ドリーム小説
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朱色の罠 =2=
昼前に目が覚めたは、自分が何処にいるのか理解できないでいた。
すると控えていた女官が来て、今日は一日休むようにと大宗伯の言を告げた。
ここはどこかと問えば、大宗伯の官邸だと言われ、はぎょっとして、体を反らせた。朝餉を兼ねた昼餉を出され、遠慮しつつもそれを食べ終わった頃、朱衡は官邸に戻ってきた。
は慌てて朱衡の元に跪いて言った。
「大宗伯。とんだ失礼をお許し下さい」
そう言ったを、朱衡は不思議そうな声で言った。
「何かしたのですか?を運んだのはわたしの勝手ですよ。迷惑とは思ったのですが、女性の居院に明け方送り届けるのは、どうかと思ったものですから」
「迷惑だなんて……そのような。眠ってしまった私が悪いのでございますわ」
「明け方まで手伝わせたのだから、それも仕方がないでしょう」
「ですが……」
さらに言い募ろうとするの肩に手をかけ、朱衡はの体を起こす。
「それよりも、今日は一日休みなさいと言っておいて、申し訳ありませんが、もう少しだけ、お手伝いをして頂いて構いませんか?」
「は、はい!喜んで」
それを確認してなのか、満面の笑みを見せた朱衡は、を促して自室に向かった。春官庁に行くのとばかり思っていたは、自室に向かう朱衡に黙って従いながら、少し心配になった。朱衡はまだ一睡もしていないはずだ。
自室に向かっていると言うのは、もう移動する元気がない、という事なのではないだろうか?
「あの、大宗伯?」
「はい」
「お体のほうは大丈夫ですか?まだ寝ておられていないのでしょう?」
「ええ、まあ大丈夫です」
の心配を他所に、朱衡は歩みを弱めない。
自室に着いた朱衡は書類八〜九枚を取り出し、それをに見せて意見を聞いた。は頭を捻って考え、朱衡と論議を交わしながら一枚一枚片付けていく。
最後の一枚を残して、休憩を挟む事になり、二人は同時に深い息を吐いた。
「本当にありがとうございました。のお陰で、残るところ後一枚ですよ」
そう言われては頬を染めた。
「いえ、そんな……お役に立てて良かったですわ……」
恥ずかしさから立ち上がり、それからどうしようかと思ったが、朱衡の顔を見る勇気がなく、そのまま窓に向かった。
時間はあっと言う間に過ぎており、外は黄昏が下りていた。
「もうこんな時間……」
一人呟いた言葉に、答える声がして、は振り返った。
「本当に、時間はあっと言う間に過ぎていきますね……」
朱衡は長い時を生きている。それでもその様に感じるのだと、は思った。
「お休みになられなくて、大丈夫ですか?」
朱衡は微笑みながら、小さく頷いた。
「実を言うと、動くのが億劫なんです」
は笑いながら女官を呼び、朱衡を臥室に連れて行った。
「待っておりますから、一眠りして下さいませ」
臥室に着いて来て、そう言ったに、朱衡は苦笑しながら言った。
「こんなに長い間わたしが独占してしまって。の好きな人に怒られてしまいますね」
驚いたは慌ててそれを否定した。
「好きな人など、おりませんよ」
「帰りを待っている方もおられないのですか?」
「ええ。……寂しい女でしょうか?」
「そんな事はありませんよ。むしろ喜ばしい事です」
言われた意味が判らずに、はしばし呆然としていた。
「ああ、わたしにとっては、ですが」
え、っと小さく言って絶句したに、朱衡は微笑を向けて言った。
「ご迷惑でしたか?」
「い、いえ……と、と、とんでも、ございません。ですが……その」
しどろもどろになるのを止められずに、は朱衡を見ながら言った。
「か、勘違いでしたら、とても申し訳ないのですが、その……それは……」
「わたしがを好いていると言う事です」
さらりと言われて、は再び絶句した。
「やはり、ご迷惑そうですね」
少し悲しげに言った朱衡に、は慌てて顔を向けた。
「違います!迷惑だなんて……私も、大宗伯とお仕事ができて、と、とても嬉しく思っておりました……」
はたまらなくなって、朱衡に背を向けた。
恥ずかしくて顔が火照っているが、それを悟られるのは、もっと恥ずかしい気がしていたからだった。
「大宗伯として、ですか……」
