ドリーム小説
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千草の糸 =20= 翌朝から、は通常の業務に戻った。
ようやく戻ってきた小司徒に、歓喜の声があちこちから上がり、各所を引き回された挙句、他官府にまで引っ張っていかれた。
解放された時には、すっかり陽は落ち込んでおり、いつもよりもぐったりとして宮道を歩いていた。
「そういえば、以前にも似たようなことが…」
遠くなった記憶を呼び起こしてみると、五十年も前に行き当たった。
要条郷に囚われ、尚隆に救われた一週間後。
後宮で静養し、戻ってきた時にも、このような歓迎を受けた。
くたくたになった所を王に捕まり、禁門付近の堂屋に入った。
月の光を集めたあの場所。
癒されぬ心に抗うことが出来ず、心の闇を見せるのが怖くて手を振り解いた夜。
秋桜を掠めて逃げ出したあの日。
五十年後に同じところで思いを完遂させた…月の堂屋。
月と酒と千草の糸。
ふとそれを思い出したは、手首にあるはずの糸を確認していた。
見えない糸は確かに巻きついており、それと同じものが尚隆にも巻きついている。
同じものを所有していると言うのが、何やら気恥ずかしいような、嬉しいような気分にさせる。
五十年前とは、その心情がまるで違うと、はそう思って歩いていた。
五十年前なら、呼ばれていなければ正寝に向かったりしなかっただろう。
「思いが通じたからなのかしら…引き寄せられて呪詛を受けたのは」
歩きながら言った声に、もちろん返す者はいない。
そんな事を考えていたからだろうか、王の房室を尋ねるつもりだったは、気がつけば庭院に来ていた。
王の自室からまっすぐ南に抜けた庭院。
笛を吹き、華明を弔った、この場所。
「今は笛がないわね…」
は露台に歩み寄り、そっと腰を降ろした。
始めに倒れた日を思い出したのが合図だったのか、次々と最近の出来事が浮上してくる。
この場所には、追懐に身を置く呪でもかけられているのではないかと、そう思うほどだった。
しばし思いだけを馳せ、やがては立ち上がってその場を去る。
王の自室を尋ねると、部屋の主は榻でうとうとしていた。
近くには香炉があり、馨しい芳香が辺りに立ち込めている。
少しだけ空いた窓から、冷気が流れ込もうとしていたが、それはの手によってせき止められた。
しばし悩んだ後、は衾(かけぶとん)を引っ張りだして、そっと尚隆にかけた。
今日は朝議にも主席し、その後もずっと政務に明け暮れていたと、天官府に引かれて行った時に、帷湍から教えられた。
音を立てないように笑ったは、尚隆の寝顔をただ見つめて満足げに微笑んだ。
動かすことは不可能だったので、そのまま退出しようと立ち上がったその時。
辺りを漂う馨りが強くなったように感じた。
腕を掴まれて、そのまま引き寄せられる。
いつの間にか衾は口を開いており、すっぽりと中に入ってしまったは、狸寝入りだった事にようやく気がついた。
抗議しようとしたが、少し口を開いた瞬間に閉ざされてしまった。
閉ざしたものが尚隆の唇であった事は、言うまでもないが。
そのまま深くなる口付け。
の腕に、撥ね退ける力が入る。
ようやく解放された時には、人相が変わりそうなほど赤くなっていた。
「まだ気恥ずかしいか?」
「はい…」
消え入りそうな声で返事をするに、尚隆は笑って返していた。
これだけ口付けても、やはり呪はなく大丈夫なようである。
気持ちを重ねる事に、身構える必要がないのだから、笑顔にもなるというもの。
「起きておられるのでしたら、臥室まで行きませんと。寒い風に晒されてしまいますから」
「このままではいかんか?」
は少し間を置いて、小さく言う。
「私は構いませんが…狭くはございませんか?」
「動くのなら狭いな」
再び赤くなった耳が目に映り、堪えきれなくなった尚隆は、肩を大きく揺さぶって笑う。
声だけは何とか噛み殺しているようだったが、密着している状態では何の意味もなさない。
だが返す言がないのか、返す余裕がないのか、は固まったようにじっとしている。
「では、臥室に行くか?」
「こ…このままでも…」
寝てしまおうと思った魂胆は、簡単に見抜かれて返される。
「せっかく誘いを受けたと言うのに、それではあんまりではないか?」
「誘…誘って!?誘ってなど…!」
慌てて逃げ出そうとする体を引き止めて、耳元で囁くように言う。
「逃げ場は作ってやらんぞ。今日ばかりは離さんからな」
そう言うとは、抵抗を止めて素直に腕の中に納まった。
小さく頷きながら、今までは逃がしてくれていたのだと気がつく。
抱きしめられたまま動揺させられ、混乱しそうになると政務やその他の話になっていた。
