流されて来たばかりの頃はよく見た。白い夢の中、心配する父の顔。涙ながらに探す母の姿。それとは逆に、突然消えたを忘れて、日常を送る友人達。だがここ数ヶ月は、夢すらも満足に見た事がない。確かな物など、何もなかった。ただ、暗い闇が広がるばかり。そんな己を支えてくれたものは、一本の笛だった。確かに存在すると言う、唯一の証。蓬莱から一緒に流れてきた、唯一の物。しかし、今日の夢は何かが違う。蓬莱の夢なのかは分からない。ただ、ひどく温かい手が額に触れている。べたっとして気持ち悪いと思っていると、その手が不快を浚っていく。これは、この夢は…薄い光。朝の蒼い光ではない。温かい橙の光…あれは…篝火?「ここは…」「気がついたか」「…。…。…え?」「よく頑張ったな。ここは慶東国の西、麦州なのだが…分かるか?」朝の霞の中、最後に笛を吹いて果てようと、白い緑野に足を踏み入れた。そこで何があった?ああ、そうだ、確かあの時…「麦州…なら、ずっと同じ所にいたんだ…。だって俺、麦州にいたから…」「いつから麦州(ここ)に?」「一ヶ月前。奏から…ここまで来た」「奏から?何故わざわざ慶に?」「俺、海客だから」浩瀚はこくりと頷くと、再度問いかける。「海客なのは分かったが、何故待遇の良い奏から、わざわざ冷遇される慶に来たのかを聞きたい。だが…今は瘍医に見せなければ」そう言うと、浩瀚は立ち上がって房室を出ていく。瞳だけがそれを追い、の意識は再び埋没しようとしていた。誰かが房室に入って来たのは分かった。重い瞼を持ち上げてみると、見知らぬ男だった。問いかけられる内容から、瘍医なのだと分かったが、の瞳はそれ以上開かれる事はなかった。浩瀚ではなかったからだろうか、再びその意識は夢の中へと歩みはじめた。次に目が覚めた時、房室に人影はなかった。さらりと心地よい布地を触りながら、は体を起こす。軽く目が回ったが、起きあがれない事はなかった。不思議な事に、どこも痛みを感じない。抉れていたはずの脇腹からも、まったくと言って良いほど痛みがない。「おかしい…」そう呟いたの声に反応するかの如く、静かに扉が開かれた。「どうやら間に合ったようだ」夢の中に見た顔だった。いや、あれは現実。自分はこの男に助けられた。「麦州にいる理由を聞きに?」そのように問いかければ、柔和な笑みが返ってくる。「ただ、様子を見に」座るように促され、は椅子に腰を下ろす。ふわりと温もりが残っていたのは、気のせいだろうか。「そうか…ありがとう。まさか生きているとは思わなかった。それで…どうして言葉が分かる?麦州でも俺の言葉が分かった者はいなかった。奏でもそれは同じ。例外的に言葉が分かったのは、役人だけだった」「わたしは仙籍にある。だから言葉が通じる。ここは麦州城。雲の上だと言えば分かるだろうか」「雲の…上?ひょっとして、あの天を貫いた山の上?」頷かれた顔に、は言葉を失っていた。「本当だったんだ…奏の役人が教えてくれた事。でも、冗談を言われているのかと思ってた。海客だからって、からかっているのだとばかり…」「州城や宮城は雲の上…雲海の上にある」「…なんだか、信じられないな。でも、もう充分に変な事は見てきたし、信じるしか…ないんだろうな」「変な事とは…」「ん、妖魔とか、へんてこな獣だとか…色の違う海だとか…」「そうか…」「何故慶にいるのか聞いていたっけ…ここの海が青いって聞いたから来たんだ。本当に青かった。蓬莱の海よりもずっと、ずっと青かった」「蓬莱に通じるのだと思って来たのだろうか」「うん…そう。奏の役人には止められたけどね。まだ危ないからやめろって。この国、随分荒れていたからって。