ドリーム小説
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=4= その日の夜、はいつになく、穏やかな気持ちに満たされていた。
斎王を忘れられずにいたこの三百年を、そっと振り返ってみるが、昨日までの苦しさは薄れていた。
「本当に良い方々だわ」
自らの言った音に、はっとなっては固まる。
『本当に良い方だわ』
昔、呟いた事がある。
それは紛れもなく、遵帝に対して発した音だった。
違う、ここは奏なのよ…
言い聞かせるように、何度も心中で呟いたが、捕われたかのように思い起こされる。
穏やかな気持ちは費え、知らず握り締められた手。
こんな時の対処方法は一つ。
「体を動かせば…」
舞う為に扇を持ち、弔いの心境を胸に、は立ち上がって、自室を出る。
また露台に向かおうと思っていると、前方から歩み寄る人物がいる。
「こんな時間に…?」
そう思って見ていると、それは利達であった。
「このようなお時間まで、ご政務ですか?」
かけられた声に驚き、書面から眼を離してを見る利達。
「ああ、いや、少しだけ残っていたので。明日でも良い事だったのだが…」
「ご苦労様です。お夜食でも、おつくり致しましょうか?」
「いえ、それには…」
及びませんと言いたかったであろう利達の声は、腹の鳴く声で途切れた。
くすくす笑いながらは、お待ちくださいねと言って、その場を離れた。
赤面したまま、利達はどこで待てばいいのだろうと、しばらくはその場に留まっている。 やがて軽食を携えて戻ってきたは、その場で突っ立っている利達に驚いた。
しかし、先ほど抱えていた書面がない事を見て、一度自室に戻っていた事を理解する。
庭院のほうに移動し、草地に腰を下ろした利達を見て、も隣に座った。
「本当に、簡単な物ですけど…」
「いや、申し訳ない」
そう言って、つまみ始める。
「美味しいな。母さんが習いたい訳だ」
「いえ、そんな…」
照れたように笑って俯いただったが、ふいに顔を上げて利達の名を呼ぶ。
「あの、利達様?」
何か問いたげな表情のに、利達は口の物を飲み込んでから振り返る。
「ありがとうございます」
唐突に礼を言われて、利達は驚いて言い返した。
「こちらが礼を言うほうなのに…ありがとう。これでぐっすりと眠れそうだ」
「あ、いえ…」
どうやら思考がすれ違っているようだが、利達にはどこで何がすれ違っているのか、さっぱり理解できずにいた。
褒めた事に対して、わざわざ改まって言うはずもないだろうし…
しばらく考えてみるが、やはり判らず、ついに疑問は口を突いて出る。
「何に、礼を?」
「みなさまに…とても温かい気持ちを頂きました。奏の民ではないのに、これほどのご温情を賜って…」
なるほど、と利達は頷いた。
「それは気にしないほうが良い。奏国民であるとかないとかは、恐らく関係ないだろうな。母さんは個人的な老師として雇ったのだし、老師とうまくやっていきたいと思うのは、良き生徒の証なのではないかな?文姫も姉が欲しいと言っていた事もあったから、楽しそうにしているしな」
もっとも、と利達は付け加える。
「三百年以上前の話だが…」
はくすくすと笑ってそれに答える。
「では、先新様が登極なさる前ですね?」
「はその頃を知っているのだろうか?」
笑うにつられて、自らも笑いながら、利達は素朴に思った疑問をぶつけてみたが、の表情に驚いて笑い顔を消した。
「存じ上げております。その頃、私は斎王にお仕えしておりましたから。蓬莱渡りの役に立ちそうな物を、指導して技師に作らせては奏上する。それが私のお仕事でした」
卿だと言っていたのを思い出し、利達は問う。
「小司空?」
「さすがでございますね。はい、冬官でございました。海客だと言うのが役に立つ国があろうとは、思ってもいませんでしたが」
は気遣わせた事を悟り、慌てて笑顔を作る。
「遵帝は…徳の高い方とお聞きした。登避された時は、驚いたが…」
利達は少し改まった感じで、の名を呼ぶ。
「わたしは、が幸せになることで、遵帝へのご恩返しが出来るのなら、と思う。奏が豊かになったら、いずれご本人にと思っていたのだが、それは叶わない夢となった…すまない」
ふいに出てきた遵帝の名に、胸が締め付けられるようにして聞いていたは、謝る利達を驚いて見つめる。
「何故、利達様がお謝りになるのです?」
目を見開いて見つめるに、利達は苦笑しながら頷いた。
