ドリーム小説
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千草の糸 =10= 夕刻になって王が帰還した。
いつもなら怒鳴りつけるために向かう帷湍だが、今日ばかりは先に呼ばれ、朱衡と同行して厳粛な表情で王を尋ねた。
「どうした、昔ののような顔をして」
帷湍はぽかんと口を空けて、主を見ながら言った。
「昔の…何だと?」
「だ。無表情だった頃の。同じような面差しをしておったぞ」
帷湍は顔に手を当て、確かめようとしていたが、それだけではさっぱり分からず、少し首を傾げていた。
それを見て笑う王に、朱衡から説明が入る。
「主上が予想されていた事と、さほど相違ないと思われますが…」
から聞いた話を報告し、様子を伺うように目を向けて、最後の一言に踏み切った。
「に会っていただけますか」
その言によってぴたりと笑いを止めた尚隆は、朱衡に目を向けて言う。
「会わぬと、昨日言ったはずだが」
「原因を確かめませんと」
しばらく考えていた尚隆は、軽く頷いて答える。
「では、瘍医を待機させておけ」
「かしこまりました。帷湍、時間を先に決めておきましょう」
「時間?」
怪訝そうに言った尚隆に、帷湍から説明が入る。
説明を黙って受けていた尚隆は、帷湍が口を閉じると、自ら時間を指定した。
「明日の朝。鐘のなる直前だ。場所は俺の房室から一番近い南の庭院…そこの南東の一角だ」
「何故その場所を?」
「が倒れていた場所だな。二度も同じ場所で倒れていたのだから、何かあるのだろう。調べてみた所、何も感じ取れなんだが、が一緒におれば何か変化があるやもしれん」
帷湍と朱衡はそれに頷いて、どちらがにつくかを決めると、退出するために扉へと向かう。
それを尚隆の目だけが見送っていた。
夜になって月が昇り始めると、再び張り出した露台に出る。
「お笑い種(ぐさ)だな」
皮肉気な声が闇に紛れる。
が苦しむ原因が自分だとは…。
初めの異変は一週間前だ。
千草の糸を渡し、月の中で腕に抱いた。
五十年もの歳月を、埋めるかのように口付けを落とした、その日の翌朝。
一晩中語った。
何をと言う訳でもなく、ただ傍にいると言う事実を感じながら、空が白み始めるまで語り明かした。
は何度も千草の糸を捜し、手首を触り確認しては尚隆を見上げる。
答える代わりに口付けを落とし、腕に抱くために手を伸ばし、月の影が消えてもなお、離す事が出来なかった。
まだ傷を負ったままの心は、ようやく癒すために進み始めたのだ。
自分が癒されていったように、癒してやりたいと思う。
どれほど自分が求めていたのか、その時ようやく思い知らされ、今まで抑えていた物を、危うく一気に注ぎ込みそうだった。
だが、それだけの物を注ぎ込めば、壊れてしまうだろう。
受け止めきれない想いは、溢れてしまうものだ。
尚隆が欲望の為だけに抱く、女達のように。
彼女らは溢れることを止めはしない。
むしろ初めから心を閉ざしているのだから、受け止める物も最小でしかない。
溢れかえるものをそのままに、体だけを受け止める。
さすがに無茶をし過ぎると、拒絶の言葉を吐き、拒否の態度を示す者もいるが、大抵は割り切っている。
それでも満たしてくれるには充分だったのだが…。
もちろん、それらの女達ととは大きく違う。
同じ事を愛しい女にするはずもなく、ただ子童のように傍にいた。
夜が明けると離れて行ったのは、女の方からだった。
はゆっくりと、しかし名残惜しそうに尚隆から離れた。
地官府へ直接行くと言い残して、禁門付近にある小さな堂屋から退出した。
朝議へ向かうのに南の庭院を抜けて、近道をしようとした尚隆が発見するまで、どれほど朝露に体を晒していたのだろうか。
欄干に手をかけたまま、じっと闇夜を凝視していた尚隆は、思い立ったかのように身を起こした。
自室から離れ南に下る。
が倒れていた庭院に出ていた。
南東に歩み寄り、草地を眺める。
特に何の変化もない。
何故この場所で倒れていたのか。
本人の言うように、ただの眩暈なのだろうか。
「お前、何やってんだ?こんな夜中に」
突如背後から投げつけられた声に、尚隆はゆっくりと振り向く。
「これはこれは台輔。お早いお戻りで」
「嫌味なやつ。昨日の夜中から消えてたくせにさぁ、自分の事は棚に上げるわけ?」
「何、今に始まった事でもあるまい。…昨日は関弓におったのか」
しまった、という顔をした六太に、尚隆は笑って言う。
「どうした?顔でも見たくなったか?」
「だ、誰がおっさんの顔見にわざわざ来んだよ!」
「ではここに用事か?」
言われた六太ははたと止まる。
「いや…別に、何でもねーよ!」
仁重殿の方へ駆けて行く麒麟を見送ってしばらく、尚隆は庭院を散策し、やがては諦めたように帰って行った。
「悧角」
呼ばれた小さな声に、どこからともなく答える声。
「はい」
「何か感じたか」
「…手に施された呪以外に、特に変わった事は。気のせいだったのでは?」
「そう、だな…。ま、元気そうだったし。何かあるのかと思ったけど…」
関弓から戻って早々、微細な力に気がついた六太。
正寝付近から呪の力を感じ取り、急いで王の気配を辿って庭院へと出た。
だが、佇む尚隆を見ると、その力は急激に翳を潜めた。
まるで王気にかき消されたように、消えてしまったのだ。
