ドリーム小説
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駮弾琴 =5= まるで訳が分からない。
何故、態度が急変したのか。
何か不満でもあったのだろうか。
何を感じ取れば良かったのかすら分からないと言うのに。
しかし追う足は留まることを知らないようだった。
その姿を求めてひたすら進む。
やがて朱色の襦裙を捕らえ、その腕を掴むことが出来たのは、随分と街が近かった。
「」
捕まえられた腕は後方に伸びていたが、その体は反転しない。
背けられた表情が何を物語っているのか、まだ分からないままだった。
「」
再度呼ばれた声にも、の顔は向けられない。
「こんな夜中にどこに行こうとしているのですか?」
「どこへでも…私が本来居るべき所にです」
「本来居るべき所とは?」
「この身を…数多の男に明け渡す所です」
その言に、愕然とした。
それでも掴んだ腕を放さず、引き寄せながら言う。
「わたしの許が嫌ですか」
引き寄せられる力に、抗いながら答える震えた声。
「いいえ…嫌な事など…何も…何もございません。でも、私は朱衡さまの許にいるには、あまりにも…」
「過去の事はすべて承知しております。その上で、側にいて欲しいのですが」
「お側に…?」
ようやく、抵抗する力が消えた。
そのまま振り向かせると、深く抱きしめて言う。
「思い出してしまったのですね。辛かったでしょう…」
「朱衡さま…」
抱き返す力が朱衡に伝わってくる。
震えを伴ったの全身から、悲しみが溢れ出していた。
「駮弾琴を弾く度に、映像が過ぎていくのです。それは私の閉ざされた記憶でした。私ではない何者かが、私として…華瑟と名乗って動かしていた時の記憶。言葉遣いを改めることは、その記憶によって容易いものでした。その私が私でなかった間、生活していた場所こそ…」
「華瑟の実体は華明と言う春官で…駮弾琴の名手だった。その事は?」
「…知りません」
「では、まだ大丈夫ですね」
「いいえ。私は…身分をわきまえぬ恋に落ちてしまったのです。大宗伯、これ以上の罪がございましょうか」
「誰か思う御仁がいるのなら、官位を得れば問題ない。今日の演奏で、誰もがの存在を認めたのだから」
「ですが、私の実体を知れば…小司徒の命を危険にさらし、王の命までもを狙ったその元凶なのですよ…」
「操られていた者に罪があるとは思えないが」
「…」
答えないの顔を見るため、少し腕の力を緩める。
覗き込むようにすると、大粒の涙がその瞳を覆っているのが見える。
「主上から貴女の面倒を見るように言われました。しかしそれだけでこうして追ってきた訳ではないのですよ。貴女が独立するまで、見守っていきたのです」
「いけません。私は…大宗伯のお側にいてはいけないのです」
「それは何故ですか?恋した相手が、わたしと近い人物だからですか」
何も答えないに、朱衡は優しく問いかける。
「主上ですか?」
小さく振られた首に、安堵の息をはく。
「それなら、わたしから逃げる必要などありませんよ」
しかし、またしても首は横に振られた。
「駄目…なのです…私は…その資格がないのです」
「何が駄目なのですか?資格など、関係ないでしょう」
「私は…大宗…朱衡さまを…」
溢れてくる涙によって、かき消された声。
しかし朱衡は固まったようにその相貌を眺めていた。
身を捩り、再び逃げ出そうとしている体に我を取り戻し、再度力をいれて体を固定する。
「何故逃げようとするのです」
「私には…大宗伯を思う資格がないからです。あのような所で生活していたのです。それに…」
「待ちなさい。よく思い出して下さい」
の言を遮って問いかける朱衡に、は驚いて瞳を開けた。
すべてが滲んだ世界の中で、抱きしめられている感触がこの上もなく確かなものとして存在する。
何を思い出すのかと問いたげな瞳を向けると、静かな声が降り注ぐ。
「妓楼にいた時、その体を明け渡した事など皆無でしょう」
その問いに、は瞳を閉じて考える。
夢を思い出すようなものだったが、意識すれば思い出すことが出来たのだ。
