ドリーム小説
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駮弾琴 =3= それから数日が経過した。
は変わらず朱衡の自宅におり、日々官吏になるための勉強を続けている。
今後の事を考えると、とても言い出せる心境ではなかった。
しかし、それも長くは続かなかった。
朱衡の浮かない心情を、見抜いた者がいたのだ。
「朱衡さま。どうかされましたか?近頃浮かない顔をなさっておいでですが」
他でもない、が名を欲した人物であった。
何でもないと返すと、小司徒のはしばらく朱衡をじっと見つめ、静かに問いかけた。
「華明の残像でも出て参りましたか?」
はっと顔を上げると、的を射たと言わんばかりの微笑みが返ってきた。
「長い間、心が囚われていたのです。夢の中にいたような気分であったのかもしれませんね。夢の記憶が残っていることは、誰にでもございましょう?」
「それは…」
「例えば音、など。呪に使われた曲をお聴きになったのでしょうか?」
「どうしてそれを…」
「ああ、やはりそうなのですね。もしやと思ったのですが」
そこまで言い当てられてしまえば、もう隠し通すことは出来ない。
諦めて、数日前の出来事を語った。
「体が動かなくなったのでございますか?」
「はい。華明のような力があるのだとしたら…」
まさか、との表情が語る。
「まったくないと、言い切れませんでしょう」
難しい顔をしたは、それでも首を横に振って言った。
「華明は恐らく…もうこの世の何処にも存在いたしません。彼女の中に残っているとは考えられないのですが…。でも、一度確かめに参ってもよろしゅうございますか?」
万が一と言うことも考えられるため、それを了承する事は出来なかった。
それこそ、朱衡の恐れていた事が起きてしまう。
つまりは、自宅にいるが、この手から離れてしまうという事が。
そこまで考えてふと疑問を感じた。
何故そこまでこだわるのだろうかと。
始めはやっかいな事だったはずだ。
子童の面倒を見るなど、およそ自分らしくない。
命じられたから、仕方なく引き受けただけだった。
「ご心配なれば、主上に相談されては如何でしょう?あの呪を解いたのは主上でございます。彼女を連れ帰って参ったのも、主上でございました。何か良い案が浮かぶやもしれませぬ」
「そうですね。検討しておきましょう」
とは言え、それはに会わせることよりも難しい。
呪を受けたのは間違いなく目前のだが、その目的は王に近付くことだった。
もし秘められた力が華明の意思だとしたら…。
ふう、と溜息を落とす前に、その場から離れた朱衡。
「相談ですか…」
一人宮道を歩きながら呟いた声によって、その足を止めてしまった。
自宅で日々新しいことを覚えている。
その人生を摘み取る事になりかねない事態が起きているのではないだろうか。
最悪の時には、朱衡自らがそれを摘み取らねばならない。
この手で、の未来を…
「出来るのだろうか」
ぽつりと呟き、その場を立ち去った。
溜息を漏らさぬよう気を付けながら、自宅に入った朱衡。
そこに信じられない人物を見た。
「しゅ…主上!」
「よお、遅かったな」
「台輔まで…」
「朱衡さま、お帰りなさい」
軽やかな声と供にひょっこり顔を出したのは、間違いなくであった。
「お友達が訪ねていらしたので、お通ししたんですよ。お茶もちゃんとお出ししました!」
褒めてくれと言わんばかりの笑顔だったが、あまりの状況に息をするのも忘れていた。
ただ絶句して立ち尽くすしか術がない。
しかしそこは春官長。
気を取り直して王に問いかけた。
「何時の間に内宮から抜け出したのです?」
呆れ顔を作り言う朱衡に、延王が答える。
「華瑟の様子を見に来たのだが、随分感じが変わったな」
何か聞いたのだろうか。
「…ええ」
「どうだ?楽士として出せそうか?」
「いえ、それはまだ…」
「そうか。では二週間で調整しておけ」
「は?」
「二週間だ。頼んだぞ」
それだけを残し、さっさと退出する主従。
入ってきた時と同様、やはり動けないでそれを見送っていた。
「朱衡さま…?」
「…」
「朱衡さま!」
少し大きくなったの声に、我を取り戻して振り返る。
「どうしたのですか?」
「私が聞きたいです。難しい顔をして、どうしたのですか?」
「どうもこうも…」
あれほど危惧した王との体面。
こうもあっさりと終わるとなると、少々気抜けしてしまった。
己の葛藤はどこへ行ったのか。
しかも二週間で人前に出せるほどに仕立て上げなければならない。
今の段階では、言葉遣いだけでも難しいというのに…。
諸動作もまだまだ子童のようである。
恥をかかせるのは忍びない。
には辛かった期間の分だけ、幸せになって欲しいと願っていた。
王との体面を危惧する心配はなくなったが、それからの二週間はにとっても朱衡にとっても忙しい日々となった。
少しの時を惜しんで、様々な事を覚えねばならなかった。
そして瞬く間に二週間が過ぎていった。
その日、諸官は外宮に集まっていた。
慰労の会が開かれるとの事であり、ささやかながら、宴会が設けられるとの事だった。
