ドリーム小説
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昊天夢街道 番外編 =前編= ことり、と卓子に置かれた瓶を、女は不思議そうに眺めていた。
差し出した男は手に取るように言い、女は言われるまま瓶を持つ。
「この中に入っている液体は何でしょうか?」
「の香りだよ」
「私…………の?」
瓶の蓋を開けると、深く洗練された上品な香りが広がる。
「白檀香だよ」
「白檀…………これが?初めての香りだわ…………とてもいい匂い。でも、これがどうして私の香りなのですか?」
「わたしが抱(いだ)いた勝手な印象だけどね。この香りの如き人だよ、は」
「利広…………。叡聞君と呼ばれるようになって、随分たちましたが…………これほど嬉しい事を言われたのは初めてですわ」
「これを持ってきた甲斐があったようだね。贈り物など、見慣れてしまって笑われるのではないかと思った」
「まさか、笑ったりなど…………あなたから贈られる物で、私が軽視する物など何一つとしてございませんわ。例えそれが塵や芥であろうとも」
静かに、しかし力強く言ったに、利広は微笑んで答えた。
「よかった。これでわたしも心おきなく旅立てる」
「旅に出るのですか?…………長く?」
「そうだね…………。二ヶ月ほど、かな」
「そんなに…………どちらまで行かれるのですか?」
「舜へ行ってみようかと思ってね」
「舜…………へ?何をしに行かれるのですか?」
「ん…………まあ、見学、かな」
では、道楽で行くのだろうか。
よほど豊かな家に生まれたのだろうかと考える。
以前、が利広に何をしているのか問うた時には、舎館の息子だと帰ってきた。
兄がいるので、家の事は任せきりで遊び惚けている、だらしのない男だと揶揄していたが、実際はどうなのだろうか。
初めて出会った時には、港町の様子を見ているのだと言っていた。
その言から官吏なのだと思ったのだが…………。
話をしている感じでは、ただのだらしない男とはとても思えない。
が利広に好意を持っているという事から、正確な人物像が見えていないのかもしれないが、冷静に考えてみても大きな差違はない。
博識で思慮深い人物だと思う。
舜に行くのも、家の仕事だろうか。
「いずれにしろ…………」
思考の残響はそのまま口から出たが、気が付かぬのか、はそのまま次の言に進む。
「確実に二ヶ月は会えないのですね。分かっていると、寂しいものです…………」
叡聞君の姿をしている時、つまりは花娘の正装でいる時のは、このような言葉使いが自然と出るようになっていた。
少々他人行儀ではあるが、利広はそれを消し去ってしまう術を持っている。
静かに立ち上がるとの背後に移動する。
そのまま前に腕を伸ばし、を自らの中に閉じこめた。
「では、この香りをわたしだと思えばいい。これが香っている間は、わたしがを包み込んでいる。わたしも同じ香りを持ち歩こう。の香りを…………」
言いながら、利広の手はの簪を抜き始めていた。
簪がするりと抜ける度に、の髪はほどけていく。
そして、うなじに落とされる口付け…………
「ん…………り、利広…………」
肩をすくめて抗ってみるが、片腕でもしっかりと包まれた体は、思っている以上に動くことが出来ない。
とは言え、力の限り抗おう等とは毛頭思っていない。
拒絶の態度を示す事になるからだ。
形ばかりの抵抗ではあるが、それが利広にとってはかわいく思える。
悪戯心に火がつき、耳の下を甘く噛む。
「駄目よ利広…………。まだ、話しの途中じゃない…………」
「何の話しだったかな?」
「舜へ行くと…………っん!利広…………!」
いつの間にか横に移動している体に、は赤い顔を逸らすべく力を入れる。
だが、先にそれを察知した手によって、利広の方へと導かれた。
重なる唇。
そうなると、もう抵抗する事が出来ない。
脱力してしまいそうな口付けに、瞳を閉じて身をゆだねてしまった。
白檀に包まれたまま、二人は会話をうち切る。
ただよう香りだけがそこにあった。
翌日、利広を見送ったは寂しく房室へと戻った。
自らの夢の実現の為に、利広について行くことが出来ない。
寂しいと思っても仕方がないと言い聞かせているのに、やはり利広の発つ朝は辛いものだった。
ふと、白檀の瓶が目に止まる。
そっと蓋を開けると、房室の中に白檀の芳香が広がった。
すると脳裏に昨日の出来事が蘇る。
「利広の香りだわ…………」
すっと瞳を閉じると、より鮮明に思い出された。
しかし、あまりにも深く思い出してしまったため、赤くなるはめに陥った。
慌てて蓋を閉め、頭を振って妄想のような残像を振り払う。
「これは…………ひょっとしてこの蓋を開ける度に思い出すのでは…………」
またしても赤くなったは、しばらく香りを控えようと瓶を置き、小箱にしまい込んで本日の支度にかかった。
それから二ヶ月経過したある晩。
「叡聞君、お時間よろしいですか?」
