ドリーム小説
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千草の糸 =14= その頃。禁門に降り立つ影が一つ。
「主上!よかった…約束通り、お昼までに戻って来てくれたんですね」
笑っただけで返した尚隆は、走りよってきたその夏官に騎獣を預け、内殿の方へと歩いていった。
朝議はすでに終わっていたようだった。
王の帰還を耳に入れたのか、いつもの三名がやってくる。
「朱衡」
顔を認めるや否や、呼ばれた朱衡は何事かと顔を上げる。
「過去に辞めた春官の中に、駮弾琴の奏者がいたか?この五十年の間だ」
「調べて参ります」
そう言って朱衡が退がると、黙っていた帷湍が詰め寄る。
「何だ、説教か?明日には朝議に出てやるから、今日のところは見逃せ」
「偉そうに言うな!朝議は毎日あるんだ、毎日!!なんだって天官の日に限って抜け出したりするんだ!」
「ほう、今日は天官の日だったか」
「とぼけるな!」
「帷湍!違うだろう」
成笙から諫めるような声がかかり、珍しい事もあるもんだと思う尚隆。
「さっきの駮弾琴はと何か関係が?」
そう言った成笙に、動向がばれていたことを知る。
何処かは分からないが、尚隆がそれを調べに行っていた事を、三名は知っていたのだ。
やや感心しながら、尚隆は口を開く。
「昔光州の妓楼にな、駮弾琴の名手がいた。どうもそいつが怪しいと思ってな」
「花娘ですか?それと春官がどう関係するのです?」
聞き返した成笙が言い終わると、先ほど出ていったはずの朱衡が入ってくる。
後ろに三名の楽士を従えていた。
「早いな」
尚隆がそう言うと、朱衡はちらりと楽士に目を向けて言った。
「今そこで出会いましたので。に呼ばれていたようです」
「に?」
そう言った主の言を受け、朱衡は楽士に向き直る。
「報告をして下さいますか」
「は、はい。駮弾琴の演奏を披露しておりました。音について詳しくお聞きになるものですから、説明をしていたのですが…」
「音について?」
帷湍が口を挟んで質問する。
「はい。音の種類と申しましょうか…。軽快な音と硬い音を同時に出す楽器はないものかと、お聞きになられておりました」
「なるほど。的を得た質問だな」
尚隆は感心したように言って、続きを促す。
「一番硬い音をと申されましたので、駮弾琴を鳴らしておりましたら、いつの間にかこの楽器の話になっておりまして。それで一曲合奏をしていたのですが…」
楽士は少し間を置いて、残りを言う。
「お気に召さなかったのか、演奏の終わりごろに遮られて、退がるように言われました。先程大宗伯とお会いしたのは、春官府へ戻る途中でございました」
たまたま、同じ場所へと向かっていた朱衡と、はち合ったのだろう。
「が途中で遮ったのなら、体調が優れないからだろう。演奏の良し悪しで、そのような態度を見せる人間ではないからな」
帷湍はそう言って楽士を励ます。
「ありがとうございます」
「ところで」
横から朱衡が問いかける。
先ほど主に言われた事を反復し、楽士に辞めた春官を問う。
「先ほども同じ事を申し上げたのですが、確かに一人おりました。名を 邵 華明 と言いました。彼女は駮弾琴の名手でございました。五十年は前の話になりますが。彼女はある日、仙籍を返上すると書置きを残して、失踪したのでございます」
「失踪?」
「はい。しかるべき手順も何も踏まず、ただ書置きだけで姿を消したのです。何かあったのかと、色々憶測もございましたが、彼女の居院は整理されておりましたし、交友も少ない方でしたので、生に飽いたのだろうと言う話で落ち着きました。ですが、実際のところは知りえません。我々も当時の大宗伯に一任しておりましたし、探すほどの交友もなかったものですから」
尚隆が相槌を打ちながら楽士に問う。
「なるほど。お前は当時から楽士であったのか?」
「はい。楽士になりたてではございましたが、あまり詮索されない事に驚いたのを、よく覚えております」
「そんなに驚くような事か?確かに書置き一つと言うのは、不審かもしれないが、仙籍を返上する者の中では、そう珍しい事でもあるまい」
そう帷湍が言うと、楽士は苦笑しながら答える。
「その通りではございますが、彼女は駮弾琴の奏者としては、卓越した腕を持っておりました。現に今でも、彼女を超える技量を持ったものはおりません。ですから、その腕が惜しくはないものだろうかと、そう思ったのです」
「そんなに凄い腕前だったのか?それならば他の官府にも、その者の名は有名だったはずでは?」
帷湍の意見に、楽士は少し困った表情をしていた。
「演奏者だけが分かるような、そう言った技量であったのです。ご説明申し上げるのが、少々難しいのですが…技量と言うものは、ある一定の所まで行ってしまえば、その分野の人間以外には分かり辛いものなのです」
「例えて言うと?」
「そうですね…例えて申し上げると、私は以前、主上が何かのおりに中将軍と打ち合っているのを、拝見したことがございます。打ち合いを拝見しておりますと、主上が勝たれた訳ですが、私には何故主上が勝たれたのか、どうにも分からないのです。仮に人に聞かれたとすれば、主上の方がお強いからだとしか、答える事が出来ません。これがもし大司馬なら、事細かに分析し、理解することができましょう?ですが武を知らぬ者に、それを説明するのは難しい事ではございませんか?」
