「なあ、尚隆〜」唇と鼻の間に筆を挟みながら、宰輔は隣の主に声をかけた。「なんだ」それに答えた声は、極めて不機嫌である。「元々仏教ってさぁ、蓬莱のものであって、こっちのものじゃねえんだろ?」質問の意味が分からず、尚隆は手を止めて何もない前を見る。訝しげな顔を作ると、六太にちらりと視線を向けて言った。「そうだが、それがどうした」「どうしたもこうしたも……いくら胎果だからって、こんなに重んじなくてもいいと思わねえか??」「……」無言のまま落とされた視線の先には、写経十巻の束。「なあ〜、勅命でもって終了させることは出来ねえの?」「あのなあ……そもそも今回の件はお前のせいだろう」二人仲良く並んで写経を続けているのには、少々経緯がある。それは前日に遡らねばならない。 「ふうん、蓬莱って来る度に変わるのな。同じ所に来たつもりでいたのに……数年前とえらく違う」どこから調達してきたのか、洋装に身を包んだ六太がアスファルトの街並みを歩いていた。昔は遠くに海が見えていたが、今は四角い建物に隠されて何も見えない。しかし六太は何ら気にした様子もなく、頭の後ろに手を組んで、一際大きな建物に入っていった。ここに来るのは二度目である。動く階段に三度ほど乗ると、お気に入りの場所へ出るのだ。六太は飛び乗るようにして階段を移動し、一際煌びやかな装飾で溢れている場所へと出た。ふさふさの動物のようなものが至る所に置かれ、人型の模型が陳列されている。蛇や蜘蛛を象った、精巧なものを見つけ、それを手に取った。「ああ、これこれ。懐かしいな」それで一度、女官に悪戯した事がある。いや、厳密に言えば、脱走するのに利用した事があるのだ。その時の様子を思い出すと、今でも笑いが込み上げてくるほどで、その素晴らしい出来に感服したのだった。「新しいのもたくさんあるな」そう呟いて店内を一周する。しかしそのまま店を離れて移動を続けた。動く階段でさらに一階上に上がると、文房具店の前で立ち止まる。「あ、そうだ」いつだったか、偶然見つけたものを探す。墨の匂いに引かれたのか、筆ペンのある所に辿り着いた。太めの筆ペンを三本手に取ると、ぐるりと辺りを見回す。女の店員が二人、何か焦った様子で会話している。年上らしき女は書類を捲りながら、若い方の女はそれを申し訳なさそうな表情で見ていた。六太のほうはまったく見ておらず、入店していることすら気付いていないかのようだった。再度手に持った筆ペンを見る。これは墨を擦らなくてもよく、毛筆が固くて書きやすい。いつでも気軽に仕える便利さが気に入っていた。店員が捲っているのであろう紙の音を耳で確認すると、そっと服の袖に隠して店を出る。「ん?」どこからか聞こえた異変に、六太は少し足を速める。しかし……「ねえ、君」「やべっ」小さくそう呟くと、駆け足になる。「あ……こら!待ちなさい!!」下る階段を転げるようにして駆け下りると、外へ向かって全力で走り出す。それでも背後から追ってくる声は、まだ聞こえている。「待ちなさい!子供のくせに、なんてことするの!!」建物を出てしばらく、襟首を捕まえられて宙に浮くのを感じた。しかし重かったのか、すぐに降ろされた。振り返ると、女性の頭が見えている。肩は荒く上下しており、息が多く漏れている。ふいに、その手が離れた。その瞬間を逃すはずもなく、今だとばかりに駆け出す。「あ、こら〜!待ちなさいってば!!君、どの子なの!お母さんに言いつけるわよ!」その言葉にふと立ち止まる六太。振り返ると、女は六太を放したその場で立ち止まり、怒った顔で叫んでいた。「雁州国からきた六太って言う。ま、機会があったら訪ねてきてくれ。玄英宮にいるから」そう言うとにっと笑い、片手を上げて逃走していく。ぽかんと取り残された女性はしばらくその場で立ち尽くしていた。 「ふう……」大きな息をついて後ろを振り返る。もう大丈夫なようだ。「本当はちゃんと買いたいんだけどな……こっちの通貨って持ってないんだ、ごめんな」誰もいない背後にそう言うと、六太は再び手を後ろに組んで歩き出した。 夜になり、月が顔を覗かせてしばらく。「そろそろ帰るか」器用に木の上で寝そべっていた六太は、そう呟くと立ち上がって海に向かった。