朱色の罠
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玄英宮の春官府が一室。そこでは、ぼんやりと外を眺めていた。
雲海がさざなみ、小さな音を立てて耳を擽る。
「まだ来られないのかしら……」
春官であるは、春官長大宗伯に呼び出されていた。
大きな祭事もないこの時期に、何故呼び出されたのか検討もつかないまま、はじっと座っていた。今朝は朝議もないはずだし、何事かあったのではないのかと訝ったが、考えても判るはずなく、ただ待つのにもそろそろ疲れてきた。
女官に言われ、ここに着いてからもう随分と時間が経過していた。
大きな溜め息をつき、丸めた背中を少し起こす。
座っているのにも疲れているというのに……
そう思った矢先に、やっと待っていた人物が来た。
手に抱えきれないほどの書類を、落としそうになりながら辛うじて持っている。
「おや、。こんな所で何をしているのです?」
書類の山から顔を出しながらそう言われたは、しばし唖然とした。
「何をって……私をお呼びになられたのは、大宗伯ではございませんか」
憤慨しながらも口調を落ち着けて言った。すると朱衡は怪訝な目を向けて言う。
「私は呼んでいませんが?」
「え?だって……先程女官が……」
「あぁ、御史と間違えたのでしょう。来ないと思ったら……」
そう言うと房室の中央まで進み、手に抱えた書類を大きな音と供に置く。
「それは……?」
「あまりにも多いので、御史に手伝ってもらおうと思ったのですけど……女官に任せて紛失してはいけないのでね。御史が来ないものですから、自ら運ぶよりなかったのです」
溜め息混じりに言う朱衡は、書類の山をみて、さらにそれを深くした。
運ぶのも大変だっただろうが、これをこなさなければならないとは……
「何故こんなに多いのです?さほど大きな行事はなかったように思うのですが」
朱衡はに目を向け、笑みを作って言った。
「それはもちろん、主上のお仕事がこちらに流れてくるからですよ。もうかれこれ五日ほど、お姿を拝見していない」
またか。
はそう思ったが、辛うじて口には出さずに留めた。その変わりに、
「御史でなければお手伝いは出来ませんか?」 と問うた。
「御史でなくとも構いませんが……手伝って頂けるのですか?」
「大宗伯の補佐よりも、大切なお仕事が春官府にございますか?」
それを受けて朱衡は優雅に微笑んだ。
「ではありがたく手腕をお借りいたします」
「僭越ながら」
そう言って二人で書類の山に向かった。
書類を捲るたびに、これは春官の仕事ではない、と言う物がたくさん目に付く。
「これは王が目を通して決裁しなければ……」
「ああ、そういった物はこちらに分けて置いて下さい」
手際よく書類を分類していく。ここで賄える物は決裁をして提出する。
「ふう……」
作業を開始して、もうどれぐらいの時間が経過しただろうか。
もちろん御史は一向に姿を現さない。本当にすっかりと取り違えたのだろう。
しかし、さすがに溜め息が漏れる。
は仕事が速い。それは自他共に認めるはずだと言うのに、目前の書類はまだ半分も終わっていない。これはどういう事だと、思わずにはいれない。
「少し休憩をしましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です」
しまったと思い、慌てて書類に向き直すを、朱衡はふっと笑んで言った。
「わたしが疲れたのですよ。一緒に休息をとりましょう」
そう言って筆を置いた朱衡に感謝しつつ、は立ち上がった。
「お茶でも用意いたしますわ」
「そうですね。でも夕餉にしては如何です?」
そう言われて、もうその様な時間なのだと気がつく。
朱衡は女官に命じて、ここに運ぶよう手配した。
「監禁されているみたいですね。夕餉が終わったら、はもう下がってもいいですよ」
腰をかけながら言う朱衡に、は首を振った。
「特に急ぐ仕事も用事も御座いませんし、こうなったら最後まで大宗伯にお付き合い致しますわ」
朱衡は満足気な微笑をに向けた。
その笑顔に、は慌てて目を逸らした。
(大宗伯は、あのような笑顔を見せる事もあるのね)
一瞬高鳴った心音に驚き、は俯いて自分の手を見つめた。
目のやり場に困ってしまうなど、まだまだ子童だなと苦笑する。
「失礼いたします」
夕餉の用意のため、入ってきた女官を確認し、思わず胸を撫で下ろす。
「そう言えば、初めてですね」
そう言われて、再びは顔を上げる。
何が初めてだと言うのかを、問いたげな視線を向け、朱衡の口が開くのを待った。
