ドリーム小説
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千草の糸 =9= は後宮で、何度か目を覚ました。
昨日隣にあったはずの体を捜し、夢現の中、何度も手を伸ばす。
だが、布の感触以外を感じ取れぬまま、再度眠りに落ちていった。
目が覚めるたびに繰り返される動作。
何度目が覚めても、何度眠りに落ちても、隣に尚隆が現れる事はなかった。
そのまま夜が明け、体を起こせるようになったのは、昼を回ってからだった。
「ここは…」
薄く目を開けたは、自分が何処にいるのか分からなかった。
起き上がって、辺りを見回す。
だが、それでも理解する事が出来ない。
そこは王の房室ではない。
もちろん自分の房室でもない。
見た事のない場所であった。
起き上がったは、そっと牀榻から出て扉を開けた。
しんとした走廊があり、見渡してようやく気がついた。
は後宮にいたのだった。
房室こそ違え、以前にも逗留していた同じ楼閣なのだと知る。
ゆっくりと戻って窓を開けた。
陽の位置を見て、はたと固まる。
昼を回っている事に焦り、慌てて房室を出ようとしていた。
すると、数名の女官が駆けて来て、を牀榻に押し返してしまった。
「み、皆さま?」
「小司徒は只今停職中でございます。この房室から出ることはできません」
「停職中?」
「はい。詳しいことは存じ上げませんが、体調があまり優れぬとの事ですし、今日は養生なさいませ」
「ですが…」
「主命にございます」
主命と言われて、は言い返す事をようやく止めた。
「昼餉になさいますか?」
「あ…はい」
女官は大人しくなったに、にこりと笑いかけて退出して行った。
ややして、昼餉を持って戻ってくる。
「昼餉が終わりましたら、太宰と大宗伯がお会いになられます」
「はい…あの…主上は?」
「主上は昨夜から戻ってきておりません。太宰がお怒りです」
戻って来ていないと言う事は、夜中に宮城を出たのだろう。
あまり鮮明ではなかったが、伸ばされた手を跳ね除けたのは、はっきりと覚えている。
何故あのような事をしてしまったのだろうか…
いかに耳鳴りがしようとも、他に回避の方法があったかもしれないのに。
は考え込みながらの昼餉を終え、陰鬱な気分のまま窓の外を眺めていた。
「尚隆さま…」
これまで以上に強い思いで、逢いたいと思う。
不安で押し潰されそうだった。
手を払ってしまった事を、深く後悔している。
五十年も前にも、同じような事があった。
それでも尚隆は忘れたと言って、許してくれた。
二度目も許してくれるのだろうか。
「さま、太宰と大宗伯がお見えになりました」
「はい…」
女官は扉を開け、二人を招き入れると退出していった。
「大丈夫か?」
「太宰、ご迷惑をおかけ致しております」
「いや。それよりも、話しをしても大丈夫なのか?痛いところは?」
は首を横に振ってないと答える。
帷湍は目を細めてそれを見ていた。
随分と儚くなったような気がする。
ともすれば、消えてしまいそうだと言った、主の言がよく判るようだった。
「少々不躾な事も聞きますが、お許しくださいね」
絶句している帷湍の横から、朱衡が穏やかな口調で言ってに顔を向けた。
「あの、どうぞおかけになって下さいませ。お茶でもご用意致しますわ」
「それならわたしがやりましょう。はあまり動かない方が良いでしょうから」
「いえ。私に入れさせて下さいませ。本当に、もう何ともないのです」
帷湍と顔を見合わせた朱衡は、頷いて答える。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
座る二人を確認しながら、は茶器を取り出した。
小さな音を立てて二人の許へと戻り、それぞれの前に茶杯を置いていった。
どこから切り出そうかと、誰もが思っているようだった。
ただ茶を飲む音だけが、静かに房内に響いている。
だがその沈黙は、破られねばならない。
最初に切り出したのは朱衡だった。
「最近変わった事はございましたか?」
穏やかに聞かれたは、何を答えていいのか判らず、助けを求めるように見つめ返した。
「倒れた理由について、心当たりは?」
質問を変えた朱衡に、はようやく答えることが出来た。
「皆無でございます」
横から帷湍が口を挟む。
「、もし主上が嫌なら、俺からちゃんと言ってやるからな。遠慮しなくていいんだぞ。何か不快な事があったら、仕返ししてやるからな」
真面目にそう言った帷湍に、朱衡は呆れ顔を返し、は薄く笑った。
少しだけ和んだ空気を感じ取り、は帷湍に頭を下げる。
「ありがとうございます。ですが、心配には及びません。主上は人が嫌がるような事を、なさるような方ではございませんから」
それはに対してだけであって、俺達には違うぞと言いかけた帷湍は、朱衡に睨まれて口を閉ざした。
「主上の口ぶりから推測した事ですので、不快な事を申し上げるかもしれませんが…口付けられると、何やら音がするのだとか」
僅かに頬を染めながら、は頷いた。
