供にあれ
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「お前、王は好きか?」
唐突に足を止めた男は、にそう問うた。は怪訝そうな視線を、その男に向け、しばし考え込み、首を横に振る。
は御庫の前で、新王に提出するための目録を作成していた。
そこを通りがかる者がいた。
まだ、御物に手をかける者が絶えていない、と思っていたは、慌てて目録を隠す。その者はの目の前で足をとめ、その様子を伺った。
そしてにやりと笑い突然、王は好きかと問われた。
「私は、王は嫌いです」
ここ雁州国は新王登極後まもない。
幽玄の宮だと褒めそやかされる、玄英宮には務めていた。
新王の登極に、玄英宮の輝きはさらに一層、その光を増すように感じた。
しかし、先王の暴挙のせいで、焦土と化した国土を見ては、は溜め息を落とす。王宮にいるからこそ、歴然とした違いが嫌でも目に付く。
食べる物もなく、耕す土地もない民の暮らしを思えば、王宮に仕え、仙である自分は、どれほど恵まれた生活を送っている事だろう。
は先王から司裘を賜っていた。
司裘とは王宮にあって、御庫の管理、王の私物である宝飾品の管理をする役職だった。
先王の時代が終わろうとしていた時には、何度も殺されそうになった。
御物をくすめようとする官の手に、幾度その首を晒すはめになったのか考えると、今生きている方が不思議に思う程だった。
梟王が倒れ、蓬山に延果がなった時には、どれだけ嬉しかったことか。
しかし新王が立つまでの間、先王の残した酷吏から、御物を守らねばならなかった。
信用できる人物も少なく、不眠不休で御庫の前を堅めて来た日々を思い出す。
だが、蓬山の麒麟は王を選べず、そのまま斃れてしまった。
開闢以来八度目の大凶事なのだと言う。
後どれほど続くというのだろう。日に日に土地は枯れいくが、御物を盗もうとする者も後をたたなかった。
ある時は数人に脅され、ある時は涙ながらの芝居を興じる者もいた。
は辛抱強く待つしかなかった。
しかしその記憶ですら、折山の地に住まう民の苦悩を考えれば、何の事はないとは思う。
大凶事のせいで、荒廃はますます色を濃くし、妖魔が徘徊することも困難を極める程に土地はやせ衰えた。
その土地に生き残った人々の、生気のない顔。王が民に施したもの。
それがこの一面の焦土。
新王が登極し、玄英宮に主が到着した瞬間、涙を流して喜んだ。
しかし、王は好きかと問われると、嫌いと答えてしまったのだ。
「何故王が嫌いなんだ?」
「王は国を荒らすから。民を苦しめるから」
新王に期待を込め、それを喜んだ。
これで雁は救われる。焦土は緑土へと変わるのだ。
そう思っていた。
しかし、死んだ民は生き返らない。
死んだ土地が息を吹き返すのに、何十年かかることだろう。
民の暮らしはいっかな良くならない。
気の遠くなるような時間がかかる。
そんな事は判っている。
頭では理解しているし、新王のせいではない。
だが、の脳裏にはやせ衰えた土を握り締め、嘆く民の姿が離れない。
それを民に与えたのは王だ。
その王を、好きかと問われれば、好きではない、としか答えようがなかった。
「そうか、お前は麒麟のような事を言うのだな」
「そうでしょうか?貴方は街に下りた事がないの?瓦礫ばかりの田畑、焼け落ちた里。弔いの唄とすすり泣く音。妖魔すら飢え、死に絶える土地…王が道を踏み外せば、国はあっという間に傾く。王が道を踏み外す時に、仁道はない。民は飢え、土地は干上がる。今、宮中は新王のおかげで明るいけれど、それを思うととても手放しに喜べない。こうして話しをしている瞬間にも、誰かが下界で死んでいる…」
「それでは、新王は何を一番先にすればいいのだ?」
目の前にいる、見たことのない官吏。一体何処に所属している官吏だろうか。
着ている物からして、下官ではないだろうが。
「私腹を肥やしている官吏を取り締まり、私財を取り上げるべきです…と言いたい所だけど…」
「だけど?」
「それよりもまず、一人でも多くの民に、生きてもらわなければ…土地を耕す民の数が圧倒的に少ない。酷官の一人でも、命は惜しい。それぐらい、今の雁には民がいない」
