「不思議…」 泣きやんだの肩を抱いたまま、利広は瞬きのなくなった海を見ていた。まだ潤いを帯びたままの瞳が、暗くなった海から離れ、利広の顔に向けられる。利広は小さいの声に、顔を横に向けた。「暗くて冷たい海の、こんなにも間近にいて、それでも恐いと思わない。今日のように月が出ていれば、海は穏やかに波打つだけ…」はそう言って、溜まっていた最後の雫を落とした。「夜に海を見た事なんてなかったけど…恐いと思わないのは、利広さんがいるから?」問いかけるに、利広は何も答えなかった。かわりに少し顔を近づける。「利広さ…利広…」月の中で二人の影は重なる。名残惜しい気持ちを抑え、唇を離した利広はに言う。「は…これからどうするつもりかな?」「これからとは…?」「まだ、ここに留まる?」言われてようやく、は気がついた。もう、ここに留まる必要はなかった。母の身につけていた物はすべてと言って良いほど、流れ着いてきたのだ。しかし…「ここでやるべき事は、まだあるのかもしれません。少なくとも、私はすでに国に仕える身ですから…今後の私の要、不要を決めるのは、この国…奏南国なのでしょう」「そうか…それなら、わたしが尋ねて来よう」「また…来てくれるのですか?」「また利広と呼んでくれるのならね」利広はそう言うと、再び口付けて笑う。少し恥じらったは顔を伏せたが、その表情は微笑んでいた。 利広は月を仰ぎながら、宮城へと向かっていた。県城へと戻ったを見送り、そのまま港を発ったのだった。「何もなかったか…」恭での朝、恐らく寝ぼけて引き寄せたのだろう。口付けてみて、それがようやく分かった。その誤解があったから、を気にかけていたのだろうか?それは利広自身にも分からなかったが、再会したのだから良しとしよう。利広は月を見てから、海を見る。自分にとっては、いつもの海。だが、にとっては、母の眠る海。はまだここを離れるべきではない。本人が無意識のうちに、それを望んでいる。「遺品とは、言わなかったな…」はまだ僅かに残る可能性を、信じているのだろう。死んだと自分に言い聞かせているが、それでもまだどこかで期待をしているのだ。可能性を否定されても、絶望がその身を襲おうとしても、なお抗っている。「姉さんの言うとおりかな…。わたしが思っている以上に、気丈な人なのかも知れない」呟いた声はもちろん、誰にも届いていなかった。 それから一ヶ月後、利広は再び港町へと来ていた。夕刻を待って県城を訪ね、が出てくるのを待っていた。利広を見つけたが来たのは、それからすぐのことだった。二人は街を歩き、それに疲れると決まっていたかのように、海沿いに行って座った。暮れる西日に染まる景色の中、は海を見つめていた。利広は肩に手を置いて、同じように海を見つめる。「やっぱり…不思議。何度見てもそう思うの」ぽつりと言ったに、利広の視線が向かう。「赤い色が?」「ええ…とても不思議。いつか…綺麗だと思えるかしら…銀の月が彩った、あの夜、思ったように」「焦らなくてもいい。時間はたくさんあるのだから」頷いたに、利広の唇が重なる。自然に受けたは、しばらくしてから頬を染めた。「利広は、何をしている人かしら」ふと思い、そう問うと利広は笑って言う。「ただの放蕩息子だそうだよ」「色々な国に行くの?」「もちろん」「じゃあ、世界中の海を知っている?」問いたい意味を察したのか、利広は頷いて言った。「内海はの見た三つの他、もう一つある。雁から始まる、青海。それから外側にも海はある。色のないその海は、虚海と言う。海客は虚海から流れ着く。ああ、後、空の上にも海があるね。これは雲海という」「空の上に?海が?」「そう。雲海にも色はないけどね」 「雲海…雲ではなくて、本当に海なのですか?」「そうだよ」驚いた表情のに、利広は静かに問う。「連れていってあげようか?雲海を見に」そう言うと、は嬉しそうに頷いた。「ではいつか…連れていって下さい」「今すぐでもいいけど?」は海を見ながらしばし考える。「明日の朝までに、戻って来る事が出来ますか?」「寝ないでいいなら、なんとかね」「そうですか…今日は無理そうですね」「…言ってくれたら、いつでも連れて行くよ」「ありがとうございます」にこりと微笑んだ顔は、柔らかく利広を照らす。日が影を潜めても、やはり二人はその場に留まっていた。 それからも利広は、定期的とは言えなかったが、に逢いに港町まで来ていた。いつも街を歩き、海を眺めては他愛もないことを語り合う。純愛と呼べるような日々が続いて、一年が過ぎようとしていた。「それで、冬官の中で誰が一番…」いつものように話をしていたは、言いかけた事を止めて利広を見つめた。「利広…どうかしたの?今日は…とても辛そうだけど」その日の利広は、いつもと違い、何か憂鬱そうに見えた。