「だが、昨日は何もしていないと言っておったぞ」
帷湍はにというよりは、朱衡にそう言っていた。
「それは主上が仰っている事ですので、あまり信用出来ませんね。に確認するほうが良いでしょう」
そう言って朱衡はに目を向けた。
「はい、あの…何もというより、もうあまり覚えておりません」
「覚えていない?」
訝しげな帷湍の声がする。
朱衡がそれを制するように、ではと続ける。
「昨日一日の、思い出せる限りの事を話していただけますか?」
「はい。昨日は早朝…その…正寝におりました。朝の鐘が鳴る前に、帰るつもりで抜け出したのです。途中で庭院に寄って雲海を眺め…それから…そう、気を失ったのですが、主上に助けていただいてまた正寝に戻りました。その後少し寝過ごしたのですが、急いで地官府へと向かい、それからは地官の合議に参加しておりました。それから…」
ふつりと黙ってしまったは、難しい顔で考え込んでいた。
「どうしたのです?」
「あ…はい。ここからは少し、うる覚えなのですが…合議が終わった直後辺りです、音を聞いたのは。徐々に大きくなっていくので、何事かと思っていたのですが…恐らくその後主上が前方から…何か仰られていたのですが、聞き取れない程の音がしておりました。指し伸ばされた手を、跳ね除けてしまった事はよく思えておりますが…その前後は判然としないのです…」
帷湍から疑問が飛ぶ。
「音とは、どのような類のものだ?」
「琵琶をかき鳴らすような、琴の弦が切れるような…そのような音なのです。どちらかと問われると困るのですが…」
「では、少し質問を変えさせていただきます。庭院で倒れていたと言う、その事について何か覚えておりますか?」
朱衡に問われて、はますます考え込む。
「それが…何故倒れたかのかは…」
「二度程倒れられて、その二度とも同じ場所であったと」
「そうなのですか?」
逆に問い返されて、朱衡は軽く目を開く。
「あ…申し訳ございません…その、庭院に関しては本当に覚えていないのです。倒れていた理由も、何故その場所であったのかも…立ち寄った理由すらも覚えておりません。初めはただ何となく立ち寄って、眩暈を起こしたものだと思っておりましたので…」
ただ、とは小さく言う。
「何かしら、悲しい感じが致します。庭院にいた時というよりは、倒れる直前を思い出そうとすると、そのような感じが思い出されます」
「過去を思い出していたようだと、伺ったのですが」
明確な答えを返すことが出来ずに、は軽く息を吐きながら言う。
「それも、覚えておりません。周防の事を口走っていたとの事でした。それを主上に指摘された時には、確かにそうだと思ったはずなのですが、今となっては気のせいだったのではないかと思われます。庭院に居た事自体、夢であったように感じるのです」
が語り終わると、朱衡は口を閉ざしてしまった。
帷湍もまた、口を開こうとはしない。
「その音は…」
陰鬱な雰囲気を打ち破ったのは、帷湍の声だった。
いつものように快活ではなかったが、暗闇にさした光明のようでもあった。
「口付けられると鳴ると…だが昨日は?が昨日、倒れていた場所は地官府の中だ。合議が終わって帰ろうとしていたのだろう?その後主上が現れて…」
「そう…そうです。耳鳴りがして、ふと前方を見ると主上がおわしたのです…近付いて来られる度に音は大きくなり、割れるような音に、それこそ頭が割れるようでございました。恐らく倒れてしまったのは、その後でございましょう」
朱衡が難しい顔でそれに答える。
「では主上の言った通り、本当に何もなかったのですね。近寄るだけで耳鳴りがするとは一体…」
「ただの偶然ではないのか?」
帷湍はそう言ってを見る。
それに小さく頷いて、そうかもしれませんと、は答えていた。
「あの…主上に逢わせていただけませんでしょうか。偶然なら、もうそのような事はないでしょうし…もちろんお戻りになって、手の空いた時で良いのですが」
遠慮がちに言ったの声に、朱衡は軽く頷いていたが、帷湍からは反対の声が出た。
「再度倒れるような事があってはいかんだろう」
「主上が原因だとは…思えないのです」
そう言うの声は小さすぎて、聞き取りにくいほどだったが、朱衡はそれに頷いて立ち上がった。
帷湍を促して、近いうちに主上を連れてきますと退出する。
「おい。いいのか?あんなことを言って。会わぬと決めたからこそ、俺達が話を聞きにいったのではないのか?」
「ええ。ですがは会いたいようですよ」
「それは、そうだろうが…」
「危険な所まで近付けねば良いのです。先に帷湍かわたしがと供に待機する。片方は主上と行動し、どれほどの距離で変化があるのか確かめれば良いでしょう。真に主上が原因なら、何かしらの反応があるはずですから」
「なるほど…だがな…」
「帷湍、心配なのは分かりますが、原因が何かを突き止めねば、先に進むことは出来ませんよ。何が根源なのかも、まるで見えていないのですから」
「ああ…そうだな」
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