「こうして、一緒に夕餉を食べることもですが、これほど長い時間、供に政務に勤しんだのは初めてのように思えますね」
そう言われては過去を振り返り、大きく頷いた。
「大宗伯は忙しくていらっしゃいますから。なかなか春官正庁にお戻りになられませんし、官邸にもお帰りではないように思われます」
「そうですね」
そう言って朱衡はじっとを見た。
はそれに気がつかず、湯菜を食べていた。
「忙しい男は、お嫌いですか?」
「え?」
思わず湯菜を取り落としそうになりながら、は突然言われた事を頭の中で反復した。忙しい男は嫌いかと訊ねられた。
「いえ、少し気になったものですから」
何が気になったのか、は判らなかったが、すぐに何か答えなければと焦り、頭に浮かんだ文字をそのまま音にした。
「いいえ。嫌いではありませんが、もし好きな方が忙しいのであれば、少し寂しいかもしれません。その方が私のお手伝い出来ない所で、大変な思いをしていたら、と言う意味でですが」
「では、お手伝い出来るなら、寂しくはないのですか?」
「それは……はい。お手伝いをしていれば、身近にいる訳ですし……」
「離れて手伝う、と言う事もありますよ」
「そうですわね。でもやはり、好きな方のお役に立っているのだと思うと、それだけで身近に感じる物ではございませんか?」
「なるほど。は大人ですね」
そう言われては少し赤くなった。
「そう……でしょうか?」
ええ、と言って朱衡は再び箸を動かす。夕餉を終えて、再び作業を開始した二人は、黙々と書類を減らせていった。灯りを灯さなければ、何も見えなくなってもまだ、書類の山は残っている。夜も更け、宮も静かになった。
それでも紙の擦れる音が、ここでは鳴り止まない。
「」
朱衡に呼ばれて、は顔を上げる。
「後はわたしがやっておきますから、貴女はもう休みなさい」
「いえ、大丈夫です」
「構いませんから」
少し強く言われて、は気がついた。
ひょっとして、邪魔をしていたのではないだろうか?
もちろんこれまでは、役に立っているのだろうが、ここからは一人の方が集中できるのかもしれない。そう思い、は朱衡に問うた。
「ひょっとして、私はお邪魔でしたか?」
俯いて筆を走らせていた朱衡は、手を止めて顔を上げた。
その顔は少し怪訝そうな表情をしており、の不安をますます煽る。
「邪魔な訳ないでしょう。のお陰で、随分と早く終わりそうですよ。でも、貴女はもう疲れているでしょう。後は構いませんから、お休みになって下さい」
「も、もし、お邪魔でないのなら、もう少し手伝わせて頂けませんか?折角ここまで進んだのですもの……その、もしよろしければ、ですが……」
朱衡は溜め息を漏らし、
「ありがとうございます。では、引き続きお願い致します」
と言って再び俯いた。その様子に、を不安が襲った。
気遣わせたのではないだろうか。
そう思うと落ち着きを取り戻すのに、少し時間がかかった。
しかし、まだ積まれている書類に目を向け、気合を入れなおす。
もう少しだけ、一緒に居たいと思った気持ちに、そっと蓋をして。
そして最後の一枚が終わった時、空は白み始めていた。
「お疲れ様です」
そう言われて、力なく朱衡を見ると、やはり疲れている顔と目があった。
「助かりましたよ」
そう言われて、はほうっと長い溜め息を落とした。
よかった、という思いだけが心を占領し、脱力感が体を襲う。
「さあ、お茶をどうぞ」
いつの間に用意したのか、朱衡は茶器をの目前に運んで来た。
「ありがとうございます」
そう言って一口飲むと、じわっと喉から熱いものが体に広がった。
「朝議に間に合わないかと思いましたよ。でも、お陰で間に合いました。助かりましよ、」
軽く息をついた朱衡に少し安堵して、もう一口飲む。
は役に立てた事を嬉しく思い、こんなにも長い時間を過ごした事に喜びを感じていた。朱衡は空気を入れ替えようと言って、立ちあがる。
朝のひんやりした空気は、萎えた頭をすっきりさせて、これから朝議に向かう朱衡は、大きく深呼吸した。しばらく朝靄のかかった雲海を見やって、朱衡はのほうに振り返った。は茶杯を手にしたまま、うつらうつらと首を動かしていた。そっと近付き、手から茶杯を取る。
それが合図だったかのように、かくんと首がうな垂れ、が深く眠りに落ちた事を朱衡に知らせた。
くすり、と笑い、そっとの瞼にかかる髪を寄せる。
さらり、と指をすり抜けていく髪を弄び、目を覚まさないのを確認すると、そっと抱え上げた。
「お疲れ様でした」
の頬に、自らの頬を寄せてそう言った。
満足気な寝顔がそれに答える事はなかったかが、朱衡は構わずに房室を後にした。