ドリーム小説
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千草の糸 =13= その数刻後。
の呻き声に、尚隆は目を覚ました。
耳を塞いで、体を小さく丸めている姿が目に映り、再び呪詛が強くなっている事を知る。
触れようと伸ばした手を直前で止め、尚隆はその場から遠ざかるために牀榻から出た。
自室にを残して、尚隆は後宮へと向かう。
が使っていた房室へと渡り、驚く女官に簡単に説明をすると、そのまま宮城をあとにした。
夜陰に乗じて移動をする。
星も月もない陰鬱な夜だった。
空を駆けて北に向かう。
辿り着いた街で、尚隆は闇の中へと消えて行った。
翌朝、目が覚めたは、房室の主がいない事に気がついた。
「尚隆さま…」
霞む記憶の端の方で、夜中に苦しんだ事を思い出す。
弦の切れるような音に、苛まれている姿を見咎め、に触れないまま、ここを後にしたのだろう。
起き上がったは、急いでその場を離れるべく、牀榻の中から出た。
扉に手をかけて開けると、そこには数名の女官が居た。
後宮に於いての周りにいた者達だった。
一番先頭にいた女官が、に近付いてくる。
「あ…皆さま…」
「主上からお話を伺っております。庭院に近付かぬようにとの指示ですので、気狭いとは思いますが、辛抱していただきます」
「この場所で、でございますか?」
「そのようお聞きしております」
女官はそう言った直後、ふとの顔を見つめる。
まじまじと見つめられて、何事かと視線を送り返していると、その女官は優しい笑顔をに向けて言った。
「元に戻られているようで、安堵致しました。昨日は少し…いつもと違った口調でしたから。主上から操られている状態なのだと聞き、ご心配申し上げておりました」
「本当に…皆さまにご迷惑を…申し訳ございません。こんな言葉しか出てきませんが、心の底からお詫び申し上げます」
頭を下げる小司徒を見ながら、女官は胸元に手を当てて言う。
「お止めください。さまに頭を下げられたとあっては、わたしの頭を何処に持っていけばよいのか困ってしまいます」
「ですが…」
「ご自分の事だけを考えて下さいませ。塵事(じんじ)は何も考えず、今は養生なさって下さい」
「ありがとうございます…」
はそれだけを残すと、再び房室の中に入って行った。
とは言え、何もする事がなく、ただぼんやりと窓から雲海を眺めていた。
灰色が底の方に映っていた。
下界では雨が降っているのだろう。
長雨で多くの川が、氾濫を迎える時期に来ていた。
決壊した堤はないだろうか。
流された橋はないだろうか。
光州の道は整備を開始したのだろうか。
ここでこうしていても、何も状況が掴めない。
地官府へと降りていって、確かめたい事は数多くあれど、ここから動くことが許されていない今の環境では、どうする事も出来なかった。
外に向いていた視線を房内に滑らせて、は立ち上がった。
再び扉を開けて、女官に何か出来る事がないものか、質問をぶつけてみるが、予想通りにないと返ってきた。
「何もする事がないと言うのは、何やら落ち着きませぬ」
「では楽士でもお呼び致しましょうか?」
「そんな、楽…」
言いかけた声を途中で切り、は息を呑んでから続きを言った。
「では、お頼みしてもよろしゅうございますか?できれば、弦の張った楽器の方に来ていただけると、嬉しいのですが…あ、もちろん、手の空いた方で結構です」
「弦楽器ですね。では少々お待ちください」
そう言って女官は退がって行った。
しばらく待つと三名の楽士がやってきた。
大小の楽器を手に持って入ってきた楽士に、は質問をした。
「楽器についてお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
演奏をするものだと思っていた三名は、多少驚きの表情を見せながらも頷く。
「繊細な音で、軽やかに弾くような音色を持ち、さらには大胆で強い音を出す楽器。そのような物は、ございますか?」
質問の意味が分からなかったのか、三名は顔を見合わせていた。
「堅い音でしょうか?」
楽士の一人がに質問をする。
「繊細な音は柔らかいように思われます」
「その音は高いですか?それとも低音ですか?」
「両方…なのです。繊細で高い音。低く強い音の二つです」
「楽器の形が分かれば、簡単にお答えできるかと」
「申し訳ございません…音しか分からないのです」
「さようでございますか…。では」
そう言い置いて、楽士は言う。
「一般的な事を申しますと、繊細で高音なれば、指で弾いているのではないでしょうか?強く低いのは、何か堅いもので弾いているのかと思われますが」
「その双方は、別々の楽器になりますか?」
