「まさか…」が息を呑んで立ち竦んでいると、入口のほうから声をかけられる。「何か用かい?」中年の男が立っており、中に入り込んだ二人を見ていた。「ここにいたおじいさんは、何処にいかれたのですか?」恐々聞くに男は、ああ、と言って答えた。「あんた達、じいさんの知り合いか?じいさんなら死んだよ。二ヶ月ほど前だ。身寄りがないんで、墓地に埋まってるよ」「死んだ?どうして…?」「どうしてって…病気だったのさ。まあ天命がつきたんだね。わりと年だったし。まあ、帰るときには扉を閉めていっておくれよ」男はそう言うと、その場から離れてしまった。は一段高くなった、房室らしき場所に上がり、衾褥の傍に寄っていた。利達もの傍に寄り、そっと肩に手を置く。「もっと早く来ていれば…」後悔の中に入り込もうとしているに、利達は言うべき事を見つけられなかった。ふと顔を上げると、小さく低い卓子が置かれ、そこに白い物を見つけた。立ち上がって卓子に向うと、薄い綴りだと知れる。ぱらぱらと捲って読んでいると、それは老人の日記のようだった。とは言え、日付も何もない。様々な事を書き付けてあり、備忘録のようでもあった。「…」自失したように、ただ衾褥を見つめていたは、呼ばれて利達の方を向いた。「ここに住んでいた御仁にとっては、が太陽だったようだ」「どうゆう事…?」「ここに書いてある」利達はそう言うと、老人の書いたであろう言葉を読み上げる。 『この子は小さい頃病気にかかって、口を利くことが出来ません。教育も受けておりませんので、文字を読む事が出来ません。哀れと思し召しならどうぞ一晩、家の片隅に置いてください』そう書いて渡したあの子は、今頃元気にやっているだろうか。無事、奏国に辿り着く事が出来ただろうか。わたしは決して、人に褒められるような生き方をして来なかった。せっかく天から授かった子童も、貧しさの中で失ってしまった。あの海客が、死んでしまった娘の変わりに、幸せになってくれたらと、切に願うのはわたしの我侭だろうか。慶から巧へと渡り、苦労しただろうに太陽のような笑顔だった。太陽のような笑顔は、太陽のように毅然と輝く、かの大国に行くべきだと思ったのだ。南の大国、奏南国。海客への待遇も良いと聞くかの国に渡れば、あの子も幸せになれるだろう。わたしはその事を考えるだけで、嬉しくて、楽しくてならない。勝手に想像を膨らますと本当に楽しいのだ。彼女はきっと勉学に励んでいるに違いない、海客の知恵で何か特別な事に取り立てられているかもしれない。話が出来るようになった頃、もう一度訪ねて来てくれるだろうか…。変わらぬ太陽の微笑みで、幸せだと言ってくれるだろうか…。 利達は静かに綴りを閉じ、それを卓子に戻した。の傍まで戻ると、肩をそっと引寄せる。「泣いても…いい…?」は四年前に泣いてから、まだ一度も涙を流した事はなかった。泣かない方法を知ったし、自分の事で泣いてしまうのは、負けたようで悔しかったからだ。しかし、この時ばかりは、どうやっても堪える事が出来ないようだった。「わたしの胸元はずっとを待っている。それにこんな時、泣くなとはとても言えない」「利…達」胸元にもたれかかったは、自分でも驚くぐらい涙を流した。老人と過ごすしたのは、ほんの僅かな間だった。それなのに、こんなにも悲しい。きっと、間に合わなかった悔しさも、相乗して涙を誘発していたのだろう。泣いても泣いても溢れ出す涙を、止めようともせずにただ泣き続けた。じっと胸を貸す利達は、そっとの背を撫でていた。 「ありがとう…」 ぐすっと音がして、腫れた目を見せた。どれほど泣いたか分からなくなるほど、長い間泣いていた。いつの間にか陽は傾き始め、漏れ入る光は、金の色を濃くしていた。