宮城に戻ってきた王が、宰輔の許を訪ねて来たのはその日の夜だった。まだあまり動くことが出来ないでいたは、宰輔の自室に留まっていた。「しゅ、主上…」慌てて起き上がるを制して、景王陽子は笑う。「そのままでいい。体に障るだろうから」陽子はそう言ったが、はそれでも起き上がろうとする。「い、いえ…ここにおりますのは…台輔は知らぬ事で…あの…」「?景麒にここにいると聞いて来たのだが」「あ…」今、予王の残像が過ぎったのだ。違うと分かっているのに、景麒の側にいることを咎められるのだと瞬時に思った。ようやく、起き上がろうとするの動きが止まった。「ああ、そうか。うん、大丈夫だ」すべてを理解したのか、景王陽子はそう言って笑った。「色々と大変だったと聞いたが、体調の方は?」「はい、なんとか。しかし私はもっと早く台輔にお知らせするべきでした…」「こうして無事戻って来ることが出来たのだから、気にしなくてもいい。で、少し話をさせてもらいたんだが、大丈夫だろうか。もちろん、このままでもいい」「はい」王、直々に話があるのだと言う。どのような内容だろうか。牀(しんだい)の側にある椅子に座り静かに言う陽子。「実は官吏の移動についてなんだが…」王は麦州侯を冢宰に据えると言い、幾人か決まっている者の役職を言う。「麦州の方ばかりですが、乱に何か関係がございましたか」「やはりそう思うか。まあ、なくもないが…そうだな、偏っているように見られる可能性も大きいな」「主上が信用できる方々なのでしたら、他の者の意見は聞かずとも良いかと」「うん。だけど、誤解させたくはない。予王の任じた官吏だからと言って、小さくなられても困るから。そこで大宗伯。一時的になどではなく、このままその位置に留まってくれないかな」軽く目を見開いたは、すぐに目を伏せ、首を横に振った。「主上、私に大宗伯の器はございません。どうか、大卜にお戻し願えませんか」「大卜に?大宗伯は辛い?あ、今回の事が尾を引いているのか」「いいえ。大卜としての債務に誇りを持っているのです。それに私は梧桐宮が好きなのです」「そうか、ではどちらかというと、早く大宗伯を返上したい?」「大変失礼な事ではありますが、その通りでございます。私には荷が重すぎました。静かな梧桐宮に戻りたいと、毎日思っておりましたので」「そうか、それでは仕方がないな。まあ、内宮も整理をするつもりだから、大卜の選出が省けただけでも良いか」ふっと軽い溜息を吐いた陽子は、にこりと笑ってを見た。「あの、主上。差し出がましいことではありますが…」「なんだ?」「元大宗伯ではいけませんでしょうか?あの方は、信じるに値する方だと思います。前王の時代より大宗伯として任についておられますし」「そうか…なるほど。元大宗伯とも、ちゃんと向き合って話をするべきだったな」「それは、何事においても必要な事ではありますが…時にとても難しい事でもあります。ですが今の主上のように、向き合う意思さえあれば、良い形が生まれるものだと信じております」「うん。そうかもしれない」そう言うと、王は立ち上がってに言った。「では春官の一部は元に戻るようにしよう。大宗伯と大卜は数ヶ月前と代わらぬ方向で進める」「ありがとうございます」 寝ころんだまま、まだ痺れの残る手先を見つめながら、はこの数年を思い起こしていた。初めて金波宮に来てから、予王が登極するまでの歳月よりも、予王が登極してから、今日までの歳月を。まさに様々な事があった。考えてみると、生きているのが不思議に思える。一度は死にかけている。奇蹟の出会いによって、その命は救われたのだが…。「」ふと顔を横向けると、景麒の姿があった。何時の間に入ってきたのか、まったく気配に気付かなかったは、少し目を開いて驚いた。「手がまだ?」「あ…いいえ。もう、大丈夫です」はそう言うと起きあがり言った。「早く治さねばなりませんね。いつまでもここにいては、台輔に迷惑がかかってしまいます」「…。何故そのような事を申されるのか」見上げた景麒の瞳の中。そこに現れたものによって、は軽く頬を染めた。「台輔…」伸ばしたの手を、景麒がそっと包んだ。包まれたままの手を引き寄せ、頬に当てると安らかな感情が訪れる。「台輔…」再び口をついて出た声。その直後、柔らかい感触が唇に触れた。 「大卜!よくご無事で」梧桐宮に戻ってきたを迎えたのは、馴染みの顔であった。元大卜であった鶏人も、今回の移動では梧桐宮に留まったようだ。「梧桐宮から出されてしまってはどうしようかと、とても心配しておりました」情けなさそうに笑った鶏人の顔が、妙に懐かしく感じた。「大卜も大宗伯を断ったと聞いたのですが、それは本当ですか?」「ええ。