「音の種にもよりますが、奏法によって大きく響きを変える物もございます。例えば、このように―――」
楽士は手に持った楽器の弦を摘まみ、ぽんと弾いて音を鳴らした。
ぴんと張った高音が静かに響く。
「指で弾く音。そして―――」
今度は鼈甲の様な色の撥を取り出し、弦を弾く。
するとびんっと力強い音が鳴った。
「同じ楽器ですのに、まったく違う響きを持たす事ができるのですね…」
「はい。撥にも幾らか種類がございますので、それによっても音色が変わります」
「他にはどのような種類が?」
「簡単に申しますと、撥自体の硬度になりましょうか。木で出来た物や、金具を取り付けた物等ですが」
「一番硬い音を出す撥というのは、どのような音を出すのでしょうか?」
楽士はにこりと笑って、後ろの者に声をかける。
「偶然にも、この者が得意とする奏法でございます」
後方から一歩前へ出た、説明をくれた楽士とはまた別の楽士は、大きな琵琶に似た楽器を両手に抱えていた。
前に出てすぐに座り込んだ楽士は、組んだ膝にその楽器を置き、黒い撥を手に持っていた。
すっと息を吸ったかと思うと、その手を楽器に打ち付けるようにして降ろす。
びいいいいぃいいん
はその音色に、口元を押さえながら驚愕していた。
「驚かれましたか?これは駮の角で作った撥なのです」
説明をくれていた楽士は、少し不安げにを見ている。
「あ…申し訳ございません。で、では、その楽器を指で弾くとどのような音が鳴るのでしょう?」
座った楽士が撥を置き、指で数本の弦を弾く。
ぽろりと繊細な、琴のような音色が奏でられていた。
が聞いた音と、かなり近いようにも思う。
だが、目前で奏でられている楽器には、わずかに他の音が混じっている。
「あの、ずっと小さい音で響いているのは、何の音なのでしょうか?」
「ああ、これは共鳴弦の音です」
「共鳴弦?」
「ええ。実際に弾いたりはせずに、音色を補色するためだけに存在する物なのです。この共鳴弦を鳴らさない奏法もございますが、かなり高度な技になりますので、現在それを出来る者はおりません」
少し情けなさそうに言った楽士は、軽く頭を下げていたが、はその楽器を見つめたまま問うた。
「これは…何と言う楽器なのですか?」
主弦と思わしき線が八本。
その胴体は琵琶のように丸みを帯びていたが、もっと大きくて細長い。
弦を押さえる箇所はさらに細く、片手で掴めるようになっている。
そして数え切れない程の共鳴弦が、後ろに見えている。
弦を調節していると思しき場所、つまりは楽器の先端には、見事な装飾が施されていた。
その装飾は獣の形をしている。
駮だろうか…。
「この楽器は駮弾琴といいます」
「ほくだんきん?」
「はい。古くは駮頭琴(ほくとうきん)と言いましたが、昨今では駮弾琴(ほくだんきん)という方が多いですね。ご覧の通り、楽器を立てた時、一番上部に駮を模した装飾をする事から、そのように呼ばれていたのですが、掻き鳴らす撥までもが駮の角を使うようになってからは、駮弾琴と名を変えていったようです」
「では、昔からその撥を使っていた、という訳ではないのですね?」
「はい。元々は桧を削った物を使用しておりました。三百年程前からですか、駮の撥に変わったのは」
「そうですか…その共鳴弦を鳴らさずに演奏できる方と言うのは、現在はいないのでしょうか?」
「他国の事は存じ上げませんが、わたしが知りえる者の中にはおりません。もう何十年か前でしたら、雁にも駮弾琴の名手がおりましたが…」
「その方は今?」
「野に下りました。生に飽いたのか、ある日突然、仙籍を返上すると書置きを残したまま、行方をくらましたのでございます」
「そうですか…勿体無い事ですわね…」
そう言ったに、楽士は頷いて座っている者に何か弾くように言う。
「どういったものがよろしいでしょうか?」
「指で演奏できる物はございますか?」
座った楽士にそう問いかけると、困ったような顔が返ってくる。
「練習用の曲以外は満足にお聞かせ出来ませんので、申し訳ないのですが、撥を使ったものでもよろしいでしょうか?」
「ええ、では一曲お願い致します」
安堵したような表情になった楽士は、三名ともが座って楽器を構える。
駮弾琴を中心とした、激しい旋律のものだった。
その演奏を聴く限り、駮弾琴ではなかったように思えてきた。
限りなく似ているが、他にも自分の知らない楽器があるのかもしれない。
はそう思って、ただ演奏を聞き入っていた。
勇ましく、燃えるような情熱を感じさせるその曲に、は心中がざわめいているのを感じ取った。
瞳を閉じて聞いていると、曲に酔ってしまいそうだ。
楽器の音が大気を震わし、体にまでその振動が伝わっていた。
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