数日後、は雲海を眺めていた。仙籍に入ったからなのか、信じられない早さで体力は戻りつつあった。蓬莱の海を求めて来たこの国の、空にも海があるのだとは思わなかった。「蓬莱か…。蘭陵王…」穏やかな波を金の光が染めていた。西にまどろむ陽は、の頬を照らしだす。その手に持たれたのは、龍の笛。すっと右に構えて口を当てる。そこから、天に轟く高音が響いた。一度音を出してしまうと、それを止めることは出来ない。ただ思うがまま、音を紡いでいく。音は天に昇り、降りてくる。高音と低音が心地よく、黄昏の空を駆けめぐっているような気にさせていた。やがて、静かに降ろされた腕。それと供に手を打つ音。「…浩瀚」州侯であったと聞いたのは、昨日の事だった。だが、州侯のなんたるかが、よく分かっていない。州侯であろうとなかろうと、恩人であることに変わりない。「今のは蓬莱の曲だろうか」「黄鐘調律旋(おうしきちょうりつせん)…。どこのものでもない。だから、曲じゃない。ただ、思うがまま吹いただけのこと」「夏の夕暮れのような淋しさがある…」「そう…。分かってくれると嬉しい。雅楽って、あぁ、知らないか…。黄鐘調は夏の調子。そして律旋は短調。それを基調に、浮かぶ音を笛で再現した」短調、マイナー。雅楽などで使われる黄鐘調とは、日本風に言うと、イ短調というところか。西洋風に言うと『Aマイナー』である。だが、これはあくまでも相当する調子であって、古典楽の部類の中の調子に『相当』するに過ぎない。厳密には違うと言えよう。「本当は、同じ楽器が後二人居る。それから、人の声を模したとされる篳篥(ひちりき)と言う楽器と、天から射す光を模した笙(しょう)が入る。人の声は地の音。光は天の音。その合間を縫って行き来するのが、この龍笛」本来なら打楽器に、鞨鼓(かっこ)、太鼓(たいこ)、鉦鼓(しょうこ)が入り、琵琶と筝を二人ずつ入れて、合計十六人で演奏されるのが基本の形式だった。だが、この世界には誰もいない。合奏など、できるはずもなかった。それが、流されてしまったという事実、虚しさを運んで来る元凶であった。「雅楽とは?」「日本古来の音楽の事。三名の龍笛奏者の内、俺は音頭(おんど)だった。あ、音頭は主奏者のこと。音頭は音取(ねと)りを任される。鞨鼓と呼ばれる打楽器と、各楽器の音頭だけで、調律するための曲、と言えばいいかな」「それを任されると言うことは、相当に演奏が長けていたと言うことか…確かにうなずける」「長けていたのかどうかは分からない。他に適役がいなかっただけ…でも、初めて音頭を任された時は、とても嬉しかったな」遠くを眺めながら微笑むその顔は華のようで、少女だったのだと思い出させるには充分過ぎるほどだった。「雅楽ってさ、もう千二百年も形を変えていないんだって。現存する世界最古の合奏音楽…世界、最古は…あちらの話しだけどね」「…。もし、体力に余裕があるのなら、何か一つ頼んでも良いだろうか?この夕暮れに解けてしまいそうな、その音色を今一度聞かせてほしい」寂しげな笑みを浩瀚に向けたは、頷いて笛を構えた。「では…黄鐘調、海青楽を」そう言って、すっと閉じられた瞳。桜色の唇から、龍が天へと昇り始める。蒼い世界に龍の咆吼。どこまでも、どこまでも昇っていくかのように思えた。だが、突然龍は下降を初め、浩瀚を取り巻いてへ帰化す。「生きた音色とは…このような音を言うのだろうな…」静かに吹き終えたは、浩瀚のその言葉にちらりと笑う。「褒め上手だな」「そんなことはない。本当にすばらしい音色だからこそ、そこに龍が生まれた」「本当に?」「本当に。目が捉える事すら、可能かと思わせるほどだった」「…本当に、本当??」「もちろん、嘘や世辞などではなく。一度は天に昇って、消えてしまうかと思ったが、わたしのそばへと戻ってきた。そして、作り出した本人へと戻って収まった」「…へへ。ちょっと嬉しい」笑みを深めた顔は、さきほどよりも華やかで、男姿のままだというのがもったいない。照れ隠しの為か、再び笛を口にあてる。再び龍の咆吼が現れる。が州城に来てはや数日。この海客は多くを語らない。しかし何を語らなくとも、その音色にすべてが現れているようだった。故国を思い涙する心。生き延びて歓喜する心。 そして…ただ、一途に籠められた願い… だれか、お願い…どうか、どうか…私を… 「…」 すっと引かれた音色とともに、消えゆく心の声。