玄英宮に戻った二人は禁門で別れ、尚隆はが消えるのを待って、再び騎乗した。関弓へと降りていき、馴染みの店へと消えていく。誰かを腕に抱いていないと、自制する自信すらない。弱い者だと思い知らされるようではあったが、どうしようもない感情である事に、目を背けられずにいる。これが後、何年続くと言うのだろうか。だが、自分に置き換えてみると、まだ三十年はそっとしておくべきだろうと思う。三十年以上が経過し、その時、何らかのきっかけがあれば、その心は戦火から解き放たれる。その時までは…ただ見守るしか出来ないのだから。体を預ける見知らぬ女を腕に抱きながら、尚隆はそう考えていた。 光陰矢の如し。三十年以上の年月が流れ、雁州国には秋が到来する。街は増え、民も増えた。緑の山々は深く色付き、黄金の穂が地にたゆとう。そして、王は相変わらずだったし、も相変わらずだった。心に傷を持ったまま、は五十年目をこの地で迎えた。夕刻、が宮道を歩いていると、呼び止める声があった。振り向くと、そこには尚隆が立っている。斜めに射した夕陽に映えたその顔は、の思いを擽っていく。何やら懐かしいような感覚にどきりとしたが、それを表情には出さず、は静かに答える。「主上」軽く礼をしたは、歩み寄ってくる尚隆をその場で待ちながら、心を沈めるよう努めた。「すまぬが、これを冬官府へと持って行ってくれぬか?」巻かれた紙面を渡されたは、快く引き受けて踵を返す。冬官府に着くと、待ち受けていた様で、さっそく作業に取り掛かる匠師達だった。それを見て用事の終ったは、退出しようとしたのだが、何やら引き止められ、もてなされる。茶に茶菓子までつけられ、話しを聞きたいと言われれば断る事など出来ず、それが王の指示とは知らずに、手の空いた者と話しをしていた。しばらくすると、今日中に出来そうだと報告が入る。その場で待つように言われ、何やら分からないままに、話しをしながら時間を潰すこと数刻。出来上がった物を手渡され、それを王に渡してくれと頼まれた。渡された物は、千草色の糸が二本。落としそうだと思い、紙に包んで懐に入れる。引き止められた理由は、これだったのかと理解し、快く引き受けたは再び尚隆を訪ねる。しかし、正寝の自室に王の姿はなく、困ったは仕方なく戻ろうとしていた。最初に尚隆に呼び止められた宮道を歩いていると、射し込んだ月光に目が止まる。「あ…これは…」夕陽に映える尚隆を、どこで見たのだろうかと思ったが、思い違いであった。それは夕陽ではなく、月光だった。尚隆の手を、突き放してしまう直前。五十年も前の光景。「ひょっとすると…」は思い立って庭院へと進む。いつか見た秋桜が、ちらりと垣間見え、はそのまま奥へと進んで行く。やがて現れた小さな堂屋は五十年前のまま、朽ちてもいなければ、整えられてもいなかった。はおずおずと扉に手をかけ、そっと開いていった。中には月の光が溢れており、やはり五十年前と同じ光景が広がっていた。丸い小卓も、椅子もそのまま。小卓の上には杯が二つ。尚隆までもが揃ったその景色。「主上…」ただ一つ違っているの言葉が、堂内に小さく木霊する。だが尚隆は黙って杯を渡す。「今度こそ…御酒でしょうか?」動揺している心を隠しながら、は尚隆にそう聞いたが、ただ笑って返される。まばゆいばかりの月明かりの中、はそれを飲むことが出来ず、ただ尚隆を見ていた。「飲まんのか?」固まっていたは、そう問われて杯に口をつけた。口中に甘い酒の味が広がって、もう一つの違いをに教えた。「お薬湯ではないようですわね。とてもおいしゅうございます」なんとか顔を繕って、笑顔を向けたは、ふいに用件を思い出す。「主上、こちらを」匠師に頼まれた品を取り出し、包んだ紙ごとを渡す。「すまぬな」うけとった尚隆は、紙を開いて中身を確認する。「、手を」手をと言われたは、杯を小卓に置いて腕ごと出した。出した手首に千草色の糸が巻かれ、小さく呟く尚隆の声がする。すると糸は千草の色を消して行き、ついには見えなくなった。手首についている感触はあれど、何も見えない。は手首を何度も確認しながら、触って確かめていた。尚隆は自分の手首にも巻きつけ、その色を再び消した。「主上…これは…?」「呪の糸だな。もし、身に危険が迫れば、躊躇うことなく糸を切れ。この糸は切る意思がなければ、決して切れる事はない。片方が切れると、もう片方も切れるようになっておる。同じ糸を持つ者は切れた音が聞こえる。そして切られた糸は姿を現し、片方の方角を示す」身を案じて作ってくれたのだろう。嬉しく思っただったが、なぜ今になって渡されるのだろうかと疑問に思った。の浚われた謀反から五十年。その間には、乱も謀反も幾度かあれど、が危険に晒される事などなかった。