「ま、いっか。悪いような感じもないし」
暗くなった宮道で立ち止まっていた六太は、そのまま仁重殿に戻って行った。
翌朝。
まだ未明の頃、庭院に立つ影が二つあった。
尚隆に付き添ったのは、朱衡の方だった。
には帷湍が付き添う。
五十年もの間、大司徒、小司徒として同じ官府にいたのだから、何か微細な変化にも気がつき易かろうと、判断したのだった。
白露に濡れる花を見つめながら、刻限が迫るのをじっと待っていた二人。
だが、いくら待っても誰も来ない。
帷湍の姿も、の姿も現れなかった。
「途中で引き返したのでしょうか」
「かもしれんな」
そう言ったままふっつり黙ってしまった主に、朱衡は何を返すでもなく、同じように口を閉ざしていた。
ふと物音に気がついた二人は、そちらに目を向ける。
駆けてくる足音に違いなかったが、どうやら一人分のようであった。
その場に留まって待っていると、二人の想像を裏切らず、駆け込んできた帷湍が姿を現す。
肩で息をしながら、帷湍は顔を上げて二人を見た。
「どうしました、帷湍。何かございましたか?」
「それが…」
帷湍はどう話せばいいものか、迷っている様子を見せた。
だがしばらく逡巡した後、が消えたことを二人に告げた。
と帷湍は落ち合って庭院へと向かっていた。
正寝が近付いた頃だったか、は音がすると訴え始め、苦痛の表情を見た帷湍から中止を厳命された。
それでも向かおうとするを、何とか引き止めた帷湍は、戻るために先に歩き出した。
ついて来ているか、確認の為に振りかえると、すでにその姿は消えていた。
辺りを探したが何処にも姿はなく、焦った帷湍は庭院へとやってきた…という経緯だった。
「ひょっとして小路や脇道を通って、ここに来ているのではないかと思ったんだが…」
不安げな帷湍の声が庭院に響く。
朱衡が探しに行こうかと足を一歩、前に出したその時。
三名は微かに聞こえる音に気がついた。
音のする方向に耳を傾け、固まったように動かずにいた。
ただひたすら耳を澄ましている。
物悲しい旋律だった。
琴のような、繊弱(せんじゃく)な音。
「これは…」
小さく呟いた朱衡の声が合図だったかのように、尚隆の足が動き出す。
が倒れていた南東の隅へと、その体は静かに歩いて行く。
それと同時に、草を踏む足音がする。
「尚隆…さま…」
冷や汗を額に蓄え、柱に手をついて辛うじて立っているが居た。
「!」
悲鳴のような帷湍の声が、尚隆の背後から上がっていた。
だが、駆け寄るために出された足は、ぴたりと動きを止めている。
何故か動くことが出来なかった。
張りつめた呪縛のようなものが、帷湍だけでなく、朱衡の体をも縛り付けている。
「お逢いしとうございました…」
よろりと柱から手を離し、は千鳥足で庭院の南東へと歩みだす。
頭を抑えながら、必死に土を踏みしめている。
冷や汗はすでに留まることを止めて、流れ落ちようとしていた。
寒い風がその体に吹き付けて、雫が後方へと散って行く。
それでもは足を止めずに、切れそうな言葉と供に歩む。
「手を…跳ねてしまった事を謝りたく…音が尚隆さまを傷つけてしまうのではないかと…そう思ったのです…」
そこまで言ったは、その場にがくりと膝をついてしまった。
「、もう止めなさい」
朱衡は留まる体をなんとかしようと声を発したが、それでも体は動かせない。
は朱衡の声を無視して、それでもよろよろと立ち上がった。
その足は萎えて震えている。
そして頭は割れそうに鳴り響いている。
すでにの視界には尚隆しか映っておらず、その耳には弦の切れるような音しか聞こえていない。
やはり崩れる体。
片手で体を支え、見上げた先に霞む尚隆が居る。
こんなにも近くにいるというのに、どうしてもその体に到達しない事が、の涙を誘っていた。
汗と混じって涙が頬を伝う。
自分の足を叱咤しながら、は再度体を起こす。
なんとか立ち上がって、再び尚隆の方へと足を踏み出した。
気持ちが尚隆に向かえば向かうほど、頭の中の音は大きさを増してゆく。
これ以上大きくなりようがないと思っていたが、さらに大きくなって突き刺すような錯覚を引き起こす。
それでも足に全神経を集中させ、は一歩一歩近付いて、ついにはその目前まで到達するに至った。
震える手を伸ばして、尚隆の胸元へと倒れるようにして体を預ける。
戸惑ったような腕が巻かれ、は安堵の息を漏らした。
だが、鳴り響く音がなくなった訳ではない。
騒ぎ立てるような音はすでに、何の音なのか判別のつかないものと成り果てていた。
尚隆の胸元で拳を握り締めて、必死に口を動かす。
「音に混じって…悲しい感情が流れて参ります…女性の…物悲しい声が…微かに聞こえるような…気が致します…」
遠のきそうな意識を必死に呼び起こし、なんとか続きを言おうと、は口を開いていた。
「琵琶か琴か…分かりませんが…この音、には…を…想う…が…」
途切れだした声につられ、の意識も途切れだす。
遠ざかる意識を覚醒する事は、もはや叶わない。
尚隆の腕の中で、小さな体は力を喪失していった。
が意識を手放してようやく、固まっていた二人は駆け寄る事が出来た。
を担ぎ上げた尚隆に、帷湍は後宮で瘍医が待機してある事を告げる。
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