ドリーム小説
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周防国 =1= 「朱衡、華瑟はどうした?」
王はのんびりとした口調で問いかけた。
しかし笑いを含んでいる事を、朱衡は見逃さなかった。
いつになったら春官に入るのかを気にしているため、近頃書面に通す目が真面目に近い。
此幸いと書面を積み上げ、春官の人事について匂わせてみると面白くほど片づく。
そろそろ限界かと思われるほどの日数が経過してもなお、その手を緩める事はなかった。
その日太宰と大司馬は、しごかれているであろう、王の許へ向かっていた。
近頃は勤怠も良く、政務が進んでいるので機嫌が良い。
しかし…
「何処に行ったんだ!!!!!」
扉を開けた瞬間、叫んだのはもちろん太宰帷湍。
そろそろであろうと危惧していただけに、反応がはやかった。
ついでに駆け出すのも早かった。
「ああ、そうか。が視察に出る日だった」
書面の積み上げられた卓子を見つめながら、成笙がぽつりと呟いた。
その頃尚隆は、厩への距離を確実に縮めていた。
早く着かなければ小司徒は護衛の夏官と発ってしまう。
しかし、その足を止めるべき事態が起きた。
行く先に朱衡がいるのだ。
立ち止まって誰かと話をしているようだ。
柱の影に隠れているのか、相手は見えない。
「―――――か。あれほど行きた―――いた―に」
「――――――――――――――」
「そうですか。それでは―――――――――仕方がないですね」
そう言うと、踵を返し歩き出す朱衡。
しかしすぐに足を止めて振り返り、少し声を張り上げて言った。
「ああ、。楽士が呼んでおりましたよ。時間が空いたら春官府までお願いしますね」
「はい」
朱衡は改めて踵を返し、尚隆の潜んでいる場所に向かって歩きだした。
「おや、主上。こんな所で何をなさっておいでです?」
まるで始めから分かっていたかのような諸動作だった。
「ちょっと散歩にな」
苦し紛れに出た言葉がこれしかなかった。
「そうですか。では良い気分転換におなりでしょう。処理の速度も上がりましょうから、早速お戻りになって続きをお願い致します」
いかに丁寧に言われようとも、張りつめた空気が抜けることはなかった。
よって、この場から逃げ出すことが出来ない。
「…分かった」
諦めたように言われた声は、宮道に小さく響いて消えてしまった。
王が戻ってきた事によって驚いた太宰。
怒りの矛先はもちろん当の本人に向けられ、長い間怒鳴り声が響いていたという。
結局脱走する事もできず、疲れ切ってその日を終えた王は、後宮へ向かって足を進めていた。
何故視察に行かなかったのか、理由を聞くためである。
しかし、後宮のどこにも小司徒の姿はなく、地官府に問うと、現在宮城を離れているとの返答が返ってきた。
「どこに行ったのか…」
そう問いたげな瞳が空を迷い、書面に戻って溜息となった。
「何をやったんだ?」
宮道を歩きながら問う帷湍。
成笙もまた頷いて問いたげな視線を投げている。
「特別これと言った事は何も。ただと話をしていただけですよ」
「?は禁軍の中軍旅帥二人と視察に向かったはずだが」
「わたしの許にいるですよ」
「は?」
「ああ、なるほど」
納得した帷湍が成笙に向き直り、笑いを含んだ目を向けて説明する。
朱衡宅にいる人物は、元の名を華瑟と言った。
しかし本人がその名を忌み、小司徒に請うてその名を頂戴した。
それを利用したと言うわけである。
その日玄英宮では、珍しくにこやかに微笑む、三人の卿伯を見ることが出来たという。
小司徒のが宮城に戻ったのは、それから二日後のことだった。
「」
厩を出て二人の旅帥に礼を言った所で、呼び止める声があった。
酷く不機嫌である。
何事かと振り返ると、そこには王の姿があった。
「尚隆さま」
不機嫌な声に気が付かないのか、にこりと微笑むと主の前に進み、簡単に視察のを報告をした。
「すぐに大司徒にも奏上せねばなりません。これにて失礼を」
丁寧に礼をするとすぐにその場を去ってしまった。
あまりの笑顔に何も言うことが出来ず、ただ見送るしかなかった。
しかし…
「いたぞ!厩が近い!!逃がすな!!!!!!!」
轟いた天官長の咆吼に慌てるも、すでに成す統べなく、あえなく捕らえられてしまった。
その日の夜。
訪ねてきた不機嫌な顔を、不思議そうに眺める小司徒の姿があった。
「いかがなされましたか?」
「いや」
「あまりお顔色がよくありませんが、昨夜は眠っておられないのでしょうか?」
眠っていないと言うのは正しくないが快眠ではない。
朝議の為に早くから起こされて出席し、御璽を持って一日を終える。
近頃特に真面目にこなしていた。
それもこれもがそろそろ視察に行くと踏んでいたからだ。
向かう先も尚隆が行きたい場所と一致していた。
帰りに寄りたい所もあったと言うのに…
「心配で夜も眠れなんだ」
少し剣呑とした空気をはらませて言うが、はそれに気付かないようだった。
「では、今宵は早くお休み下さい。眠れないようでしたら、子守歌でも唄ってさしあげますが」
「子守歌?」
「ええ。蓬莱のですが」
少し憂いを含んだ瞳が瞬きもせずに続ける。
「私の母が…よく若様にお聞かせしていたものですわ」
周防にあった大きな屋形。
仕えた主は、もうこの世の何処にも存在しない。
が流されて五十年以上が経過しているのだから、戦火を逃れたとしても生きてはいない。
だが心に残った傷は未だ完全に癒えておらず、微かな痛みを伴って唐突に現れる。
「」
尚隆の手が肩を覆う。
そのまま引き寄せられると、強く抱きしめられた。
その度に、傷は癒されてきたのだ。
今までも、これからも。
「尚隆さま」
小さく呟くと頬を埋める。
窓から流れてくる潮の匂いは、雁にいることを妙に実感させる。
この国に流されて来たことが、よかったと思えるようになっていた。
「」
呼べば胸元から返ってくる柔らかい声。
「はい」
腰に廻された腕に力が入り、体を反らすようにしての顔を覗き込む尚隆。
「地官の合議はいつになった」
「本日でしたわ。合議にあわせて帰って参ったのです」
「そうか」
そう言うと、再び胸元へを引き寄せる。
静かな波音が二人を包み、耳に優しく響いていた。
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