だが、今日はそれをしないと言う。
気恥ずかしく、鼓動は激しく動いていたが、何よりも幸せを感じていた。
もちろん嫌がる理由もない。
は尚隆の胸元に頬を埋めて、そっと瞳を閉じる。
満たされていく心が、手に取るように分かり、眉の上から降ってくる口付けを、そのまま受けていた。
額、瞼、唇と、口付けを落としていった尚隆は、おもむろに立ち上がって、両腕にを抱える。
呪も何もなく、ようやく抱ける体を慈しむ様に抱え込み、臥室へと向かった。
臥室に入ると迷いもなく、牀榻へと入り、牀にそっとの体を横たえる。
少し乱れた髪を上げて、そのまま口付けを落とした。
緊張のあまりか、少し強張った体。
だが、呪の時とはまるで違う。
それに安堵しているのは、尚隆だけではなかった。
何よりも自身、痛みを伴うのではないかと、まだ若干危惧していた。
だがそれもなく、尚隆に気がつかれぬよう、ほっと息を吐き出す。
「大丈夫だ」
見透かされていたのか、息を吐き出した瞬間言われてしまう。
は頷いてそれに答え、腕を尚隆に回して震えを伝えた。
「怖いか…?」
「いいえ。ただ、やはり緊張いたします。ご気分を害されましたでしょうか…?」
緊張の余り震えるのだと言われて、気分を害す男などおるまいと、尚隆はそう言いそうになったが、笑っただけで済ませ、口付けて分からせた。
徐々に深くなっていく口付け。
安らぎは何処へやら、逸る鼓動だけが鳴り響く。
これでは呪の時と、さほど変わらないのではないだろうかと、そう思うほどだった。
静まらぬ鼓動を聞きながら、はまだ慣れぬ、悦楽の地へと埋没していった。
翌朝、やはり朝の鐘の前に起き出したは、こっそりと牀榻から抜け出た。
いつも動揺させられている王の寝顔は、意外にもあどけなく見えて可愛く、傍から離れるのは惜しい気がしたのだが、惹かれる思いを振り切ってその場を離れた。
地官府へ直接向かおうと、は道を歩いていた。
だが、気がついた時には、庭院に立っていた。
何度も呪の力で呼ばれたからだろうか、同じ庭院がを待ち受けていた。
以前と違うことは、音がないこと。
そして、震えるほどの冷気が立ち込めている事だった。
「もう、秋が終わったのかしら…」
長雨が終わると、一気に冬になる。
条風が吹き抜ける、寒い冬が待っている。
氾濫した川の恵みが、春に備えて新しい芽を蓄え、人々は春を夢見て、寒い冬を乗り切るのだった。
近頃のごたごたで、季節の感覚がずれている。
雲海の上では珍しい事ではないが、地官であるにとっては、なるべく把握しておきたい事であった。
雲海の下を覗くようにして、露台から身を乗り出したは、まだ下界では雨が降っている事を知った。
それならば、こんなに寒いのはおかしい、と思う。
首を傾げながら、はその場から離れ、地官府へと消えて行った。
調査に向かうと言ったを、大司徒は快く送り出した。
唐突に思いついた事だったので、あまり詳しく理由を言わなかったが、長い間空けていた事を考慮したのか、大司徒は二つ返事で了承していた。
もちろん王は付いて来ない。
そうしては、歩いて五門を通り、関弓へと降りて行ったのだった。
翌日。
朝堂で、大司徒は朱衡や帷湍らに歩み寄っていた。
「大宗伯、太宰。昨日のうちに、小司徒を見かけてはおりませんか?」
「ですか?昨日は見かけておりませんが…」
朱衡が訝しげに言って、帷湍に質問を振るべく視線を投げていた。
「朝は正寝にいたと聞いているが…ああ、昼にも誰か見かけたと言っていたかな」
帷湍は大司徒にそう言うと、何事かと問うた。
「昼過ぎから調査に行って、まだ戻っていないようなのです。関弓に降りたのだと思っていたので、すぐに戻るのだと…今日は地官で合議がございますから、もし見かけたら、夕刻からだとお伝え下さいますか。ずっと静養中で伝わっていなかったようなのです」
何か異変でもあったのだろうかと思っていた二人は、ほっとしたと同時に頷いてそれを引き受けた。
だが、の姿をその日の内に見た者はいなかった。
翌日になっても姿は見えず、さらにはその次の日にも、戻ってくる気配がない。
連絡もないところで騒ぎになりかけ、ついには王自ら探しに宮城を出て行った。
もちろん、それは誰も了承した事ではなかったのだが。
しかし、今回に限ってはそれが良い結果に結びついた。
王が動いたことによって、夏官が動いたのだ。
とは言え、一両が行方をくらました王の探索に出た、と言ったところだった。
だが実際には王ではなく、王の指示の下での捜索が行われていた。
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