二人は立ち上がり、その民居を後にした。外は金の世界が広がっている。「あ…この景色…。この、時間…」背後にある、この民居にいた頃にも、同じような景色を見たと思い出す。まだ言葉は分からなかった。差し込む光に誘われて、扉を開けたことがある。慌てた老人に引かれ、中に戻った事があった。その行動によって、いけない事をしたと分かったが、老人はを咎めずに、身振りや手振りで説明してくれた。その時はさっぱり分からなかったのだが。勉強はした。利達と思いも通じた。それを報告する事は、もはや叶わないだ。だがは瞑目し、心の中で報告をした。自分が幸せであると言う事を、何度も繰り返し描いて報告する。「利達…連れて来てくれてありがとう」は薄く微笑むと、金の世界に足を踏み出した。「閉門が近いが…墓地に行ってみるか?」は足を止め、前方を見据えたまま頷いた。二人は街の北を目指す。やがて開けた閑地に足を踏み入れる。どれが老人の墓か、分かるはずもなかったが、は再び瞑目した。閉門を知らせる鐘が鳴り響くまで、二人はずっとその場にいた。 翌日、二人は奏への帰途についた。またしても一日をかけて戻ってくる。宮城に戻ったは、雲海の見える場所に移動し、その景観を眺めていた。清漢宮は水上に映え、清廉なる水の流れが美しく瞳に踊る。 「隆洽はとても美しい街だったのね。ここから下っていくとね、ごちゃごちゃしていて、民が生活する場所って印象が強いんだけど…巧国に比べれば、とても豊かで美しい国だわ。これが、六百年と四十年の差なのね」それを支え続けるのは、並大抵のことではないのだろうと思う。「そうだな。王が長く生きるだけで、随分と違いが出るものだからな」 「支えていくのは大変そうね」「これからその一員になってもらおうというのに、不安な事を言う」「あら、私が支えるのは、王ではないのよ?利達を支えていくんだから。やっと恩返しが出来るのね」「…では慣れるまで、そう言うことにしておこうか」「?」夕餉の時間に政務の話が出る事は、そう珍しい事ではない。母が嬉しそうに椅子を用意していたのは、もう二年も前。典章殿に移動してくる事を知っている者は少ないが、家族は全員知っている。椅子は二年間使われないまま、端のほうに置かれていた。昨日見ると、椅子は綺麗に拭いてあった。母か文姫か、どちらが拭いたのかは知らないが、今頃は間違いなく卓子の前に置かれている事だろう。「みんな…」ふいにが口を開き、利達は思考を止める。「みんな…誰かの太陽になれるのね。私の太陽は利達よ。いつまでも沈まぬ太陽。永遠に輝き続けて私を照らす」「ではわたしの太陽もだな。奏に翳りが来ぬように、照らし続けてほしい」「利達がずっと私を好きでいてくれるなら、熱い日差しを送り続けるわよ?」見上げて言うに、利達は僅かに苦笑する。しかしその腕を掴んで引寄せた。驚いて固まっているを無視して、口付けを落とした利達は笑って言う。「ずっとを愛しているから、熱い日差しを頼む」からかってやろうと言ったは、逆にからかわれたような気分になっていた。だが口付けられた事によって、反論できずに俯く。利達はそんなの手を取り、引きながら歩き出す。恥ずかしそうにしながらも、微笑むを横目で見ながら、利達は宮城の奥へと進んでいく。長旅で疲れた二人を、温かい食事が待っていた。
完
ここまで読んで頂いたみなさま、お疲れさまです。そして、ありがとうございます。
今までにない、ほのぼの長編を目指してここまで参りましたが…
やさしく軽い読み物になっていればと思います。
そして『金の太陽 銀の月 〜銀月編〜』に続きます。
ここから数年後のお話です。こちらもよければお付き合い下さいませ。
美耶子