私に大宗伯などの、重い任は無理でした」「そんな。大卜なら大丈夫でしょうに」「いいえ、自分の事はよく分かっているつもりです。それに、私はこの麹塵の袍が気に入っておりますから」「まあ、それは確かに認めますが。わたしもやはり同じように思っておりますから」誇らしげな顔で言う鶏人を、は微笑んで見た。 官吏の移動が一通り終わって、新しい王朝が進み出したある日。今日も静かに梧桐宮の時は流れていた。ひっそりとして、まるで存在しなかのようにも見える。そこへ慌ただしい足音が侵入してきた。赤い髪がの目前を通り過ぎていく。「主上?」「あ、大卜。ちょっと匿ってくれ」「かくま…」何も問い返せないまま、王の姿は宮の一郭に消えた。「どうかされたのかしら?」一人首を傾げる大卜の許へ、新たに訪ねて来る者があった。「主上はどちらに行かれた」「台輔…」を通り越して、陽子の消えた方向を見て言う景麒。「匿ってほしいと申されておりましたが…どうかなさいましたか?」「…」「まあ、喧嘩なさったのですか?」がそう言うと、景麒は横を向いて瞳を逸らせる。「こんな時、大卜に読まれるのはあまり嬉しくない。喧嘩など大層なものではなく、ただ意見がぶつかっただけで…」憮然とした表情で言う景麒に、は軽く笑って言った。「では、後で戻るよう伝言致しますので、台輔は内殿にてお待ち下さいませ」「…」しばらく沈黙を守った景麒は、諦めたように踵を返した。景麒が消えてしばらく、陽子が物陰から顔を出して言う。「ありがとう。助かった」「いいえ。でも主上、なるべくお早めにお戻り下さいませ。台輔が言い過ぎた…いえ、言い足りなかった事を気にしておられます」「そうか、うん。落ち着いたらすぐに戻る」「では、気が落ち着くまで霊鳥をご覧になりますか?生き物は気を落ち着かせてくれますから」「そうだな…。いや、いい。随分いい気分転換になったから、すぐに戻ろう」「さようでございますか」にこりと微笑むと、頷きが返ってきた。そのまま王は梧桐宮を後にし、は宮の入り口まで送って戻る。一人戻ってくると、ふと過去の事を思い出した。予王もこうやってよく逃げてきた。匿ってくれと言った事も一度ではない。その度に王を庇って、台輔の前に立ちはだかる勇気は相当なものだったのだ。しかし、予王の時とは明らかに違う。現在の王には悲壮感がない。子童の癇癪よりもかわいいものだ。心配する必要もなかろう。 その日の夕刻、景麒が梧桐宮を訪ねてきた。「台輔。どうかされましたか」「少し時間が空いたので。今は忙しい時間でしょうか」「いいえ。夕陽でも見に出ましょうか」「そうですね」雲海の西に消えゆく夕陽を見ながら、露台に立った二人。静かな波音が、耳に心地よかった。弧を描いた岸壁に、白い波が踊っている。「王と麒麟は契約致します」景色にとけ込みそうだったの耳に、景麒の静かな声が響いた。何を言い出すのだろうかと、顔を景麒に向けて続きを聞く。「側を離れないと誓約するのです。王が天命を失えば病にかかります。そんな条理の許に生きているのです」「はい…」景麒はに顔を向けて続きを言った。「それでも、大卜は側に居てくれますか」「え…?」「国のために生まれ、王のために死ぬ運命の者が言うことではありませんが」まっすぐ見つめてくる景麒の瞳の中には、を真に思う気持ちが表れている。「台輔…」そう呟いた後の言葉が出てこない。しばらく沈黙が続く。は顔を逸らして雲海に目を向けた。陽はすでに僅かな光を残すだけである。「私は金波宮に来てすぐに、白雉の末声を聞きました。次に、長い年月を待って一声を聞いたのです」消えゆく太陽に向かってそう言った。言い終わった時、陽は線に代わっていた。登用されたその年、前々王の崩御があった。どれほど一声を望んだ事か。まだ赤みの残る空を見ながら、は続ける。「次に私が末声を聞く事はないでしょう。何故なら、その時私はすでにこの世にいないからです」「…?」青い闇が世界を覆い始めた。景麒はの横顔を食い入るように見つめている。答えるように振り向いたは、景麒の瞳に向かって言った。「台輔と命運を供にいたします。いかな事があろうとも、お側を離れませぬ」「」青い闇は紺に変わり、漆黒へと姿を変えてゆく。しかしすぐに、無数の煌めきが現れるはずだ。景麒がに歩み寄る。もまた、景麒に歩み寄る。まだ青い世界の中で抱き合う二人に、最初に現れた星が瞬きを見せた。
完
ここまでのご拝読、ありがとうございました。
麒麟がお相手だと言うことで、最初は躊躇しておりましたが…
人間って麻痺する生き物ですね。。。
途中から「まあ、いいかあ♪」なんて思いながら書いてしまいました。
これで皆様の中のイメージが壊れていなければいいのですが…☆
美耶子