ドリーム小説
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=2= 夜中になって、利広は宮道を歩いていた。
なんとなく眠れなくなり、雲海を眺めようと庭院の中にある、張り出した露台へと進む。
「おや?」
ぼんやりと桃色の影がゆらゆらと見えて、何だろうと立ち止まる。
木陰に隠れながら、枝を少し持ち上げてそちらを見やると、影の正体が判明する。
桃影の正体は、襦裙だった。
桃色の襦裙を纏った者を、利広はつい先ほど知ったばかり。
開かれた扇を上にかざし、優雅に舞うだった。
何処の踊りなのか利広には判らなかったが、幽幻のように舞うそれから、目を離すことが出来なかった。
扇はの眼頭を滑らかに滑り落ち、さらに首元へと落ち、肩を掠めて平行に伸ばされていく。浅葱色の紐が舞い、扇の先についた咲飾りの鈴は、花が散るようだった。腕の伸びた先で、一度閉じられた扇は、胸元に近付くにつれ、少しずつ開花していく。
弱く曲げられた足と腕は秀麗を極め、舞う表情は哀愁を湛えていた。決して激しくないその動きは、雅やかで美しく、圧倒されるほどの世界を作り出している。
がて舞が終わり、は扇を閉じる。
露台に向かい、そっと腰を下ろす。
声をかけるのさえ許されないような空気が消え、世界はやっと元の色を取り戻したようだった。
だが、利広はまだ躊躇していた。
もちろん本人は、誰も居ないと思っての行動だろうし、声をかけて何を話せばいいのだろうかと考える。
ぱきん
しまった、と利広はとっさに思った。
持ち上げていた枝を折ってしまったのだ。もちろん、折ってしまった枝に対して、そう思ったのではない。
気付かれたかと、の方に視線を向ける。
しかし、その視線の先には、何も見つからない。
「おや?」
利広は今見たものが、急激に幻影だったような錯覚に苛まれる。
母の連れてきた女性が気になっていたから、あのような幻影を見たのだろうか?
それともこれ自体、夢なのだろうか?
「このような時間に、どうなさいました?」
ふいに背後から声がかかり、利広は飛び上がるほど驚いた。
実際、飛び上がってはいないが、体内の物すべてが跳ね上がったように感じる。
飛び上がらなかった変わりに、利広は硬直していた。
「あ…驚かれましたか。申し訳ございません」
「い、いや」
なんとか繕って、背後を振り向くと、桃色の襦裙を着たが立っていた。
幻影ではなかった事に安堵して、胸を撫で下ろしたい気持ちが膨らむ。
「とても優雅に舞うので、声をかけずらく、こちらから盗み見ておりました。失礼をお許し下さい」
照れ隠しに、少し気取って言う利広に、はくすり、と笑って言った。
「眠れないのですか?」
「ん、まあ…少しだけね。も?」
「ええ…海を見たくて」
そう言って、露台の方に目を向ける。
「は海が好きなのかな?」
「はい。とても好きです。どの海も美しくて…あの…」
口篭ったに、利広は不思議そうな目を向ける。
「私、紹介はして頂いたのですが、まだよく判っておりませんので、失礼をお許し下さい。明嬉様と文姫様の御名は伺ったのですが…あ、あと先新様も存じておりました。ですが…」
「ああ、そうか。私は利広だよ。兄が利達。宗麟は昭彰と呼んであげて。今の舞を母さんに教えるの?」
「利広様ですね。いいえ、今の所、予定にございませんが…これは私の独学ですし、お教えできるような代物ではございませんわ」
「へえ、独学なんだね。でもとても綺麗だったよ。思わず見とれてしまった」
利広は素直に感想を述べたのだが、は少し赤くなって小さく言った。
「ありがとうございます…でも、本当に大層なものではないのです…」
「いやいや、何か伝わるような物があったよ。少し悲しい感じに思ったけどね」
その言に、はふと表情を曇らせた。
「悲しい…そうですね。斎王を思い出しておりましたから」
本日二度目の思考。 しまった。 「お気付きで…いらっしゃいますね」
は利広の表情を読んで、悲しげに微笑む。
