ドリーム小説
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駮弾琴 =4= 「朱衡」
すべての官吏達が帰途についた頃、まだ残っていた朱衡を呼び止める者があった。
振り返るとそこには天官長がいた。
「が…」
帷湍の言に胸が跳ねるのを感じた。
しかし表情には出さず、そのまま耳を傾ける。
「少し話したいと。後宮で待っているそうだ」
帷湍の言った人物は小司徒のであった。
安堵する表情を隠し、ただ頷いて踵を返すと、帷湍も一緒に歩き出す。
「わざわざお呼びたてして申し訳ございません。誰にも話を聞かれたくなかったものですから」
後宮の一郭。
小司徒が住まいにしているその場所に着くと、にこやかな出迎えがあった。
招かれるまま中に入ると、王と宰輔が座って待っている。
「、素晴らしい演奏だった。その昔大宗伯に春官へ寄越せと言われた事を思い出したぞ」
帷湍が明朗に切り出す。
「ありがとうございます、太宰。勿体ないお言葉ですわ」
「いやいや、誰もが聞き入っていたようだからな」
「私の笛など、ただの趣味でございます。駮弾琴と比べれば恥ずかしいばかりで」
小司徒はそう言いながら、新たに来た客人に敬茶を振る舞う。
朱衡はその言葉に何か違和感を覚えながら腰を下ろした。
何だろうかと考える。
「大宗伯、何か思い悩む事がおありでしょうか」
問われて違和感が何であったのか気が付いた。
「駮弾琴と合わせて…あの旋律を聴いて、何ともなかったのですか?」
「ええ。ただの楽器ですから」
はそう言うと王に目を向け、王はその視線を受けて頷いた。
「お前の危惧は当たったか」
僅かに、朱衡の瞳が大きくなった。
「何だ?何の話をしている?」
分からないと言った帷湍の声が、この場の救いであるように感じた。
「本日の演奏。最初の曲ではなく、次に演奏した曲。あの旋律に聞き覚えはございませんか?」
に問いかけられた帷湍は、頭を捻って記憶を手繰る。
しかし分からないといった様子で頭を振り、同意を求めて朱衡を振り返った。
「あの曲は…庭院で聴いたものです」
朱衡の苦しげな声がそれに答える。
「そうです。華明が呪に使った旋律でした」
「やはり…」
「記憶がどこかに残っているのでしょう」
恐れていた事が起きようとしている。
朱衡は表情を崩さずそれを聞いていた。
どこか人ごとのようにも思える。
様々な映像が頭の中で渦巻いて、現実に存在する己は酷く曖昧であった。
「だが、力はない」
静かな王の声が房室に響いたが、朱衡にはしばらく聞こえていなかった。
その意味を理解するのに、幾刹那を要す。
「本日の演奏ではっきり致しました。彼女に力はございません。ただその演奏力は華明を凌ぐほどでございます。記憶に助けられているだけでは、こうは参りません。彼女自身の才能と、努力のたまものでしょう」
「…」
「大宗伯、いかがなさいましたか?」
「…」
「おい、朱衡」
横から帷湍が突くも、朱衡には何も答えることが出来ない。
それを察したのか、が周りを見回して問いかける。
「主上、先程の演奏で体が動かなくなるような事は」
「聞き惚れてはおったが、動かない事はないな。酒がより旨くなったぐらいか」
それに満足げに微笑むと、小司徒は宰輔に向かう。
「では台輔。いかがでございました?」
「よく分かんねーけどさ、圧倒されたのは確かだな」
「それはどのような感じでございました?」
「まあ、ただ感心するといったところかな」
最後は帷湍に向かい、同じ事を問う。
「では太宰。いかがでございましたか?」
「正直言うと、俺にはよくわからん。良い演奏であったのだろう、と言うことぐらいしか理解出来ないが、恐ろしさはなかったな」
意見を聞いて周ると、朱衡へと視線が戻ってきた。
「お聞きになりましたでしょう?圧倒される演奏であったのです。それらに加え、かの旋律に驚いた心境もあったのでしょう。旋律を覚えているあたり、さすが春官長と感心いたしましたが、それが裏目に出てしまったのですわ」
「あの曲は…」
「古い曲のようでございますよ。駮弾琴の演奏の中でも、最上級の技術が必要な曲なのだそうです。ゆえに演奏する事が難しく、人前に出せるまでの完成度を見ない、幻の曲だと聞きました」
「幻の曲…」
そう呟いたのは、朱衡ではなく帷湍だった。
「それだけの腕前があれば、楽士の長として誰もが認めよう」