じっと見つめる浩瀚と、演奏を終えて息のあがったの瞳がかち合う。静かに口を開いた浩瀚を、は見つめ続けていた。「…その楽器では、演奏は難しいだろうに。よくそこまで極めている」単純な構造の笛に見える。だが、そこが浩瀚の、今の言に繋がる。「浩瀚も、何か楽器をやるのか?」「いや…わたしは特に何が出来るわけではない。だが、ほどの音色を奏でる事が出来れば、素人のわたしにも多くを与えていく」「そんな…本当に褒め上手だな。だけど、確かに難しい楽器の部類に入るとは思う」フルートやピッコロといった管楽器とは違い、古くからその原型を留め、今日(こんにち)まで伝わって来た。構造が単純であるがゆえ、その演奏は難しい。何しろ、補うものが何もないのだから。まず音を出すことから最初の山が始まるのだ。「だけど、俺にはこの楽器しかない。蓬莱に繋がると思っていた青海も、残酷な現実を運んで来ただけだった。だから、蓬莱と繋がる唯一のものは、この龍笛しかない」「古来より伝わるものだから、だろうか…その音色に、覆い隠すものが何もない。だから流れてくる。の心の悲鳴が…」「え…」蒼かった世界は、いつの間にか暗く深い闇を作り出していた。漆黒の彼方に瞬きはなく、ただ波音だけを残している。浩瀚はに歩み寄る。声を失った体を優しく包むと、背を撫でながら言った。「もう、少年のような姿をしなくてもいい。州城にいれば、妖魔に襲われる事もなかろう」「え…な、ぜ…?」「音色が…悲鳴をあげている。辛くて、悲しくて、泣き叫んでいる。この瞳が…」そう言って浩瀚は体を離し、の頬に指を滑らせる。「涙を見せぬ代わりに」目元からつっと伝ったのは、浩瀚の指だけだった。の瞳は見開かれたまま、浩瀚を視界いっぱいに映しだしていた。「お…俺が女の格好をしても…似合わないしさ…」「自分が見慣れぬだけで、他の目から見れば何の違和感もないだろう」「だけど…」「蓬莱から流されたことによって生じる辛さは、残念ながら取り払う術を持っていない。だが、その心の嘆きには…」それ以上は声に出さなかった。もまた、何も言わずにその瞳を見上げていた。朧にけぶる月が幽光を送る。ただゆるやかに過ぎてゆく時は静寂の如し。世界を染める明かりは夜の灯火だけとなった。「朝が来て、夜が来る。空の様子は、蓬莱もこの世界も何も変わりはない。だから天に向かって音を出す。だけど…音が天を掠めたその瞬間、どうしてか地に戻って来いと…音を呼び戻してしまう」ぽつりと呟かれた声はのもの。浩瀚はまだ黙ったまま、それに耳を傾けていた。「天に昇って消えてしまいたいと思った。でも、死ぬのは恐いと言う臆病な俺がそれを止める。二つの感情の中で行き来して、やがては動けなくなる」浩瀚の腕から抜け出て、そう呟いたは寂しく微笑む。「…蘭陵王は」「え?」「蘭陵王はどのような人物なのだろうか?」浩瀚の問いに、しばし沈黙が訪れる。それによって、浩瀚は首を振って言う。「すまない…」「いや…。どうしてその名を?」「うなされていた時に、その名を聞いた」そのように言えば、悲しげな表情に拍車がかかったように見えた。それによって、先ほども聞いたと言いかけた浩瀚の口は閉ざされた。「そう。そうか…。北斉と言う国の将で、蘭陵王高長恭と言う。こ…」の声を遮って、浩瀚はその肩に手を乗せた。「消えてしまってはいけない。まだ何も救われていないのに、逝ってしまってはいけない」そう口を開いた浩瀚はを見つめる。「え?」「その心の悲鳴は…」あまりにも真っ直ぐ見つめられるので、目のやり場に困ってしまった。俯くことで、かろうじてやり過ごす。はそのまま浩瀚に問う。「救いは…どこに求めればいい?」「わたしに求めるといい。出来る限りの事はしよう」「…どうしてそこまでする?」「囚われたから」「何に?」ふっと笑みを零した浩瀚は、何も告げずにその場から離れていった。漆黒の闇の中、はその後ろ姿を見送って、自らも明かりの許へと進み消えていった。
続く
イ短調=Aマイナー
これは、五線譜で言うと#も♭もなにもない状態の調子(Kye)です。
つまり、普通のド レ ミ ファ ソ ラ シ ド なんですねえ。
日本語で書くと分かりにくいわあ…。
ちなみに、ドレミ…はイタリア語だったりします。
美耶子