ドリーム小説
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千草の糸 =19= 主が宮城に戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
迎えに出ていた朱衡は、主の背後に何者かの影を見つけ、訝しげな顔を向けていた。
「おかえりなさいませ」
それでも通常の声で主に向き直った朱衡に、尚隆は女を降ろすように言う。
女は不思議そうに朱衡を見ながら、その手をとって床に足をついた。
「しばらく預かっておれ。処遇はお前に一任する」
「この方は?」
「恐らく華瑟だと思うのだが…生憎と郷長の事も、妓楼の事も記憶しておらんようだな。しばらく様子を見てみない事にはなんとも。こういう事はお前が一番得意そうなのでな」
こういう事とは一体何だと思いながらも、朱衡は質問を重ねた。
「どうやって連れて来たのです?」
「こっそりたまを呼んで窓から抜け出してきた。天綱に人を売り買いしてはいけないとあるからな。俺が身請けする訳にもいかんだろう」
女の手を取ったまま、呆れた顔を主に向けた朱衡は、冷たく言い放った。
「それでは人攫いです」
女を買った事のある人間が今更何をと、深い溜息を漏らした朱衡に、尚隆は悪びれもせずに言う。
「そうか。それは気がつかなんだ」
「もう一度天の巻の写生が必要なようですね。まったく…馴染みの店ではなかったのですか?それではもう行けませんよ?」
「まあ、百年ほどは行けんだろうな。粒ぞろいだったのが勿体無いが…」
本当に残念そうに言う主に、朱衡はまだ言いたりないとばかりに、口を開きかけたが、ふと言う事を変更した。
「が待っておりますよ。今日は一日泣いておりました」
「そうか…。では、その女を頼んだぞ」
朱衡は無言で頭を下げて、主を見送った。
禁門から消えた姿を確認してから、まだ握られたままの手を見る。
女は何も言わず、ただにこにこと朱衡を見ていた。
軽く溜息めいたものを吐き出し、その手を引いて禁門の中に入って行った。
尚隆は宮道を急ぎ、冬官府へと向かった。
大司空に駮弾琴を手渡し、調査と処分を厳重に言い渡す。
畏まって受けた大司空を確認すると、颯爽と踵を返して正寝へと戻っていった。
自室へと向かって歩いていた尚隆は、流れるような旋律にその足を止めた。
音を手繰りながら歩いていると、庭院に辿り着く。
女官達に重々言い聞かせていたはずだが、そこにはの姿があった。
軽く露台に腰を降ろし、瞳を閉じて笛を奏でている。
周りに数名の女官が控え、心配そうに見守る者と、の奏でる笛の音に酔っている者とに別れているようだった。
煌々とした月明かりの中、瑠璃色の衣が静かに揺らぎ、庭院に降り注ぐ光の景色を彩る。
「月華の音に、しくものぞなき…。見事な演奏だ」
その声によって、笛の音が途切れ、驚愕したような女官達の顔が一斉に尚隆を見た。
だけは寂しげに微笑んで、顔を向けている。
「しゅ、主上!その…これは…」
慌てて駆け寄ってきた女官に、尚隆は手で動きを制し、一同を見渡して退がるように命じた。
粛々とその場を離れる女官達が消えると、尚隆はゆっくりとに近寄っていった。
「笛を吹くのを聞いたのは、初めてだったな」
「はい。滅多な事では吹きませぬ」
「もう一度、吹いてはくれぬか」
は頷くと笛を構えた。
蓬莱の音色に混じって流れ出す寂寥―――――いや、これはむしろ離愁。
華明が消えた事を、は知ったのだろう。
彼女に対する、別れの旋律。
そして彼女の辿った、叶わぬ恋への憂い。
尚隆と離れてしまう事を、憂う音色も混じっている。
それらが月と合い混じり、聡明な世界観を作り上げていた。
この音色より、勝るものはこの世にない。
目を閉じて聞いていた尚隆は、旋律の途中で途切れた音色に気がついた。
その瞳を開けてを見れば、音もなく涙を流している。
「彼女の心が弾ける瞬間…感情が流れ込んで参りました。殺したいほど愛していた、何を犠牲にしても欲していた。だけど私は受け入れられない。たった一人の海客のせいで…最初はそのような声が聞こえていたのです」
「…のせいではない。例えの存在がなくとも、結果が変わったとは思えぬ」
