ドリーム小説




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蘭陵王


=3=



数日後、は雲海を眺めていた。

仙籍に入ったからなのか、信じられない早さで体力は戻りつつあった。

蓬莱の海を求めて来たこの国の、空にも海があるのだとは思わなかった。

「蓬莱か…。蘭陵王…」

穏やかな波を金の光が染めていた。

西にまどろむ陽は、の頬を照らしだす。

その手に持たれたのは、龍の笛。

すっと右に構えて口を当てる。

そこから、天に轟く高音が響いた。

一度音を出してしまうと、それを止めることは出来ない。

ただ思うがまま、音を紡いでいく。

音は天に昇り、降りてくる。

高音と低音が心地よく、黄昏の空を駆けめぐっているような気にさせていた。

やがて、静かに降ろされた腕。

それと供に手を打つ音。

「…浩瀚」

州侯であったと聞いたのは、昨日の事だった。

だが、州侯のなんたるかが、よく分かっていない。

州侯であろうとなかろうと、恩人であることに変わりない。

「今のは蓬莱の曲だろうか」

「黄鐘調律旋(おうしきちょうりつせん)…。どこのものでもない。だから、曲じゃない。ただ、思うがまま吹いただけのこと」

「夏の夕暮れのような淋しさがある…」

「そう…。分かってくれると嬉しい。雅楽って、あぁ、知らないか…。黄鐘調は夏の調子。そして律旋は短調。それを基調に、浮かぶ音を笛で再現した」

短調、マイナー。

雅楽などで使われる黄鐘調とは、日本風に言うと、イ短調というところか。

西洋風に言うと『Aマイナー』である。

だが、これはあくまでも相当する調子であって、古典楽の部類の中の調子に『相当』するに過ぎない。

厳密には違うと言えよう。

「本当は、同じ楽器が後二人居る。それから、人の声を模したとされる篳篥(ひちりき)と言う楽器と、天から射す光を模した笙(しょう)が入る。人の声は地の音。光は天の音。その合間を縫って行き来するのが、この龍笛」

本来なら打楽器に、鞨鼓(かっこ)、太鼓(たいこ)、鉦鼓(しょうこ)が入り、琵琶と筝を二人ずつ入れて、合計十六人で演奏されるのが基本の形式だった。

だが、この世界には誰もいない。

合奏など、できるはずもなかった。

それが、流されてしまったという事実、虚しさを運んで来る元凶であった。

「雅楽とは?」

「日本古来の音楽の事。三名の龍笛奏者の内、俺は音頭(おんど)だった。あ、音頭は主奏者のこと。音頭は音取(ねと)りを任される。鞨鼓と呼ばれる打楽器と、各楽器の音頭だけで、調律するための曲、と言えばいいかな」