決行に移したのは他でもないこの国の王で、冢宰及び各官長も反対せず、決行が許された。
もちろん自由参加であるが、小司徒であるが楽士と供に異例の演奏をするとの事で、殆どの官が参加を希望している。
官位ある者に限られていたが、その数は尋常ではない。
「では。頑張るのですよ」
「はい、朱衡さま。大宗伯の名に泥を塗らぬよう、精一杯演奏いたします」
我が子を送り出す親と言うのは、このような心境だろうかと考えつつ、小司徒に後事を委ねて退出した。
外宮に入るとすでに浮わついた雰囲気が漂っていたが、朱衡はどうにも馴染めそうにないと思った。
落ち着かないなど、いつの事以来だろうか。
席についても落ち着かないでいると、労いの声が王からあがった。
それを合図に楽士の演奏が始まる。
演奏を聞きながら、酒を酌み交わす音が響いていた。
「大宗伯、お注ぎしましょうか」
二声氏が横から声をかけてきたが、とても飲める心境ではなかった。
柔らかく断ると、楽士の演奏を聴くために顔を向ける。
段上に王と宰輔がおり、楽士はすぐ下で演奏をしている。
どの間合いでが出てくるのだろうか。
小司徒もまだ姿を現していない。
朱衡が見守る中、静かに演奏が終わりを告げた。
酒が入っている為か、普段話すこともない官吏が一堂に会しているからか、誰も演奏を聴いていないようである。
あるいは耳慣れているからか、興味がないのか。
演奏が終わった事も気が付かず、その場は変わらずざわついていた。
段上を見上げると王も旨そうに酒を飲んでいる。
楽士が演奏を終えてしばらくすると、太鼓が小さく鳴り出した。
演奏が再開されるのだろうか。
しかし他の者は楽器を手に取らない。
いよいよかと思った朱衡の考えは見事的中し、二人のがするりと進み出て楽士の前に立つ。
駮弾琴と笛を持っている。
朱衡が預かっているが駮弾琴である。
朱色の襦裙を身に纏い、楽器を構える。
横で小司徒のが、桃色の襦裙で笛を持ち構える。
太鼓の音だけがただ響いており、誰も二人の登場に気が付いた様子がない。
ふいに、太鼓の音が消えた。
突然、堂内に響き渡る高音の笛。
抜けるような透明な音に重なるのは、力強い弦の音であった。
たった二人で奏でる音は、一瞬で全員の口を止めてしまった。
一気にその場が静まる。
駮弾琴と笛の音以外は何もない。
跳ねる力強い音と、舞うような美しい音。
無心で奏でているのは、二人の様子で分かった。
瞳を閉じて音に集中している。
音と音が絡み合い、うねりを生んで上昇し、やがては堂内に広がって弾けたように感じた。
割れるような拍手が起こり、二人は礼をして体勢を正す。
駮弾琴から撥は消え、笛は立つのをやめて座る。
駮弾琴をの指が弾く。
繊細な細い音が生まれた。
あわせるように、笛の音は優しく、多くの息を含んでいる。
が駮弾琴を奏でる姿は、すでに少女ではなかった。
怪しい色香に身を包み、瞳を閉じて演奏する艶やかな女。
柔らかな唇の線が、曲にあわせて僅かに動く。
旋律を口ずさむ動きが、まるで呪を紡いでいるようにも見えた。
前曲で空を舞っていた笛の音が、地を徘徊するように動き、地に跳ねていた駮弾琴が、浮上して広がりつつあった。
そしてこの旋律は、朱衡も聴いた事があった。
いつか、庭院で聞いたあの旋律。
自宅で聞いて驚愕した、呪を含んだその音。
やはり今も動けないでいた。
食い入るように見つめる瞳を、どうにも反らすことが出来ない。
すっかり音が途切れてしまうまで、指一本たりとも動かせずにいた。
やがて終わった演奏には、割れんばかりの拍手と歓声。
その音でようやく呪が溶けたように感じた。
朱衡は我に返ると、段上に目を向けた。
しかし王に変化はない。
今度は天官の方に目をやり、帷湍を確認するが、これも変化はなかった。
自分だけが固まっていたのだろうか。
その後も演奏は続けられた。
徐々に楽士も参加を始め、最後には大合奏とも言うべき音圧が堂内に響き渡る。
歓声もこれ以上大きくなりようがないと思われた。
一通りの演奏が終わったのか、楽士と二人のは段上に深く礼をして散る。
小司徒のは地官の待つ列へ移動し、楽士と供に戻ってきたは朱衡の近くに座った。
次々に声をかけられ、戸惑いながらも丁寧に答えている。
「素晴らしい演奏でした。駮弾琴の奏法をどこで覚えたのですか?」
「我流でございます」
「幻の奏法までを使いこなすとは、ただ事ではございませぬぞ」
「幻ではございません。誰にでも演奏する事は可能なのです」
「でも、今までは誰一人…いや、過去に一人いたか」
そこまで質問が行くと、もう黙ってはおれない。
朱衡は立ち上がっての側に行き、肩に手を置いて労う。
「疲れましたでしょう?今日は戻って休んだ方が良いのでは?」
「朱衡さま…」
何かもの言いたげな瞳が朱衡を見つめたが、それを逸らして立ち上がり、元いた場所に戻っていった。
振り返る勇気がなく、そのまま他の者の言に耳を貸し、解散が言い渡されるまでその場に留まった。
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