「私の…せいなのです。私の笛が、彼女を傷つけたようです。地官に席を頂いたばかりの海客が、ふらりと楽士に引かれてやってきた…それでも音を重ねた。二人で演奏し、大宗伯に褒めて頂いた。私にとってはただ嬉しい事でしたが、それが彼女の矜持を傷つけたのです。あの頃、感情が顔に表れていなかった私は、嬉しがらず、笑いもせず…それがいっそう彼女の心を逆撫でたのです…そして、私よりもずっと前から、彼女は恋をしておりました。顔も見ぬ王に憧れて、楽士になってここに来た。彼女はその立場ゆえ、王を間近に拝見し、恋をした…。誰の物にもならない王に、いつしか諦めようと心が動いていた、ただ傍で見つめる事ができたのならと…。そんな時だったのです。私が流れつきました。王の命で勉強をさせて頂き、こともあろうか官吏にまでなってしまった。それどころか…正寝への出入りまでもが許されてしまった…」
はらはらと落ちる涙をそのままに、は笛を握り締めていた。
月華を受けて金に染まった涙は眩耀(げんよう)の如く瞬き、絶え間なく涌き出ている。
尚隆はの手を握り、その存在を確かめるように引き寄せた。
「消えようと思うな。俺の前から姿を消すことは許さぬ」
「何故…」
の奏でたのは…別れの音だった。
別れを思うがゆえ、寂寥と離愁の音が現れた。
華明に別れを告げ、尚隆に別れを告げようと…。
もちろん離れたくはない、とは思っていた。
だが自分という存在が、これほどまでに疎ましく思う。
遠い記憶に残る楽士の華明。
聡明で美しい人だった。
「華明は己に負けた。道理を欠いてまで手に入れたものに、如何ほどの価値がある?」
は零れる涙をそのままに、尚隆を見上げていた。
「尚隆さま…」
「自らは動くことなく、人の体を奪って欲すると言う行動に、同情するのは間違ってはないか。奪われた者の人格はどうなる。の意思は?の望むものは?それらの利害がすべて、華明と一致するはずなかろう。個別の人間である以上、それは不可能ではないか?そして己の足を踏み出してこそ、ようやく進めるのではないか」
「仰りたいことは分かります…彼女が欲するからといって、すべてを捧げる事はできません…仮に体を明け渡したとして、同じような事があれば、もう明け渡す体がございませぬ…ですが、この手に触れてしまった感情の分だけ、何か出来ればと思ったのです。音を重ねた、その僅かな時間。私達は確かに存在し、同じ時を生きた。周防も雁も関係なく、魂が触れる瞬間であったのだと思います」
幾筋もの水滴が瞳から流れ、落ちていった。
「憎い、悔しい、この手に欲しい。あの女が奪って行ったその心が、堪らなく欲しいと、華明の心は叫んでいました…なのに…それなのに…」
は息を呑み込み、尚隆に目を向けた。
「何故、彼女が名を伏せたのか、知っておられますか?」
「いや…」
「彼女は…華明は私に対する憎しみの中に、愛情を抱いていたのです。似た感情を胸中にもつ、私という人間に。だから、名を言いたくはなかったのでしょう。楽士として玄英宮にいた、あの頃の自分と同じだとは、悟られたくなかったのだと思います」
「似た感情だと…?」
は目を伏せがちに頷いた。
「私の心にも、恐ろしい鬼が住んでいたのです。尚隆さまを思い、いつその心を闇に差し出すのか分からないのです。こんな見下げ果てた者が、お傍にいて良いはずはございません…」
離愁の音を出していた笛は、小刻みに震えていた。
それを必死で押さえようと、力が篭もっているのが見て取れる。
「国が滅んでも、俺が欲しいか。均した土地は荒れ、築いた建造物は崩れ去る。民は飢え、草木さえも飢える。妖魔も生きていけないほどの荒廃を、自らの手で招きたいと、そう言うことか?」
「…それでも、欲しいと思う気持ちが、ないとは言い切れませぬ。ですが、国を滅ぼすと王は死にます。私の感情で言うのならば、民のためになりません。ですが…本当の私の思いは、もっと他の場所にあるのやもしれません。…死に行く者の腕に抱かれても辛いばかりですから、私はそれを望みまないと言った考えも浮かんでくるのですから、これが本音なのかもしれないのです。でも…それこそが、偽善の心なのかもしれない。本当の奥底にある感情では…私はそう思っていないのかもしれぬと、華明の声が教えて行きました。心の中に深い闇があった事を、今まで気がつかずにいたのです」
ふっと笑ったような音が聞こえたが、には顔を上げる勇気がなかった。
それどころかますます身を縮めようと、肩を竦めていった。
「醜い心と思われた事でしょう…そ―――」
の声を遮ったのは、尚隆の手の動きだった。
震える笛を握った手の上に、そっと置かれた尚隆の手。
包むような温かい手の温もり。
それでも顔を見ることは出来ない。
いつも何気なく行(おこな)っている動作のはずだが、恐ろしくて動かせない。
「心に闇があるのが、人ではないのか?偽善の何が悪い。誰しも闇を抱えておるだろう。だが、それに抗いながら生きる。それが人ではないのか?」
「ですが…私は…」
「闇なら…俺にもある。ただひたすらそこを眺めていた時もある。光がさすまでは、そのことにすら気がつかないものだ。だが、一条の光が闇の中から救ってくれる」