「なるほどな。それなら、この中に入っている物を売れば、少しは足しになるんじゃないのか?」
その男の変に真面目な顔に、は久し振りに声を上げて笑った。
「御物は王の私物よ。それをどうするかは、王次第だけど、普通は売ったりしないわね。国の威儀にも関わる事だし、登極まもない王にそれが断行できるとは、とても思えないわ」
そうか、と男も笑む。
「玉座にも大きな宝石が付いていてな、屋根が全部翡翠なんて宮もあるだろう?それらを解体して売ってしまえば、少しは民の足しになるんじゃないかと、思ったのだがな」
どこまでふざけた官なのだ、とは思ったが、それにも丁寧に答える。
「玄英宮は、初代の王が天帝から授かった物だから、手を加える程度の事は、今までだってあったけど、壊したりしてはいけないのよ」
「そんな事を言っている場合ではないだろう?」
「それは…そうだけど…。ねえ、貴方何処に所属している官なの?御物に手をつけようって言うのなら、容赦しないわよ。たとえ、この身が朽ちようとも、私は決してここから動かないから」
鋭く眼差しを変えてそう言ったに、男はふっと笑う。
「そうか、お前が司裘のだな」
「あら、私も少しは有名になったのかしら?だったらどうしようって言うの?」
は身構えて、御庫の前に陣取った。
「まあ、そう構えるな。何もしはせんよ」
両手を挙げ笑う男を、はますます睨みながら言った。
「そう言って善人面して近付いてきて、御庫に進入しようとした者は今まで何人もいたもの。それが今だかつて、誰にも御物を盗まれていないのが、何故なのか判るのなら、そのままここを去る事ね」
が睨みながら言ったのに対し、男は面白そうな表情に変わる。
「ほう。何故誰にも進入できなかったのだ?剣に長けているようには、あまり見えないのだが」
「身分も明かせない人に、それを言うとでも思っているの?」
そうか、と男は改まり、姿勢を正した。
「俺は“こまつ なおたか”と言う。何処の官にも所属していない」
「所属していない?奄って事?それにしてはいい物を着て…はっ、ひょっとして、盗賊!?」
は背を御庫に押し付けるようにして立ちなおした。
男は後ろに顔を反らし、大きく笑った。
「盗賊ではない」
「じゃあ、何だって言うの!」
「身分を言うなら、神だそうだ。位は王」
走廊に沈黙が降りる。は目の前の男が、何を言ったのか理解出来なかった。
男は笑いを堪えきれず、肩を震わせていた。その様子に、の忍耐が切れた。
「なんなの、貴方!人をからかって楽しいの!?王自ら、自分を好きかだなんて、たかだか司裘に聞くわけないじゃないの!そもそもこんな所をうろうろしてないわ!まだ仕事が残っているんだから、邪魔しないでちょうだい!」
怒りを爆発させたは、顔に血が登るのを感じながら、それでも言わずにはおれなかった。
新王が即位して、酷吏はその息を潜めたが、国庫に掠め取る物が無くなっただけだと、噂では聞いた。
それならば、次に狙われるのは御物だとは思っていた。
でなくては解けない呪をかけてはいるが、それでも一日の大半を御庫の前で過ごす事が多い。
誰かが通るだけで、ピリピリしていると言うのに、からかわれたとあっては、軽くあしらう余裕さえ、今のにはなかったのだ。
「そうか、すまなかった」
それが判ったのか、男は素直に謝ってきた。
「何故私に声を掛けたの。司裘だから?」
「そうだな。司裘の噂を聞き、さぞや豪快な男だろうと思って、顔を見てやろうと来たのだが…司裘がこんなに美女だとは、思わなかったのでな。思わず声をかけてしまった」
それだけを言い残し、その男はその場を去っていった。
後には唖然としただけが、取り残された。
次の日も、は御物の目録の続きを作成していた。
するとまた昨日の男が来て、一言二言会話した後に去って行く。
その次の日も、またその次の日も男はやって来た。
いずれも少しだけ話しては、去って行く。
御庫の中身の話などはせず、世間話のような事しか言ってこない。
しかし、五日目を境に、男はぷっつりと姿を消した。
気を許した訳ではなかったが、本心を言えば安心したような、少し寂しいような感覚に捕われていた。