「確かに、わたしが謝ってどうとなる問題でもないが…辛い事を思い出させたようだ」
「いえ…こちらこそ…お気遣い、ありがとう…ございます」
溢れ出す物を堪えきれず、途切れがちになる言葉を必死に言い切った。
利達はいたたまれない気持ちで、それを見つめていたが、ふと無意識に腕が伸びていた。
震える肩をすっと引き寄せ、気を落ち着けようと優しく撫でる。
「民を虐げた訳でもなく、道理をなくした訳でもない王が天の摂理に触れたというのは、とても痛ましい事だった。お傍にいた者なら、それを悔やまれる気持ちも判る。だが…。こんな事を言うのは愚かで、失礼に当たるとは思うのだが…もし、遵帝がご健勝なら、三百年もの間、それで胸を痛めているをどう思うだろうか…悔やんでくれ、泣いてくれと言うだろうか…」
は息を呑んでそれを聞いた。
心の中で利達の言った事を反復する。
忘れてもいいということなのだと、一瞬だけ考えた自分を思い起こす。
「利達様なら、どう、思われますか?」
「もし、わたしが同じ立場であったのなら…に泣いて欲しいとは思わない。むしろ、泣いて悔やむ姿を見れば、いたたまれまい。徳の篤いお方なら、なおのことだろうと思う」
は縋るような眼で利達を見つめていた。
「貴女の涙は、美しい真珠の色をしているが…悲しみの為に流されたのでは、濁ってしまう」
そう言って微笑む利達に、の涙は少しずつではあったが静まっていった。
その間、利達はずっと背を撫でていた。
やがて、涙の収まったは、小さな声で利達に言う。
「遵帝が身罷られたのは、青天の霹靂(へきれき)でございました。天の雷に打ち抜かれておしまいになった…私は、それを見ておりました。身罷られた後も、どこに誤謬(ごびゅう)があったのか、誰も知りえる事は叶いません。そして私は、範である言葉を聞きました」 ―覿面の罪― 誰もその死を理解できず、疑問ばかりが飛び交っていた。
しかし才に新王が立ち、国氏が変わったのだと聞き及ぶ。
天罰が下ったのだと、その時初めて知った。
「は、何故範に?」
「主上のご遺志を継ごうと…身分を隠し、範の王宮に潜り込んでおりました。いいえ、ご遺志と言えば聞こえは良いのですが、私は長閑宮に留まるのが辛かったのです。主上と台輔の死を悼み、嘆くにはあまりにも突然で…まだ、受け入れる事が出来なかったのです」
が範に向かってまもなく、範の国主も身罷った。
天命が尽きたのだった。
その後、荒民の救済に始まり、国土の傾きを止めようと必死になっていた。
だが、才に新王が立ち、遵帝の死が天罰によるものだと知ったは、自分でも気がつかないうちに範を出ていた。
それに気がついたのは恭であった。
恭の沿岸部で白海を見て、やっと気がついたのだ。
それからは放浪の身となる。
「私は…範で国政に携わり、荒民を助ける事で、自身の中で主上と台輔を、生かしたかったのかもしれません…」
それほどまでに痛嘆していたのだろうと、利達は思わずにはいられない。
「三百年の時を経て、今その罪は、遵帝の故事と呼ばれております…故事と」
「にとっては、まだそれほど鮮明なのだな…だが、この手はもう、赤く染まっていない。わたしには綺麗な真珠に見える」
利達の手がの手元に移動し、そっと包みこむ。
言われたは、小さく戦慄き、目を見開いて利達に問うた。
「何故…ご存知なのですか…?」
驚愕ともとれるその声に、利達は軽く首を傾げた。
「知っていた訳では…ただ、そのように思っているのではと、危惧したまで」
利達の危惧した通りだったのだ。
が一番忘れられない記憶。
それは血に染まった自らの手だった。
主の血が、助け起こしたときの感触が、まだ映像として蘇る。
瞳を閉じるだけで、簡単に思い起こす事が出来る。
「忘れる事は出来ないだろうが…それを薄くする事は出来る。辛さを超えるほどの、楽しい思い出で埋めていけばいい。真珠の手から、赤い記憶が消えるほどの思い出を」
の手を持ったまま、それを引き寄せる。
「ここで、楽しい事をたくさん作っていけばいい。そのために、力になれる事があれば、何でも言ってくれていい」
「利達様…」
感謝の言葉を述べたかったが、それは涙にかき消されてしまい、声にならなかった。
だが、その涙の色は、透き通るような真珠色であったという。
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