突然話に引き出された成笙は、それでも無言で頷いた。
「それに加え、楽士は合奏をいたしますので、個人的な感性を出さない事も多いのです。たまたまなのですが私は彼女が一人練習をしているのを、聞いた事がございました。その時の彼女が奏でる駮弾琴は、その音色で人を操る事すら可能なのではないかと、そう思ったのです。ですから、これは逸材だと思ったのでしょう。私自身も仙籍に入ったばかりでしたので、仙籍を返上すると言う事が、よく判っていなかったのかもしれませんが」
楽士はそう言って口を閉じた。
黙って聞いていた一同は、楽士を呼びにやらせた人物に注目する。
「その華明が、どうやって楽士になったのか知っておるか」
一同は王から楽士に視線を戻す。
「そこまでは…ですが、私よりも十年ほど前に、楽士としてこちらに上がったようです。他者からの情報ですので、確かなことは言えませんが、以前には仙籍になかったものと思われます」
「どこから来たのかも分からぬか…。念のために聞いておくが、光州ではなかったか」
「光…そう言えば、ちらりとそのような話を聞いたような気も致します。ですが、もう五十年も前の事ですので、これも確かとは言えません」
「そうか。では質問を変えよう。先程にその者の名を言ったか」
「いいえ。名は申しておりません。音の話をしておりましたので、そちらが中心となっておりました」
「音の話?」
「はい。駮弾琴の共鳴弦の事で。ずっと鳴っている音は何かと問われました」
楽士はそう言って、との会話の一部始終を話して聞かせた。
「その奏法と言うのは、誰も出来んのだな?どのような感じになるのか、簡単に再現することも不可能か?」
「お見苦しいところに目を瞑っていただけるのでしたら、出来なくもないのですが…」
楽士はそう言って主を見上げる。
それに頷いたのを見て、後ろの楽士を前に手招き、演奏の形を取らせた。
自らの手で共鳴弦を押さえて、指で弾かせる。
「これは…」
朱衡の小さな声に、演奏の音が止まる。
「思った通りだな。で、その華明とやらは、それを一人で出来たと言う事か」
「はい。未だもってこの奏法が出来る者は、雁にはおりません」
「それをに言った後、演奏をしたのだな。その時の様子を出来るだけ詳しく話せ」
「はい…。始めは熱心に見ておられました。しばらくすると、目を閉じてお聞きになっているようでしたが、私も演奏しておりましたので、次に気がついた時には演奏を止めよと言われました。聞くに堪えぬ、と言ったような表情をしておりましたので、始めに驚かれた事が、まだ尾を引いていたのかもしれません」
「驚いた?」
「はい。一番硬い音をと申されましたので、駮弾琴を鳴らしたのです。撥で強く弦を弾いた瞬間、大層驚かれておりました」
「なるほどな」
それを最後に、もう楽士達が答える事はないように思われた。
しかし、中心で話をしていた楽士が、ふと思い出したかのような声を上げる。
「微かな記憶なのですが、五十年程前に…華明と春官ではない者が、即興演奏に興じていたように思います。その演奏が大変評判良く、是非楽士に欲しいと当時の大宗伯が…」
「か」
「はっきりと申し上げることはできませんが…恐らくは」
その言を最後に、楽士達は退出して行った。
それを待って、帷湍が口を開く。
「五十年前、大宗伯に迫られたのは覚えている。が仙籍に入った直後だったように記憶しているが。即興演奏をした事によって、地官に入ったばかりだと言うのに、大宗伯にを寄越せと言われた。その即興演奏と言うのが、は笛、もう一つは駮弾琴だったような…」
朱衡もそれに頷き、帷湍に同意した。
「さきほどの音色もありますし、庭院で聞こえた音は駮弾琴とみて、まず間違いないでしょうね」
「だろうな。加えてだけに聞こえる音と言うのも、駮弾琴の撥で弾いた音なのだろう」
尚隆がそう言うと、成笙が難しい顔のまま、誰にともなく質問してくる。
「でも、即興演奏をしていたのだろう?音を覚えていない事など、あるものなのだろうか…」
「笛を吹きながらでは、聞こえ方も違うのかもしれませんね。それに、卓越した技量を持ってすれば、音色を使い分ける事が出来ても、おかしくはないでしょう」
朱衡がそういい終わった所で、立ち上がった尚隆。
「どちらへ?」
「寝る」
帷湍の間抜けな声が響いた。
「は?」
「疲れたから寝る、と言ったのだが?」
「お前な、心配じゃないのか?」
「心配しても仕方がないだろう。ああ、朱衡。一応その華明の事を調べておけ。手の空いた時でいいがな。それと光州に駮弾琴の弾き手がいるはずだ。その者を召集しておけ」
ぽかんとしている帷湍を尻目に、朱衡はそれに答える。
「手が空かずとも調べましょう。主上の身に危険が伸びる事はないと思っておりますが、正体が掴めないとあっては、それも確実ではないですから。それに、やはりが心配ですからね」
少し嫌味を含ませてみたが、一向に気にする様子もなく、平常の声が返ってくる。
「では頼んだぞ」
それだけを残して、王はさっさと引っ込んでしまった。
主の消えて行った扉を見つめながら、帷湍はようやく自分を取り戻す。
「手の空いた時だと?お前がきちんと政務をこなせば問題ないんだ!」
言うべき相手はすでにいなかったが、帷湍の怒りの声が響いていた。
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