海岸を伝って波打ち際に出る。周辺に人影はなく、無機質な岩がすぐ隣にあるだけだった。「沖まで出る必要はないか……」そう言うと瞳を閉じる。雁へ帰ろうと、意識を集中させたその瞬間。何か大きな衝撃が足を襲った。慌てて瞳を開けると、奇妙に歪んだ景色が映る。「しまっ……」最後まで口に出すことは出来なかった。強風に煽られ、流されるようにして移動を続ける体。何とか体勢を立て直そうと試みるが、あまりの風に目を開けることが出来ない。衝撃の後から右足が重く、それが余計に均衡を崩す一因となっている。焦ってもがくこと幾刹那。急激に足が軽くなった。急いで目を開けると、静かな世界がそこにはあった。きょろきょろと辺りを見回す六太。見慣れた宮城の一郭に立っている。背後に雲海があり、露台に立っていた。「なかなかやるじゃん、おれ」ご機嫌な表情でそう言うと、眠るために帰途へとついた。 「台輔、ご面会ですよ」その翌日のことだった。朱衡が六太を呼び止め、案内のために歩き出す。「面会〜?おれ、何も約束してないぞ」「さまと申されます。ご存じでしょうか」「ん〜?知らないけど?」「おや、お知り合いではなかったのですか?台輔のお名前をご存じで、台輔自ら面会に来いと言われたとか」「は?」「過去、様々な事例がございましたので、面会の理由と事情を一通りは聞いておりますが」「で、どうだった?」「台輔はお会いしなければなりません」「?」朝議の終わり、その直後の事だった。分からないと言った様子の六太は、大人しく朱衡についていく。誰だろうと不思議に思ったが、面会など久しぶりの事だったので、少し楽しい予感がしていた。しかし、六太の勘は見事外れる事となる。外朝にある賓客が控える堂屋、その中に見知らぬ女が立っている。常磐色の襦裙姿をしており、入ってきた二人に気が付き向きをかえた。「こちらがさまですよ」「誰だ?」と言われた女もまた、分からないと言ったような表情をしている。互いが不思議そうに見つめ合っていたが、六太が歩み寄って声をかける。「どっかであったっけ?」「……」ただじっと瞳を見つめてくる女。見上げるようにその瞳を見ていると、と呼ばれた女はぽつりとつぶやいた。「やっと見つけたわ……」嫌な予感がして、六太は一歩下がる。そしてどこかで見覚えがあるように感じた。「あ!昨日の……」「やっぱり!随分と感じが変わってるけど、あなたなのね。子供のくせに、万引きをするなんて!!駄目じゃない!」「な……何でこんな所にいるんだ!?」「好きでいる訳じゃないわよ!」あまりの剣幕にたじろぐ六太。しかしなんとか体勢を立て直し、に向かって小さく言った。「あっちの通貨を持ってれば、黙って持っていくなんて事しない」「持っていかなければいいじゃない」「う……で、でも、必要な物なんだ!蓬莱の文化を知ることは、この国の発展に繋がったりするし……」「ふうん……」軽蔑したような視線が頭上から突き刺さるのを、六太は冷や汗をかきながら感じていた。まともにを見ることが出来ず、自らの足下を見るしかない。思い沈黙を、じっとつま先を見つめて堪える六太。しばらくするとふっと笑ったような声が頭上から降ってきた。「あのね、他に方法はいくらでもあるでしょう?誰かに買って貰うとか、事情を説明してみるとか。黙って持っていくのはね、犯罪なのよ?この国もそれは変わらないんじゃないの?」「……」「何か言うことがあるでしょう?」「……ごめんなさい」六太がそう言うと、肩にふわりと手が置かれる。「うん、いい子ね。もうしちゃ駄目よ」黙ったままで頷いた六太。それを確認したは朱衡に向き直る。「ありがとう。運良く目的を果たすことができたわ」「では、戻りましょう」朱衡はそう言うと、背後に控えていた官吏に目を向けて合図を送る。三名ほどが宰輔を囲み、なんだと叫ぶのを無視して運んだ。
続く
はじめに。
シリーズ作となります。ここは〜先輩編〜とでも言いましょうか。
続きはお相手もヒロインも代わります。まだ書き上がっておりませんが……☆
リクエストを頂いて書き始め、〜後輩編〜は付属の産物と言ったところです。
いきなり台輔に万引きをやらせてしまいましたが……心の広い皆様のこと、
ど〜んと笑って許して下さると幸いです。
美耶子