目から見ても聞いていないのは明らかだったのだが、の死がすでに伝わっていたのか、誰もそれに対して口を開いたものはいなかった。





















その日の午後、の埋葬が行われた。

諸官の殆どがそれに参列した。

泣き崩れる女官達、涙を堪えている地官達。

大司徒に到っては、何かを通り越して無表情であった。

帷湍や朱衡ももちろん参列し、捜索に赴いていた成笙も、戻ってきていた。

それぞれが別れを告げ、荼毘される体を見つめていた。

花に包まれていた体は、やがて炎に呑み込まれ、これが本当の別れとなった。

王はその場に来ずだったが、誰も呼びに行こうとはしない。

玄英宮がかつてないほど、陰鬱な空気に包まれた一日であった。



続く






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