「記憶にはございません。しかし妓楼にいて、それが可能とはとても思えないのですが」
「華明の駮弾琴には呪の力があった。人を操る事が出来たのです。主上のお話ですと、演奏して眠らせるのだとか。大層良い夢を見せて、それが現実に起こったかのように振る舞ったそうです」
の涙が止まるのが分かった。
変わりに不思議そうな顔が朱衡を見つめる。
「何故…そのような面倒を?」
「華明が主上を…」
「でも!他人の体です。華明は何ともないでしょう?」
「貴女だけ、特別だったのですよ。長年操る事ができる程、貴女の心と体に馴染んでいたのです。華明は花娘として、あるいは郷長の妻君として存在致しました。五十年もの長きに渡り、様々な人物を操ってきて、唯一成功したのが貴女だったのです。その力を失わず、また自我を抑え込み、我が者として操ることが出来た。主上を慕っていた彼女からすれば、その唯一の成功例を汚すはずないのです」
「…本当にそう思われますか?」
「思いますね。仮にわたしなら、そのように致しましょう」
「では…仮にそれが本当だとして、私は汚れなき体であるとして…」
は一度言葉に詰まったように俯いたが、すぐに顔を上げて続けた。
「それでも、主上に抱いて欲しいと迫った事を覚えております。口付けを…いたしました。それに、その後の記憶が曖昧で…。だから、朱衡さまをお慕いする資格がないのです」
そう言うと、再び俯いてしまった顔。
朱衡はそれを優しく持ち上げて微笑む。
「では、その上から口付けてしまえばよいのです」
頬に添えられた手に力が入る。
甘い口付けが、二度ばかり落とされた。
驚いたの顔を覗き込んで微笑むと、ようやく腕を放して手を握った。
「わたしは保護者として、失格ですね。ですが、こうなることを望んでいたようです」
驚いたままのがその表情を眺めている。
「さあ、戻りましょう」
歩き出す朱衡に、大人しく従う。
しかしまだ不安なのか、足取りが重い。
「記憶が消えているのかもしれません…」
ひかれるまま歩いていたが、ぽつりと言った。
朱衡は振り返って答える。
「過去に何があろうとも、今の貴女には関係のないことです。ですがどうしても気になると言うのなら…」
「言うのなら?」
「証明する方法はございますよ。今すぐ試行致しますか?」
「何をするのですか?」
「男を受け入れてみれば良いのです。ただし、わたしに限りますが」
さらりと言われて、は驚いてしまった。
しかし何も返せるはずもなく、赤い顔を俯いて隠す事しか出来ない。
引かれるままに歩いていると、自宅が見え始めたが、の瞳には門や扉を通り越して、牀榻が見えるようであった。
朱衡の足はいっこうに止まらず、は焦りを覚えたが、それをどうしてよいのかすら分からなかった。
やがて官邸の中に入ってしまうと、ますます落ち着きを失っていく。
そんなの様子を知ってか知らずか、朱衡はふと手を離した。
景色などまるで見ていなかったは、そこが何処であるのか把握する為に視線を泳がせた。
少し前まで俯せて眠っていた、卓子が目前にあった。
そして朱衡の手には…
「あ…駮弾琴」
「今一度、弾いて頂けませんか。指で弾く、幻とまで言われたそ奏法を見たいのです」
すっと心が落ち着きを取り戻す。
軽く頷くと駮弾琴を受け取り、構えて指を添える。
静かに深呼吸をすると、優しく指で弾いた。
流れる旋律が、朱衡の周りで踊り出す。
聞き惚れてしまいそうになる意識をなんとか呼び戻し、腕を動かしてみる。
腕は簡単に動いた。
試しに足を出してみると、これも簡単に動く。
最初に動かなかったのが、まるで嘘のようだった。
はすでに無心で、瞳を閉じて演奏に没頭している。
やはり、溢れるような色香を感じる。
そのまま引き寄せられるように足を進め、の目前まで来ると楽器を持ったままの体を抱きしめる。
今まで聞こえなかったはずの、共鳴弦が残響を生み出した。
それは長く延びて夜に溶ける。
そっとに口付けた朱衡の耳には、そのように聞こえていた。
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