有無を言わさずに取り付けられたのは、何故なんだろうかと思い、は尚隆に答えを求めるかの如く瞳を向ける。「幾度か狙われておったからな。俺の近くにおるのだから、当然と言えば当然なのだが…」「幾度か…?私がでございますか?」「そうだ。先手を打って今まで回避してきたんだが…冬官に言って、これを開発させようと言ったのは帷湍だったかな」「何故もう片方が主上なのです?」「俺が一番早くにを発見出来るからだ」「一番早くに?それは…」「愛があるからな」にっと笑って言う尚隆を、月光が取り巻いていた。眩しく思ったは俯いて目を逸らす。今は色の消えた糸を指で確認して、やり過ごそうとしていた。「ああ、それから…」尚隆は杯を置いて窓際へと移動する。窓の外を眺めている尚隆は、続きを言わない。何か迷っているのだろうか。我知らず、尚隆の方に足が進んでいたは、すぐ目前まで来てようやく気がついた。しかし、その足を止めた時には、かなりの至近距離であった。月光から逃れた二人は、窓の外に見えている白い秋桜に目を向けている。時が穏やかに流れていき、金色の夜は静かに深まっていった。しばらく黙ったままでいただったが、尚隆に言いかけた言葉の続きを問う。「いかがなされたのですか?」「昨日六太が帰ってきた」「台輔が?どこかへ行ってらしたのですか?」「蓬莱に行っていた。様子を見にな…」「蓬莱…」尚隆を見る瞳は、不安と驚きを露に映していた。「戦乱の世は…終ったのだそうだ。蓬莱は一人の君主によって統一され、泰平の世となって歩み始めたのだそうだ」目を見張るの瞳には不安が消え、ただ驚きだけになっていた。手がゆっくりと口元に当てられ、瞳はうっすらと潤みをおび始める。「泰平の世に…なったの、ですね…」尚隆がそれに頷くと、は崩れ落ちるようにして伏せる。ただ声を押し殺して、肩を震わせていた。跪いた尚隆はの肩に手を置き、静かに染みる声で言う。「声を殺す必要は無い。誰も聞いてはおらぬ」涙に濡れたまま顔を上げると、尚隆の瞳はすぐ目前にあった。すべてを見透かすようなその瞳に、すがるように腕を伸ばしたは、尚隆の首元に顔を埋めて、時折声を漏らしながら泣いた。あやす様に背を撫でていた尚隆は、の髪に手を伸ばし、指を絡めて埋める。小さな頭を抱え、その手をそっと離した。そのまま降ろされた腕は、震える体を包み込んでいた。「幸せになっても、良いのだぞ」まだ涙を溢れさせながら、は尚隆を見上げていた。「本当に…?私は、幸せになっても…?」「ああ」「でも…私は五十年前…」「そんな昔の事は忘れたな。今も変わらぬ気持ちがここにあるだけだ」頬を大きな手が包む。そっと瞳を閉じれば、こぼれる月光。尚隆は静かに口付けて、その体を再び引き寄せた。しっかりと抱きしめた体は、再び小さく震えている。今も昔も変わらずそこにある大切な者。この手を掠めて消えてしまいそうな存在。「尚隆さま…」戻ってきた呼び名に、尚隆は薄く微笑む。「長い間…お待たせいたしました」秘めた思いは月の影で開花する。雁は豊かに歩みを進めている。著しく発展を遂げ、民は豊かになりつつあった。蓬莱もまた、同じように富んで行くのだろう。確認する術は無いが、やっとそう信じる事が出来た。いずれにしても、もう長い年月が過ぎていったのだ。小さかった若も生きていれば、天寿をまっとうしようかと言うほどの歳月が。もう、踏みとどまっている必要などない。顔を上げれば近くにある瞳を、はじっと見つめていた。同じ魂を持つ男は、静かに微笑んだまま心の距離を縮めていく。五十年間に降り積もった思いを、融かして行くような口付けを何度も落とし、その腕の中の存在を確かめた。今はこんなに間近にあるものが、果てしなく遠かった。遠く儚い幽玄のように、現れては消える残像。亡国の思いを抱いたまま、傷を修復する術を持たぬ心。だが、それも終わりを告げたのだ。腕に抱いても、もう逃げないのだから。ゆっくりと癒していけばいい。もう一度口付けた尚隆の腕の中で、散り行く命に瞑目したは、瞳に映した顔に微笑んで答えた。腰と首の後ろに添えられた手は、優しく力強い。歩き出せるのは、この包む腕があるから。前に進めるのは、この愛しい瞳があるから。互いの思いを胸に、二つの影は寄り添う。作り出された影の中で、月がその姿を消すまでずっと寄り添っていた。胸に抱いたものを噛み締めながら。
完
ひとまずは完結です。
ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
お疲れさまでした。
でも、まだ続きます。
次作、千草の糸はここから数刻後のお話。
多少際どい表現(境界線が微妙に分からない私…)が随所に含まれます。
苦手な方はご遠慮頂いた方が良いかと思われますので、あしからず。
美耶子