希覯(きぼう)の帛縷(はくる)がの房室に訪れる。
「帛縷、どうしたのです?」
帛縷の事を姉さんと呼んでいたのは、もう随分と前になる。
叡聞君(えいぶんくん)となってから、女将を除くすべてがには丁寧に接する。
しかし決められたからと言うだけではなかった。
がやらんとしている事を、みんなが理解し、賛同しているからである。
もちろん尊敬の意味合いも深い。
「国府のほうから、昊天楼の噂を聞きつけて偉い方がお見えになっているようなのです…………その、みんな動揺してしまって…………叡聞君をご指名なのですが、失礼のないように断るにはどのようにすれば良いのかと…………」
「国官であれ、商人であれ、お客さまには違いないのです。どのお客さまにも失礼のないように振る舞わなければなりません。しかしながら、礼儀をわきまえない者ならば話しは別です」
帛縷(はくる)の言い方では判断が難しかったのだが、もし権利を振りかざしているのなら、断固とした態度で望まなければならない。
叡聞君がそのように振る舞わなければ、下に続く者が判断に困ってしまうのだ。
「あ…………どうして分かったのですか?」
「分かった?と言うことは…………」
「はい…………その、なんと言いましょうか…………。国官であることでわたしも少し萎縮してしまっていると言うことも、否定出来ないのですけど…………」
「脅されたのですね」
「…………」
「分かりました。参りましょう」
帛縷(はくる)についてくるように言うと、しゅっとした衣擦れの音と供に立ち上がった。
扇を手に持ち、先だって歩き出すに、帛縷(はくる)は見とれていた自分を省み、慌ててついていった。
「叡聞君はまだなのか?」
房室の中から響いている声に、眉をひそめた。
しかし扉の前に立って、扇をするりと開く。
帛縷(はくる)が扉に手をかけ、静かに開けていった。
「まあ、これはどういった趣向ですか?」
中に入りながら、顔の半分を扇で隠したは言った。
訝しげな顔がそれを迎える。
中年層の典型的とも言える客だった。
その風貌から叡聞君であることを理解したのか、花娘達から見ても嫌な笑みを浮かべている。
しかしは気にしているような様子も見せず、にこりと微笑みを向ける。
その一瞬で、魅了してしまった。
男の口は何か言いかけたまま、半開きで止まっている。
は客に向き直ると、扇を少し動かして顔を見せる。
「お客さま、名は何と申されますか?」
「名だと?字は嗽咳と申す」
「嗽咳さまですか…………」
下に向かう手の動きを、嗽咳(そうがい)の目が追う。
するすると閉じ始めた扇は、最後にぱちん、と大きな音を立てて止まった。
「嗽咳さまは本日、昊天楼の大門を潜られました。昊天楼は確かに、奏南国にございますが、ここにはここの守られるべき規律があります。それをご理解頂いた方のみ、お客さまだと認めております」
にこやかに微笑んだ表情ではあったが、その口調には少し強さがあった。
呆気にとられた様子の男はしばし沈黙を守ったが、ややして汗を拭くような動作と供に言った。
「わたしは、国官だぞ」
「それが何か?」
「何かって…………」
「昊天楼には昊天楼の規律がございます。それが国で決められた事に反するとは思えませんが?」
そう言い残して、叡聞君は房室を後にする。
叡聞君のとった態度によって、勇気づけられた面々により、男は叩き出されるようにして帰ったと言う。
「国府には少々問題があるようですわね」
が利広にそう言ったのは、それから三日後の事だった。
二ヶ月ぶりにあったのだから、積もる話もあったのだろうが、何故か先日来た男を思い出していた。
くつろいでいた利広はその言によって起きあがり、訝しげな視線をに向ける。
「先日…………」
は三日前に訪れた国官の事を説明し、どのようにして追い返したのかを聞かせる。
「毅然とした態度で望まなければならないのです。昊天楼の叡聞君が国官の脅しに屈したとなれば、妓楼は官に弱いのだと思われてしまう。悪いことをしている訳でもなし、脅しに屈するわけにはいかなかったのです。ですが…………皆は不安がっておりますね。仕返しに来るのではないか、難癖をつけて営業停止に追い込まれるのではないかと」
「…………。その男は偉いのかな?地位の高い人?」
「さあ、そこまでは…………」
「そう、では、どのような特徴かな?」
「特徴ですか?中年層の方で、少し重そうな体躯の方でしたわ。字を嗽咳と」
「嗽咳?ふうん…………」
「ご存知なのですか?」
「いいや。まだまだこの国は復興の最中と言ったところか…………国官も少し整理が必要なのだろうね」
利広は厳しい表情で言う。
はそれを黙って見ていたが、何か心にひっかかりを覚える。
何だろうかと考えるが、すぐに違う話題をふられるとそちらに気を取られ、その場で考えることはなかった。
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