その日は何故か浅眠で、起き上がって牀榻から抜け出した。「麦侯」房室から出ると、女官から声がかかる。「少し出る。朝の鐘の頃には戻ろう」「供の者は」「大丈夫だ。騎獣に乗っていくから心配ない」「ですが……」「まだ朝も早い」浩瀚はすぐに戻ると再度言って、州城をあとにした。 雲の上から下山し、まだ幽光の残る地へと駆馳する。州城からほど近い平地まで行くと、乗っていた騎獣の手綱を引いて降り立った。外は蒼く、霞(かすみ)が辺りを覆っていた。陽が登れば、消えてしまう霞の中で深呼吸を一つし、朝の空気を吸い込んだ。吐き出した息によって道が生じ、浩瀚はそれを見やって大きく息を吸い込んだ。その時、聳(そび)く霞を象徴するかのような音が耳を掠(かす)めた。神聖な生き物の咆吼(ほうこう)のようにも聞こえる。「このような明け方に……?」王が即位したばかりのこの国では、妖魔が霞に隠れている可能性も否定出来ない。騎獣の側によって手綱を引き寄せた浩瀚。しかし、騎獣の様子に、再度その手を離した。騎獣が何も反応しなかったからだ。むしろ、急に手綱を握られた行為に驚いた様子を見せる。微かに聞こえる、繊細な音。笛の音にも聞こえる。まだ続くその音に、聞き違えた訳ではない事を知り、耳を頼りに歩き出す。霞の中に黒い影が現れたのは、浩瀚が歩みを進めてすぐのことだった。初めはやはり、獣の類のように見えた。しかし動かぬその影は、次第に岩へと姿を変える。岩には人影……。音はそこから。これだけ近寄ってもなお、その音色は繊細さを損なわぬ。だが、その繊細な中のどこかに鋭さがある。それが獣の咆吼を思わせたのだろうか。旋律(せんりつ)は聴いたことのないものだったが、浩瀚は立ち止まったまま聞き惚れていた。その、寂寥(せきりょう)の音に。瞳を閉じると霞がうねるような錯覚がする。天と地を行き交う、蒼い、蒼い……「龍……?」知らず口をついて出た声が、その音を止めた。はたと瞳を開けた浩瀚の、目前にあった霞が晴れる。黒い瞳がこちらを見つめていた。だが、何も言わない。肩にかかる髪も黒く、小柄な……「少年?」「蘭陵王……?まさか」蘭陵王(らんりょうおう)と呟かれた声は高い。しかし誰かと間違えているようだと思い、浩瀚は否定を表すために首を横に振る。「蘭陵王とは?わたしは王ではないのだが……誰かと間違えてはいまいか?」「あんた……誰?なん、で……言葉が分かる……?」「言葉が?海客か?」「……」辺りを覆っていた白い世界が晴れようとしていた。夜明けである。 さっと視界が開けてくる。夜は霞だけを連れ去って消えた。清廉な朝日が緑野を照らし、白露に煌めきを与えていた。光の射し込んだ世界の中で、少年は浩瀚を見つめる。「偉い、お役人が着るような服だ。海客じゃない……だって、ここは……この国は……」「海客は認められていない」少年の片眉がぴくりと上がる。「つまらない法律だ。人として何が違うと言うのだろうか。むしろ、辛い思いを強いられていると言うのに、手を差し伸べることが出来ない。ところで……」浩瀚はそう言って少年の瞳を見た。「それは蓬莱の楽器だろうか?」「え……あ、ああ……うん。龍笛(りゅうてき)って言う。もう、千四百年以上も前からある楽器だ」少年はそう言うと、拭き口を唇に当てる。その唇もまた、夜露に濡れていた。「強く吹くと……」先ほど聞いた、鋭い音が笛から現れる。「高音が出て、優しく吹くと……」今度は寂寥に満ちた低音が鳴り響く。「これが基本の奏法。責(せめ)と和(ふくら)と言う。この楽器の音色は、龍の咆吼(ほうこう)を模(も)したとも言われている」ゆえに、龍笛と呼ばれる。「何故こんな朝方に笛を?」「最後の独奏……かな。どうやら俺、もう……駄目みたいだから」寂しく笑った顔が儚い。「駄目、とは?」問いと同時に、少年の顔に積鬱が現れる。「もう……随分食べてないしさ……それに……さっき……妖魔が……」そこまでを言うと、ぐらりと体が傾き始めた。辛うじて支えた手から、その体はいとも簡単に落ちていった。滑り落ちたのだ。その体に付着していた、まだ温かい血によって……。