「それを任されると言うことは、相当に演奏が長けていたと言うことか…確かにうなずける」

「長けていたのかどうかは分からない。他に適役がいなかっただけ…でも、初めて音頭を任された時は、とても嬉しかったな」

遠くを眺めながら微笑むその顔は華のようで、少女だったのだと思い出させるには充分過ぎるほどだった。

「雅楽ってさ、もう千二百年も形を変えていないんだって。現存する世界最古の合奏音楽…世界、最古は…あちらの話しだけどね」

「…。もし、体力に余裕があるのなら、何か一つ頼んでも良いだろうか?この夕暮れに解けてしまいそうな、その音色を今一度聞かせてほしい」

寂しげな笑みを浩瀚に向けたは、頷いて笛を構えた。

「では…黄鐘調、海青楽を」

そう言って、すっと閉じられた瞳。

桜色の唇から、龍が天へと昇り始める。

蒼い世界に龍の咆吼。

どこまでも、どこまでも昇っていくかのように思えた。

だが、突然龍は下降を初め、浩瀚を取り巻いてへ帰化す。



「生きた音色とは…このような音を言うのだろうな…」

静かに吹き終えたは、浩瀚のその言葉にちらりと笑う。

「褒め上手だな」

「そんなことはない。本当にすばらしい音色だからこそ、そこに龍が生まれた」

「本当に?」

「本当に。目が捉える事すら、可能かと思わせるほどだった」

「…本当に、本当??」

「もちろん、嘘や世辞などではなく。一度は天に昇って、消えてしまうかと思ったが、わたしのそばへと戻ってきた。そして、作り出した本人へと戻って収まった」

「…へへ。ちょっと嬉しい」

笑みを深めた顔は、さきほどよりも華やかで、男姿のままだというのがもったいない。

照れ隠しの為か、再び笛を口にあてる



再び龍の咆吼が現れる。












が州城に来てはや数日。

この海客は多くを語らない。

しかし何を語らなくとも、その音色にすべてが現れているようだった。

故国を思い涙する心。

生き延びて歓喜する心。





そして…ただ、一途に籠められた願い…





だれか、お願い…どうか、どうか…私を…







「…」


すっと引かれた音色とともに、消えゆく心の声。

じっと見つめる浩瀚と、演奏を終えて息のあがったの瞳がかち合う。

静かに口を開いた浩瀚を、は見つめ続けていた。

「…その楽器では、演奏は難しいだろうに。よくそこまで極めている」

単純な構造の笛に見える。

だが、そこが浩瀚の、今の言に繋がる。

「浩瀚も、何か楽器をやるのか?」

「いや…わたしは特に何が出来るわけではない。だが、ほどの音色を奏でる事が出来れば、素人のわたしにも多くを与えていく」

「そんな…本当に褒め上手だな。だけど、確かに難しい楽器の部類に入るとは思う」

フルートやピッコロといった管楽器とは違い、古くからその原型を留め、今日(こんにち)まで伝わって来た。

構造が単純であるがゆえ、その演奏は難しい。

何しろ、補うものが何もないのだから。

まず音を出すことから最初の山が始まるのだ。

「だけど、俺にはこの楽器しかない。蓬莱に繋がると思っていた青海も、残酷な現実を運んで来ただけだった。だから、蓬莱と繋がる唯一のものは、この龍笛しかない」

「古来より伝わるものだから、だろうか…その音色に、覆い隠すものが何もない。だから流れてくる。の心の悲鳴が…」

「え…」

蒼かった世界は、いつの間にか暗く深い闇を作り出していた。

漆黒の彼方に瞬きはなく、ただ波音だけを残している。

浩瀚はに歩み寄る。

声を失った体を優しく包むと、背を撫でながら言った。

「もう、少年のような姿をしなくてもいい。州城にいれば、妖魔に襲われる事もなかろう」

「え…な、ぜ…?」

「音色が…悲鳴をあげている。辛くて、悲しくて、泣き叫んでいる。この瞳が…」

そう言って浩瀚は体を離し、の頬に指を滑らせる。

「涙を見せぬ代わりに」

目元からつっと伝ったのは、浩瀚の指だけだった。

の瞳は見開かれたまま、浩瀚を視界いっぱいに映しだしていた。

「お…俺が女の格好をしても…似合わないしさ…」

「自分が見慣れぬだけで、他の目から見れば何の違和感もないだろう」

「だけど…」

「蓬莱から流されたことによって生じる辛さは、残念ながら取り払う術を持っていない。だが、その心の嘆きには…」

それ以上は声に出さなかった。

もまた、何も言わずにその瞳を見上げていた。

朧にけぶる月が幽光を送る。

ただゆるやかに過ぎてゆく時は静寂の如し。

世界を染める明かりは夜の灯火だけとなった。







「朝が来て、夜が来る。空の様子は、蓬莱もこの世界も何も変わりはない。だから天に向かって音を出す。だけど…音が天を掠めたその瞬間、どうしてか地に戻って来いと…音を呼び戻してしまう」

ぽつりと呟かれた声はのもの。

浩瀚はまだ黙ったまま、それに耳を傾けていた。

「天に昇って消えてしまいたいと思った。でも、死ぬのは恐いと言う臆病な俺がそれを止める。二つの感情の中で行き来して、やがては動けなくなる」

浩瀚の腕から抜け出て、そう呟いたは寂しく微笑む。

「…蘭陵王は」

「え?」

「蘭陵王はどのような人物なのだろうか?」

浩瀚の問いに、しばし沈黙が訪れる。

それによって、浩瀚は首を振って言う。

「すまない…」

「いや…。どうしてその名を?」

「うなされていた時に、その名を聞いた」

そのように言えば、悲しげな表情に拍車がかかったように見えた。

それによって、先ほども聞いたと言いかけた浩瀚の口は閉ざされた。

「そう。そうか…。北斉と言う国の将で、蘭陵王高長恭と言う。こ…」

の声を遮って、浩瀚はその肩に手を乗せた。

「消えてしまってはいけない。まだ何も救われていないのに、逝ってしまってはいけない」

そう口を開いた浩瀚はを見つめる。

「え?」

「その心の悲鳴は…」

あまりにも真っ直ぐ見つめられるので、目のやり場に困ってしまった。

俯くことで、かろうじてやり過ごす。

はそのまま浩瀚に問う。

「救いは…どこに求めればいい?」

「わたしに求めるといい。出来る限りの事はしよう」

「…どうしてそこまでする?」

「囚われたから」

「何に?」

ふっと笑みを零した浩瀚は、何も告げずにその場から離れていった。

漆黒の闇の中、はその後ろ姿を見送って、自らも明かりの許へと進み消えていった。



続く






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イ短調=Aマイナー

これは、五線譜で言うと#も♭もなにもない状態の調子(Kye)です。

つまり、普通のド レ ミ ファ ソ ラ シ ド なんですねえ。

日本語で書くと分かりにくいわあ…。

ちなみに、ドレミ…はイタリア語だったりします。

                                 美耶子