呟いた声はに届かず、ふうっと溜息をついた音だけが聞こええ、次いで朱衡が遠ざかる足跡が聞こえた。
「だ、大宗伯が、あのような笑顔を向けるからいけないのですわ……」
朱衡に聞かれないように、は小さくそう呟いた。
「私の顔が、どうかされましたか?」
しかし、遠ざかったはずの朱衡の声が、すぐ間近で聞こえ、は心臓が縮み上がったのを感じた。
「だ、大宗伯!」
驚いて振り返ると、いつもと変わらぬ笑顔があった。
「その笑顔は、卑怯です」
俯きながら、辛うじてそう言ったを、朱衡はただ見つめていた。
「どの笑顔ですか?」
悪戯心に火がつき、聞き返してみるが、からの返答はない。
ただ顔が赤いであろう事は判った。
「、顔を上げてください」
「だ、駄目です。いけません!今は無理です」
くすり、と笑う音が聞こえた。
「たくさん言っても無駄ですよ」
その直後、の顎を掬う指があった。軽く持ち上げられて、相変わらず微笑んだままの朱衡と目が合う。ゆっくりと朱衡の顔が近付いてきて、額に唇が触れる。そして、優しく抱擁される。
「大宗伯……」
「恋仲になっても、名を……呼んではくれませんか?」
「しゅ……朱衡……様」
「出来れば敬称など欲しくはないのですが……私のように呼んでもらえませんか?」
の名を呼ぶ声は、いつもと違って聞こえ、不思議な感覚が身を包む。
胸が締め付けられるような感覚はすでに失われ、絡められた指に知らず力が入る。
朱衡は牀にを引っ張っていき、座らせた。
上から屈み、もう一度額に口付ける。
「朱衡さ……少し、眠らなければ……最後にまだ一枚、書類が残っておりますわ」
「ああ、あれはもういいのです。終わっておりますから」
「え?」
終わっていないからこそ、最後の仕上げの前に、休憩を挟んだのではなかっただろうか?
「草案は別に出来ておりますから、あの書類はもう良いのです。ですが、終わったと言うと、は帰ってしまうでしょう?」
それだけ一緒に居たかったのだと言われ、は嬉しく思った。それに、残っていたと思っていた物が、終わっているなら、それに越した事はない。
「では、朱衡。少し寝て下さいませ。ずっと起きてらっしゃいますでしょう?」
「が一緒に寝てくれるのなら」
は驚いて朱衡を見た。添い寝しろと言うのだろうか。
「大人しく寝る保障はないですが……」
赤い顔のまま、は朱衡を睨んだ。
「疲れた顔で何を言っているのですか。大人しく寝てくださいませ」
「押し倒す元気は残っておりますよ」
にこにこと笑顔でとんでもない事を口走った朱衡は、の顔に当てていた手を肩に落とし、ぐっと力を入れた。思いのほか強いその力に、の体は牀に横たわる。赤面の極致に陥ったは、慌てたがどうする事も出来ず、畢竟目を閉じて固まっているしかなかった。
重なるようにして上になった朱衡は、をじっと見つめていた。
動きが無いのを不振に思い、目を開けると朱衡の瞳とぶつかる。
「……」
呟いて、顔が近付く。唇に温かい物が触れ、は再び瞳を閉じた。
溶けるような感覚に苛まれたが、それが至福のように思う。
熱い口付けをかわし、朱衡の体はの横に移動した。
「御史を呼びにやらせた女官に、感謝しなければいけませんね。間違えてくれたお陰で、が私の隣に眠るのだから」
「くすっ。そうですわね。でも、どうして御史と間違えたのかしら?」
不思議そうに言うに、朱衡はあえて何も言わないでいた。
しかし、その沈黙を怪しんだは、朱衡に目を向けて言った。
「ひょっとして……初めから私をお呼びになりましたか?」
「おや、ばれてしまいましたか」
と言うことは、御史を待てども現れるはずはない。
「……計りましたね」
「いいえ、一石二鳥と言うのですよ」
そう言って朱衡は、起き上がったの顔を包み込むように抱きこんだ。
「怒りますか?」
朱衡の懐から顔を上げたは、微笑んで言った。
「いいえ……罠に嵌ったのは私の不覚でした。ですが、それを嬉しいと思っているのですもの。怒る道理が御座いませんわ」
朱衡は極上の笑みでそれに答え、再び唇に触れる。
「、もう離しませんよ。これからはずっと一緒です」
それが実現されたのは、言うまでもない。
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