はは…本当だった。荒れるって妖魔がたくさんいるって事だったんだ」「これから、数は減っていくだろう。新しい王がいるのだから」「そうか…」はふと浩瀚から視線をそらし、房室の中を見回す。何かを求める様子に、浩瀚は卓子に歩み寄って箱を手渡した。「もうひとつ、聞いてもいいだろうか」箱を開けながら、は頷いて答えた。「うん。いいよ」箱の中からは、細長い布が現れる。「これは…龍笛…!」「どのように保管するのが最善なのか分からなかった。だが、そのまま卓子に置いておくわけにもいかないと思って、箱にいれて置いた。落ちてしまわぬように」「あ…。ありがとう」最初に言ったそれよりも、深く感情のこもった声に、浩瀚はただ微笑んで質問に戻る。「何故、少年のような格好を?」「え…」汗を拭うために、取り払われた袍の中からは、華奢な女性の体が現れたのだった。「すまない。少年だと思っていたので、一度汗を拭うために…」「いや。気にしない事にする。命がかかっていたんだし、助けてもらった人を、そんなことで責める事は出来ない。男の格好をしているのは、女の格好では危険だと教わったからだ。汚い浮民の少年を、襲おうって奴は少ないから。…俺も聞きたい。酷い怪我だったはずだけど、もう痛くない。それほど深い傷ではなかったのか、それとも、深い傷が完治してしまうほどの月日が流れたのか、どっち?」「どっちでもない。仙籍に入れた」「仙籍…?」「仙になれば、不老不死。傷もたちどころに治る。王の裁可が降りるまで、生き延びるかだけが心配だった。王が御璽を押して裁可しなければ、正式に仙籍に入ることは出来ない」「不老…不死?年を取らない?」「それだけではなく、言葉の壁も取り払われる」「そ…そんなことが?あ、あの役人、仙籍に入っていたんだ…っでも…でも、何故?」「何故、とは?」 「どうしてただの海客、しかも初めて会ったようなやつを仙籍に入れてまで助けた?誰にでもこんな事をしてたら…みんな仙になってしまう。そこまで軽いものじゃないんだろう?だって、言葉の分かるやつなんて、本当に少なくて…少なくて…」残りを飲み込むようにして、声を絶ったを、浩瀚の静かな声が覆う。「目の前で人が死にかけているのに、それを放置しておくことはできない」「そ、それだけで…?」よほど酷い目に遭ってきたのだろうか、瞳には猜疑が現れている。「…そうだな。おしい、と思ったのかもしれない。あの音色を永遠に失うのが、堪らなくおしいと…龍笛と言ったか…不思議な音色の楽器だ」箱から出された笛を握っているの手に、浩瀚の視線が注がれた。「では、お礼に何か演奏を」「ありがたい、と言いたい所だが」浩瀚はそう言うと、龍笛からに視線を移す。「完全に体力が戻ってから、改めてお願いしてもよいだろうか。このまま吹けば、倒れてしまいそうに見えるのだが」「あ…うん。…確かに、今は無理かもしれない。この楽器を吹く事は、激しい運動をこなすのに匹敵するらしいから」龍笛は他の管楽器と違わず、拭き口に空気を送り込んで音をだす。確実に半分は外へと流れる横笛の特性を、当然備え持っている。それは、相当の肺活量を要する。内蔵が全力疾走で駆けるのと、同じだと言われた事があった。「しばらくここで療養するといい。何か食べるものを持ってこさせよう」浩瀚はそう言うと、踵を返して房室を後にする。いつかのように、やはり視線だけがそれを追っていた。
続く
主人公が「俺」と言うのは、リクエストの範疇でございました。
その他、素材を色々頂いておりまして。その中の一つが龍笛ですね。
その世界の人にはピンとくるお話なので、知識のある方はそっと見守ってくださいね☆
美耶子