「光?一条の…」
「そうだ。光が射すことによって、闇の存在を知る。だが、その光のおかげで怯える事はなくなった。自分の一部として、受け入れてやればいい」
は俯いたままだったが、悲しくうな垂れているように見えた。
「闇のない人間などいない。だからこそ、その闇に呑まれて国が沈む。この百年でも、すでに幾つかの国が沈んでおるだろう。俺が闇に呑まれれば、雁とて例外ではない。言っておくが、俺はが消えれば、簡単に闇に落ちるぞ。そうすれば、調査に行った川、里、林。それらすべてが消えうせるだろう」
はっとの顔が上がる。
「いけません。それは…いけません。そんなことになれば台輔を始め、皆様が悲しまれます。何よりも民が辛い思いをします!」
慌てて言ったの顔を、微笑が見つめ返していた。
「そう思うのなら、大丈夫だ。闇がある事を自覚しているのならば、後は光を探せば良いだけだからな。真の闇に降り立ってしまえば、そのような事は考えられまい。回りなど見えぬものだ」
華明のように、と言いかけた声は飲み込んで、尚隆の瞳はを捕らえている。
再び伏せようとしているの顔を、尚隆は持ち上げて言う。
「まあ、どうせ落ちるときには落ちる。それまでせいぜい楽しむのも手だがな」
「落ちないで下さいまし…闇に呑まれるところなど、見たくはありませぬ」
「がともに歩くと言うのなら、なんとか踏みとどまって見せよう」
「私が?」
「一条の光を射したのだから、踏み留まらせる事はそう難しくあるまい」
「光を射したのは…私?」
「そうだ。だが闇は変化する。終わらぬ生が闇を招くこともあるだろう。蓬莱から持ち込んだ闇は、がいれば回避できよう。の持ち込んだ闇も、俺で回避できればいいのだがな」
尚隆に向けられていた瞳が、静かに閉じられ、白露が零れ落ちる。
「探しましょう…光を。たくさんの光を見つけていけば、いつでも抜け出すことが出来ましょう?それを助けることが出来るのなら、私はいつまでもお傍におります」
瞳を閉じたまま言ったの、震える瞳の上に口付けを落とした尚隆は、しっかりとその体を抱いて言う。
「言っておくが、俺の闇は深いぞ」
「覚悟致します。どんな闇でも…尚隆さまの一部であるなら、受け入れましょう」
なら、そう言う事は明白であっただろう、と呟いたのは心の独白であった。
傍にいると言ったのだから、もう離愁の念は消えただろうか。
「、もう一度…」
切れた言の先を探そうと、は瞳を開けて尚隆を見る。
その視線とはかち合わず、辿って行くと手に握られた笛だった。
「僭越ながら…」
意を得たは、笛を右に構えて口を当てる。
下方に空気を小さく当ててやると、抜けるような音色が醸し出される。
先ほどと同じ旋律の中に、光明の差し込んだ音色が庭院に響いていた。
月の光に解けそうな音色。
月の洗うその中で、ただ静かに響く音色。
寂寥はそのままに、慕情の念が加えられる。
それはいとも簡単に尚隆の中に流れ込み、手を押さえるのにしばし葛藤せねばならないほどだった。
やがて静かに終わりを告げた笛は、もう震えてはいない。
降ろされた笛を尚隆は目で追い、静かに押さえていたものを解放させた。
腕を回してを引き寄せる。
尚隆の中で納まったその体は、本当に自分の一部なのだと思わせる。
無言のままに顔を引き上げ、あつい口付けを落とした。
心のすべてを注ぎ込むような、そんな口付けだった。
自然、腕に力は入っていき、口付けは深くなる。
そうしていっても、の体は逃げもせず、震えもしない。
もう、呪力は働いていないと、はっきりと教えているように、ただ静かに瞳を閉じている。
再度口付けを落とした尚隆は、ようやく腕の力を緩めることに成功した。
「これでようやく、地官府に戻せるな。そろそろなんとかしないと、締め上げられそうだったからな」
ふと顔を上げていった尚隆に、はくすりと笑いながら返す。
「大司徒は主上を締め上げたりしませんわ。現在の大司徒は、ですが」
「以前の大司徒は?」
笑いをさらに濃くしたは、尚隆の腕の中から顔を覗かせている。
「本当のところは、存じ上げませぬ。何度ほど締め上げられました?」
「覚えておらん。数えきれぬほどだろうな」
「まあ。では、太宰になられてからと、どちらが多いのでしょう?」
「聞くまでもないだろう…」
顔をしかめて言う尚隆に、は耐え切れなくなったのか、胸元に顔を預けながら笑っている。
何もかもが、終わったのだと安堵感を感じさせる、そんな一場だった。
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