「私がお仕えしておりました斎王は、謚号を遵帝と申します」
「遵帝…」
やはり、と利広は思ったが、それを音にする事はしなかった。
「はい。流されて、各地を放浪していた私を拾って頂いたのです。ですが、お仕えするようになって数年後、範の実状を憂いた王は、王師を範に向かわせてしまいました。ご存知かもしれませんが、そのために王は変死を遂げられました」
の瞳に涙が宿る。
「王師が高岫(こっきょう)を超えてはいけないと、誰が知っていたでしょう…天は、天は人道を持って地を治めよと。ですが、人道に篤い王は、人道によって天に討たれておしまいになった…。私は、天の条理がそのように働くなど…考えもしなかった…」
利広はに近付いて、そっと肩に手を置く。
「も、申し訳、ございません…」
「いや、泣ける時には、泣いたほうがいい…。でも、悔やまない方がいい。世界中の、誰もが知らなかったのだから…それが罪に当たるとは、誰も…」
その言葉に、の心で何かが弾けた。
瓦解するかのように、その場に泣き崩れる。
利広は肩だけをそっと抱き、の涙が止まるのを待った。
やがて少し泣き止んだに、利広は一つ聞いていいか、と訊ねる。
「ひょっとして、は遵帝が身罷った時…」
は驚いて利広を見た。
だが、すぐに頷いて答える。
「お傍に、おりました」
「どのように登避されたのか、人伝えには聞いたが…」
「はい。それは壮絶と言うものを、遥かに凌駕しております」
やがて、まだ涙の残る瞳をそのままに利広へ向け、は語りだす。
「身罷れた時、私は主上に奏上をいたしておりました。今になって思えば、何を申し上げていたのかは、思い出されません。あれは、外殿に出る直前の事でございます。王は音もなく胸元を押さえこみ、階から転落なさったのです。私は驚いて後を追いました。ですが、追いついた時には、もう…。あたりは血の海でした。それでも私は助け起こそうと、お傍に駆け寄りましたが、王の体に触れると海綿のようになってしまわれて、起こした手元を見ると、皮膚から血が滲みでておりました…触れれば触れるだけ、血が噴出し…私の、手は…真っ赤に染まり、主上の血で、赤く…とても赤く…私は、あの光景を、忘れる事が、出来ない…三百年経った、今でも、それを、鮮明に…思い、出すのです」
は言いながら、苦しそうに喉元を押さえている。
利広はその様子を見かねて、に手を伸ばした。
「、すまなかった。もういいから。もう、話さなくていい」
喉を押さえている手を引き離し、それを自らの手に包んだまま、後ろに引いた。
微弱な力に引き寄せられたは、そのまま利広の胸元に頭を預けるような形となる。
人肌の温もりを頬に感じ、収まりかけていた感情に再び火が灯る。
言語にまだ乏しい時に、伝え聞いた南の大国。
豊かな国なら、海客でも仕事があるだろうと向かった。
偶然にも斎王その人に拾い上げられ、小司空にまで昇格した。
王に陰りはなく、また国にも陰りはなかった。
未来は明るく照らし出されていたのだ。
その矢先に起きた変事。
一度に王と麒麟を失った国は、瞬く間に陰りを見せた。
「本当にすまない。軽々しく、聞いて良いことではなかったね」
「いいえ…取り乱して、申し訳ございません。私の涙で、お胸を汚してしまいました…」
「いつでも汚しに来てくれてもいいよ」
屈託のない笑顔を向けられ、はその心配りに感謝した。
だが、涙を拭いその場を去ったは、自室に戻って改めて泣いた。
王宮にあがるのは、範国を出て以来の事だった。
三百年ぶりに上がった王宮は、間違いなく他国ではあったが、どうしても昔の主を思い出させる。
だが、利広に問われるまま話した事によって、少し気持ちが軽くなったのも事実だった。今まで溜まっていた鬱積を、吐き出すきっかけもないまま放浪していた日々を思うと、これで良かったのかもしれないと思う。
遵帝の思い出と、利広の優しさが涙を誘ったのだ。
一通り泣いて、は眠りについた。
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