「これは……いけない。すぐに手当を」「もう……手遅れ……」息づかいが荒い。全ての体に力がない事がわかった。ただ、一カ所を除いて。僅かに残った力は、左手に注がれていた。龍笛を持つ、その手に。浩瀚はその小さな体を抱え上げ、騎獣の許へと急いだ。「もう少し、持ちこたえてくれ」「何……?助けて、くれるの?」騎乗し、手綱を握る。「あんた……誰?俺、海客だから……関わったら駄目だ……」悲しい、悲しい瞳。涙を見せぬその瞳が、いっそう痛々しい。「人が死にかけているのに、放置したままでおれるはずがない」少年の瞳が、ふと揺らめく。「変わってるんだ……あんた……名は?」「浩瀚」「浩瀚か……浩瀚、ありがと。最後の最後に、優しい人に巡り会えた。それだけでも……良かった。この世界を憎んで死なずに……済んだ、から……」「憎んでいないことは、笛の音が教えてくれた。だから、これからはもっとこの世界で楽しく生きなくては……」「そっか……音色に……ふふ。そっか……」嬉しそうに笑う顔は、少女かとも見まごう。しかし呼吸は落ち着かず、あえぐような仕草は止めようがないようだった。袍に隠されて、傷跡は見えなかったが、滴る血は空を駆けている間にも、地に降り注ぐ雨のように多い。「お墓でも……作ってくれたら嬉しい……。って言う。墓石に……彫って……」最後まで言えずに、の意識は抜け落ちた。 州城に戻るとすぐに瘍医を呼び、早急に動き始めた。架空の戸籍を作り、書類を整えて、首都へと青鳥を放つ。仙籍にあげるように、取りはからった。その命を繋ぎ止めるために。慌ただしく動いていた浩瀚が、と名乗った少年の横にいけたのは、州城が静まりかえった後だった。ついていた瘍医を労い、休むように言う。「体力がかなり摩耗しておりますので、目が覚めたら何か喉越しの良い物を」「わかった。遅くまですまなかったな」「いえ、それがわたくしの勤めでございます。何かあればすぐに人を寄越して下さい」そう言って、瘍医はその場から去った。浩瀚は椅子を引き寄せて横につく。卓子には、龍笛と呼ばれた笛が置かれていた。そっと笛を手にとって、観察してみる。楽器に開けられた指孔は全部で七つ。糸のような桜皮が巻き付けられ、さらに塗られた黒と紅の漆は、つややかで美しかった。が身を包んでいた袍から比べれば、いかに大切に扱っていたのかが伺える。龍笛を手に持ったまま、浩瀚は立ち上がって房室を出た。 しばらくして、浩瀚は再びの眠る房室へと戻っていた。小さな箱を手に、牀榻の側まで来て椅子に腰を下ろす。手に持っていた箱を、物音のたたぬよう卓子に置いて、の様子を伺った。箱の中身はもちろん龍笛。持った感じでは、竹で出来た楽器のようだった。外気に晒して、痛んではいけないと、箱の中にしまったのだった。「蘭陵王……」小さく呟かれたの声。蘭陵王(らんりょうおう)とは、何者なのか。浩瀚の見守る中、の体が反転する。寝苦しいのか、傷が痛むのか、僅かに呻きをあげている。椅子から立ち上がった浩瀚は、を覗き込む。額にびっしりと敷き詰められた汗を見た浩瀚は、冷水に布を潜らせて額に当てる。汗を拭って額に手を当てると、燃えるように暑かった。首筋にも汗が伝うのを見て、もしやと袍の中に手を入れた。「やはり……」箱を探しに行っている間に、汗をかいたのだろうか。その汗を吸った布が冷たい。浩瀚は立ち上がって、再度房室を出た。袍を手に戻ってくると、まだ意識のない体を起こして、袍を脱がせていった。 汗を含んだ袍を手に、房室を後にする。袍を持ったまま、浩瀚は暗い州城の中で呟いた。「何故……」闇に木霊するかのように、声は残響を残して消えていった。
続く
妖華さまより、リレー小説の続きをとのお誘いがありました。
しかし随分と進んでいた事もあり、私は入るべきではないと判断し、
失礼にも今回は辞退させて頂きました。
そこで、今回のこのお話を捧げたと言うわけです。
ご本人にはバレバレのネタでございましたが…………(汗)
とにかく、蘭陵王(らんりょうおう)の始まりです。
短いですが、お付き合い頂けると幸いです。
美耶子