口数もいつもより少ない。「…そうかな?」微笑んで言うその顔が、無理に作っているようだった。「ええ…体調が悪いのかしら」「まさか」「でも…何かあったの?」「いや、何でもないよ…」そう言った利広は、海を見つめて黙ってしまった。もまた海を見つめ、ただ隣でじっとしている。しばらくして、利広はぽつりと言う。「景王が亡くなったらしい」「え?」突然言った利広の言に、は首を傾ける。それで元気がないのだろうか。「禅譲であったそうだよ。台輔が失道していたからね。次の登極までは、幾分か早いだろうけど」「そうですか…また、可哀想な人達が増えますね。でも…慶は確か…」「うん。奏にもたくさん荒民が来ている。女の国外追放だからね。言われた民はたまったもんじゃない」「本当に…でも、空位になってしまうと、またあの国は荒れるのでしょう?私はまだ見た事がないけれど、妖魔や天災が増えてしまう」「そうだね。慶はここ最近、本当に落ち着かない」「そうなの…そこに暮らす人は大変ね。だから心を痛めているの?」「え?」軽く驚いた利広の瞳が、海に目を向けたを追う。しかしは利広を見ずに、海を見つめながら笑う。「利広は優しいから…だから?慶の民を憂いている?それとも、景王を哀れんでいる?」利広も海に視線を映して言う。「わたしは優しくないよ」慶国の民の事を考えれば、可哀想だとは思うが、利広の憂いはそこではない。奏もいつか…、と危惧する心が気分を落とさせる。そんな利広の様子を、はしばらく見つめていたが、ややして思っていた事を伝えた。「そこから先を言ってくれなきゃ、私はいつまでも利広を理解出来ないわ」それはが何度も感じていた事だった。今回が初めてではない。「え?」再び驚いた利広は、海に向けられていた視線をに戻す。「どうして優しくないと思うの?私から見て、利広は優しいのだと思う。それを違うと言うのは何故?」「…」「利広の気持ちを、知りたいと思うのは、いけないこと?」「いけない事はない…だけど…」「言えないのは、六百年も生きているから?」「わたしは六百年生きたとは、一言もいっていないけど?」「違うのなら、違うと言ってくれなきゃ分からないわ。言えない立場に…居るから?」海を見つめながら言うの表情は、もはや笑っていなかった。利広も笑っておらず、そのまま二人は黙ってしまった。波の音だけが、しばらくその場に流れている。しかし、その沈黙をが破った。「話をしていると、利広がどれほど他国を見ているのか分かる。そして、その国の衰退を見守っている事も…だけど、とても辛そうよ…。それが利広のお役目なの?辞めることはできないの?」「辞めるも何も、わたしが好きでやっている事だからね」「でも…」はそれ以上何も言わなかった。だが、利広は胸中に塊が出来ている事に気がついた。何にかは、利広にも分からない。ただそれによって、苛々としていた事は確かだった。そして利広は思ってもいない事を、無意識のまま口に出してしまった。「六百年生きて来たわたしの気持ちなど、には分からないよ」そう言ってしまってから、しまったと思ったが、遅すぎたようだった。海に向けられていたの顔は今、下に向けられている。取り繕う暇もなく、の静かな声が利広に刺さる。「当然だわ…。だって、利広は心を閉ざしているもの。決して本心を見せない。理解されようとしていないもの。分かるはずないわ」驚いた表情で見つめる利広に、はさらに言い募った。「私は利広から見れば、まだほんの僅かしか生きていない。…だけど、六百年も生きてきた利広には、私の考えていることが分かる。表情や仕草から、それを感じ取る事ができるのでしょう?でも、私には分からない。表情は変わらないように見えるし、些細な仕草にも気がつかない。気を付けて見るようにしていても、六百年もの経験の差は、埋めることが出来ないわ。だからこそ、言ってくれなきゃ、何も分からないわ」利広と目を合わせることなく、は続いて言う。「六百年生きることで、そのような弊害を起こしているのなら、あなたに同情するわ。だけどね利広、人はいつだって、どのようにでも変われるのよ。変な矜持さえ捨ててしまえばね」はそう言うと立ち上がり、帰途へつこうと足を出す。「」呼び止められたは、振り返って声の主を見た。「また」片手を挙げて言った利広は無表情だったが、どこか悲しげに見えた。月の光で見るからだろうかとは思い、微笑んでそれに答えた。「気を付けて帰ってね。また…逢いに来てくれる?」そう問うと、利広は淡い月光の中で微笑む。二人はそのまま背を向けて、それぞれの帰途へとついた。
続く
気を許しているからこそ、あたってしまう事もありますね。
実は女性よりも男性の方が、精神的には弱いですよね。
女性は涙を流して、ストレスを解消できる素敵な生き物です。
美耶子