「小司徒、そろそろでしょうか」「はい。元州も近頃は整って参りました。こうして眺めていると、昔が嘘のようでございますね」「地官の方々が一丸となって取り組んでいる成果でございましょう」「いいえ。国と民が一丸となって取り組んでいるからですわ。夏官の方々にも多くの協力を賜っております」の言葉に、少し照れた顔の旅帥が二名、空の上で笑った。 目的地へついた三名は、地に降り立ってしばらく、声を発することが出来なかった。目前に驚くべき存在が立っていたからだ。「遅かったな」楽士を従えた王が不敵な笑みを浮かべて立っている。「しゅ、主上!」旅帥の一人が叫んで、ようやく各々が動き出す。「さん」「さま」「どうしてこのような所に?」「主上に連れてきて頂いたのです」「大宗伯が心配なさっておいででしょう」「たまには良いのです。元より反対でした。騙すような事に協力させた罰が当たったのですわ」楽士のは、どこかで開き直ったらしい。面白そうな顔をしてそれを見ている主に、小司徒のはちらりと視線を投げ、楽士に向かって言った。「大宗伯がそれを余儀なくされるお気持ちを、どうぞ酌んで差し上げて下さい。主上がこうやって抜け出しておしまいになるからこそ、信頼出来る貴女に協力を願ったのです」「あ…そのような事情があったのですね」「ええ、それなのに…大宗伯が大事になさっているお方を、こんな遠くにまで連れてくるとは…」「なに、外を見たいだろうと思ったのでな。宮城に閉じこもってばかりいては、気が滅入ってしまうだろう」「それは主上と台輔だけですわ。ご一緒になさいますな」すでに旅帥達は口を挟む余地もなく、ただ見守るしかなかった。その心情は落ち着かぬものであったが。「主上、すぐにお戻り下さい。さんを連れて」「仕方がない」ふぅっと大きな溜息をついて見せ、尚隆は踵を返した。一人でたまに騎乗し手綱を引く。直後、まっすぐを…小司徒のを攫い上げて宙で止まった。「きちんと警護して戻れよ、を」「主上!」隣と下から、窘めるような声があがったが、それらを無視して方向を転換した。 「すぐにを連れて行けと言わなかったか」空の上で快活な声がそう言った。もちろんが言ったのは自分の事ではなく、楽士のの事だったのだが…。「…尚隆さま。今回ばかりは覚悟なさいませ。大宗伯がどれだけあの方を大事になさっているか、ご存じないのですか」しかし尚隆はただ笑っただけで、それには何も答えない。変わりにを引き寄せて口付け、胸元に頭を抱え込んで空行を続けた。 しばらくすると、いつかの台地が見え始めた。降りたってしばらく、尚隆はぽつりと呟く。「いっそここを周防と名付けてしまおうか」冗談めいたその言に、はくすりと笑って答える。「では近隣に長門や石見も必要ですわね」「では出雲も作らねば。神々が集う所がないからな。ああ、筑前、豊前、安芸も必要か」笑って続けた尚隆だが、ふと見た隣のは、すでに笑っていなかった。「いいえ。ここは雁州国でございます。周防も筑前もいりませぬ。もちろん出雲も…。神なら玄英宮におられます。今は私の目前ですが」「そうか…」「蓬莱は遠い夢の国です。周防も出雲も夢の中。でも、小松は違います。ここに広大な大地として存在する。尚隆さまの子が未来を育み、実り豊かに年を重ねる。その為に私が存在しているのです」尚隆の手がの肩に置かれる。しっかりと包むように置かれた手が熱い。「ですから主上。休憩を終えたら視察に参りませんと」「敵わんな…」「それは…私がいつも思っている事ですわ」手は肩を包むだけでは余るようだった。そのままを引き寄せると、固く腕の中に閉じこめる。緑野の輝きが二人を包むように。 尚隆は広がる光の野に寝ころんでいた。の膝を枕にして、そよぐような風に揺れる髪をそのままに瞳を閉じる。潮の匂いはない。遠くにその輝きを見つける事は出来るが、今は視界から消えている。瞳を開けると、愛しい相貌と供に、低い山々が視界にある。周防はこのような所が多く存在したのだろうかと、そのような事を考えていた。再び瞳を閉じると、解放されたような気持ちにさせる。そのまましばらく時が流れた。 遠き眠る草達に 語る三日月微笑んで愛しき我が子は眠りける桂の影に隠された 小さな我が家を映すものおねむりなさい石楠花(しゃくなげ)と おねむりなさい鶯(うぐいす)と茜の空が見えるまで 風も草木も眠りける 初めて聞いたの歌声。柔らかい笛の音色と同じような歌声だった。「子守歌…か」薄く目を開けると、斜陽が視界の端に見えていた。「…起きてらしたのですか」「懐かしい旋律だな。母君が唄っていたと言うやつか」「ええ。若さまのために。私もよく真似て唄ったものでした」「、焦らなくても良い」「え…?」突然言われた事に、は目を二、三度しばたいた。すると尚隆の手がの頬を包む。やがて優しい声が教えた。「周防を忘れようとしなくても良い。俺も小松を忘れないだろう。これから三百年経とうが、四百年が過ぎようが、忘れることはない。雁は確かに俺の国だが、小松で失ったものは二度と戻ってこない」だからこそ記憶という形で留めておくのだ、己の中に。「の仕えた君主も、見守っていきたかった若も、無理に忘れる必要はない」「でも…それでは尚隆さまに…」「すまないなどと、思ってくれるな」頬を包んでいる手に、の両手が被さる。胸元に引き寄せる動作と供に、微かな震えが伝わってきた。尚隆は起き上がって腕をまわす。いつになったら、二人の傷は癒えるのだろう。このまま一生癒えないのではないかという気さえする。それでも、供に歩むと決めたのだから、大丈夫だと信じている。「尚隆さま」濡れた瞳が尚隆を見つめる。かつてこれほど愛しいと思う者が存在しただろうか。「大丈夫だ。忘れずとも、いつかその傷は癒える」己に言い聞かせたものか、に言い聞かせたものか。どちらともつかぬ言に、は頷いて瞳を閉じた。尚隆はその頬を伝う涙を拭いながら、口付けを落とす。何度も何度も…遠くの青海に、陽が落ちようとしていた。
完
『月の花』を書こうと考えていた時、当初のヒロイン設定は『敵』でした。
つまり、瀬戸内水軍、村上側の人間を書こうと思っていたのです。
それが何故『大内家』に代わったのだろうか。
それはきっと家紋にあります。
いえ、特に意味はないんですけどね。単に好きだったっていうだけ☆
でも、『敵』であれば話の内容は変わっていたでしょうし、
これほどまでの長い話しにはなってなかったでしょうね、きっと。
美耶子