帷湍のその言葉でようやく、緊張していた何かが緩んだ。
溜めていた息を大きく吐き出し、その場に座り込んでしまいたい衝動に駆られた。
さすがにそれを実行に移すことはなかったが、それでも見透かしたように、にやにやと笑っている主の視線が酷く不快だった。
また、不覚でもあった。
何か弱みを握られたようで落ち着かない。
「大宗伯。褒めて差し上げて下さいね。彼女、演奏前からずっと緊張してらして、とても不安そうでしたから。大宗伯があの場にいなければ、とても演奏出来ないとも仰っておりました」
小司徒はそう言うと朱衡を促し、自室を出て歩き出す。
併せるように帷湍も退出してきた。
外宮へ向かって歩く小司徒。
斜めに射し込む月明かりが、薄暗い宮道を照らしていた。
「と言う名が欲しかったのは、華明の記憶なのでしょう。私に成り代わりたかった、華明の強い思い。それらが強烈な響きを伴い、彼女の記憶に焼き付いているのではないでしょうか。同時に、華瑟の名が暗い過去を示すことも、本能的に分かっているのでしょう」
「何の話をしているんだ?」
帷湍の声が疑問を含んで、二人に問いかけた。
「本日駮弾琴を演奏したのは、華明に操られ、華瑟と名乗っていたお方です」
「それは分かっているが…の名がどうとか」
「華瑟の事です。今は、と。つまり本日は駮弾琴奏者と、笛で参加させて頂いたが、演奏を披露させていただいのです」
「何?ではが二人いることにならんか?」
「ええ。でも字ですし、地官と春官に別れておりますから、不便でもございませんでしょう?」
「ま、まあそうだが…」
「ともかく大宗伯。未だ不安に思っているのでしたら、無用の心配でございます。もう何も起こりはしませぬ。ご安心下さいませ」
内宮の終わりが近づいていた。
そのまま退出した太宰と大宗伯を見送り、小司徒は後宮へと戻っていった。
朱衡が自宅に戻ると、まだ灯りがついていた。
中へ進むと、が卓子に伏せるようにして眠っている。
演奏の時のまま、朱色の襦裙を身に纏い、唇には薄く紅がさされている。
着飾っていると、普段のではないように見える。
これまで見たこともない、一人の女性が目前で眠っていた。
胸が高鳴ったのは、気のせいだろうか。
「朱衡さま…」
小さな寝言が、確実に胸を鳴らした。
自らの寝言に気が付いたのか、の頭がゆっくりとあがる。
幾度が目をしばたき、朱衡を見上げてしばし。
「お…おかえりなさいませ!」
が慌てて立ち上がると、吹き出すような朱衡の声が答えた。
「疲れていたのですね。今日はゆっくりお休みなさい。二週間、よく頑張りましたね」
「演奏は…如何でしたか?」
「とても素晴らしいものでしたよ」
「本当に…?」
「もちろん、嘘などつきませんよ。それに、あの場の歓声がそれを物語っておりましょう」
「何か、感じましたか?」
今、確実に胸が鳴った。
しかし先程とは違った意味で。
今がいった言葉は、どのような意味を含んでいるのだろうか。
「感じた、とは?」
問い返すと、は小さく首を振る。
「いいえ、分からないのならいいのです」
俯いて背を向ける。
そのまま自室へと戻ろうとしていた。
その背中が堪らなく寂しく見え、朱衡は声を投げるようにしていった。
「動くことが出来ませんでした。あまりの素晴らしさに。そして、演奏するの美しさに」
歩き出そうとしていた足は、その声によってぴたりと止まった。
その肩が微かに震えている。
「初めてここに来たとき、私はまだ何も知らない子童でございました」
ぽつりと言われたその声もまた、震えている。
「王の命とは言え、手のかかる私を引き取って下さった朱…大宗伯には感謝の言葉もございません」
何も言い出すつもりなのかと、朱衡は一歩前に踏み出した。
しかし、それ以上足を進める事が出来ない。
もし泣いているのであれば、どのように接すればよいのだろうか。
まさか抱きしめてやるわけにもいくまい。
「色々と学ぶことが出来て、とても楽しい日々でございました」
そう言うとは、自室とは違う方向へ走り出す。
朱衡の脇をすり抜けて、官邸から飛び出していった。
ただ呆然とその場に立ち尽くしていた朱衡は、すり抜ける瞬間に涙を見た。
それを思い出してようやく、の後を追って駆け出す。
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