ドリーム小説
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千草の糸 =16= 熱気の篭もった牀榻内では、小さな寝息を立てた女の姿があった。
それはさきほどまで腕に抱き、一時は苦痛に顔を歪めた、五十年もの間欲してきた、愛しい女だった。
他の誰でもない、唯一人の存在。
月の中を逃げて行き、月の影で捕まえた女。
これ以上に満たされた気持ちなど、今まであっただろうかと、尚隆は一人苦笑を漏らしていた。
手にはすでに何も握られていない。
青かった石は藍暗色に変化し、無用の物だと言うのを教えていた。
そっと手を伸ばして、落ちてきた髪をかき上げる。
華明が隠れてから、すでに数刻が経過している。
こうしている間にも、浮上してくるかもしれなかった。
だが、根が張ったようにこの場から動けないでいた。
出来ることなら、このまま朝まで腕に抱いていたいのだから。
「尚隆さま…」
かき上げた手の動きに気がついたのか、は瞳を開けて尚隆を見ていた。
「気がついたか。痛みは?」
「はい。大丈夫です…」
薄く頬を染めて言ったのが、夜目にも分かる。
「明日は一日寝ていろ」
「…はい。あの石はいったい…?」
「一時的に呪詛を弱める物だ。一度使うと効果が消えてしまうがな。入れ替わりを繰り返し、弱まったからこそ使えたのだが…」
「それで黒く変色したのですね…」
そう言うと、は尚隆に手を伸ばしてくる。
体ごと引き寄せると、深い息が胸にかかる。
「華明が…」
胸元からくぐもった声が聞こえ、尚隆は少し力を緩めた。
「尚隆さまに抱かれたいと言った気持ちが、分かるような気が致します。これほどまでに、幸福感に身を包むことが出来るのですもの…」
「以外が、幸福感を得るとは思えないが」
「?」
「気持ちのない者に抱かれて、幸福感を得る者は、ただ快楽の為だけに存在するのと相違ない。互いの気持ちが流れ、それを全身で感じるから、幸福感が生まれるのだと思うのだが」
はそれに頷いて言う。
「そうなのかもしれません。唇を重ねるよりも、深く愛を感じる事が出来ましょうから…よく愛を全身で受けとめると言いいますが、ようやくその意味が分かったような気が致します」
「愛を感じたか?」
顔を覗き込んで問うと、恥ずかしそうに背けられる。
それに笑いながら顔を振り向かせ、口付けを与える。
びいいいぃいいぃいぃぃいいぃいぃぃいいんん
「つっ!」
割れるような痛みが頭に響き、は体を小さくしてそれに耐えようとした。
今までで一番大きく鳴ったような気がした。
震えが体を襲い、意識が遠のくのが分かった。
「何故…」
起き上がったは、体を見回していた。
「この感じは…」
「初めてが乗っ取られてでは、後々やりきれんだろう」
冷静な声でもって、尚隆は華明に返した。
「今は眠れ」
牀にの体を押し付け、尚隆は房室から出て行った。
夜が明ける。
朝議の後、朱衡が尚隆の許へと報告に来た。
「駮弾琴の奏者ですが、光州に該当する者はおりません。名手どころか、奏者自体がいないのです」
尚隆は紙面に目を通し、そのまま相槌だけを返していた。
「そうか」
「主上」
呼ばれて顔を上げた尚隆は、朱衡に目を向ける。
「わたしは華明の幽鬼のようなものが、の中にいるのだと思ったのですが。召集せよと言うことは、華明ではないのでしょうか?それとも華明は生きて…」
「華明が生きているかどうかは分からん。だが、他にも操られている者がいたとて、おかしくないだろう。…郷長やなんかの女として、どこかに潜り込んでおるやもしれぬな。いずれにしろ、仙籍にはおるだろう。怪しげな呪も使うようだしな」
「先日光州に行っていたのと何か関係が?」
「まあな。花娘に一人、駮弾琴の名手がおったのを思い出してな。どうにも変わった女だったからな。直接妓楼に、その女がどうなったのか聞きに行っておったのだが…。三十年も前の話なんでな。女将も変わっておったし、手がかりらしきものもなかったな」
「三十年…それが華明だと?」
「あいにくと華明の顔を知らんからな。何とも言えんが」
「手がかりらしき物もないのですから、一先ずは光州の戸籍を調べて参りましょう」
朱衡はそう言って退がる。
それを目だけが見送っていたが、一人になると立ち上がり、窓際に移動して行った。
腕を組んで窓の外に目を向ける。
「名も覚えておらんな」
尚隆が一時、足繁く通っていた妓楼。
そこにいた駮弾琴を弾くという花娘の名を、思い出すことが出来ない。
なにしろ三十年以上前の話である。
口数は少なく、常には無表情だった。
何か辛い事があったのだろうか。
仕事と割り切った様子の彼女に対し、特に何を言うわけでもなかったが、無表情のままの顔が、出会った頃の愛しい女を呼び起こしていた。
時間がの傷を癒す事は分かっていた。
そしての気持ちが、自分に向いている事も分かっていた。
同じ魂を見つめ、求めて止まない想いを抱いている。
遠い蓬莱の地に想いを馳せ、朽ちていった人々に瞑目す。
手にいれたくとも、触れる事の出来ぬ喪失感を、その女で埋めていたのだろう。
愛撫を与えていくと僅かに崩れる顔を眺め、ともすれば壊してしまいそうに力が入る。
熱望する想いを注ぎ、どの女を抱くよりも激しいものだったろう。
そんな自分を省みると恐ろしい気さえするのだから、ぶつけられていた本人にとっては災難であるはずなのだが、その女が拒絶したことはなかった。
それどころか、再度の来訪、心よりお待ち申しております、と言って送り出す。
多めに金を置いていくのだが、僅かばかりの悔恨が残る。
「さて、どう手を打つか…」
窓の外に投げたその言葉を、風が浚って消していった。
夜になって、朱衡は再び王を訪ねた。
「怪しい者を適当に抜粋致しましたので、目を通していただけますか」
三枚の紙面を尚隆に渡し、目を通すのを待っている。
言われるままに目を通していた尚隆は、二枚目でその動きを止めた。
「華瑟(かしつ)…。これは?」
問われた朱衡は、自らの手に持っている物に目を通して答える。
「役職にはないようですね。籍から見て、恐らく郷長の妻君かと。あまり詳しい情報は見当たりませんので、再度調べておきます。お心当たりがございますか?」
「いや…」
その名を瞳が捕らえたのは、ただの直感だった。
なんとなく駮弾琴と華明を連想させた。
華と瑟(おおごと)―――駮弾琴の名手、華明(かめい)。
ただの偶然だろうか…
それとも…。
「朱衡」
呼ばれた大宗伯は短く答え、手招きする主に近寄って行った。
退出した朱衡と入れ替わるように、六太が訪ねて来た。
「よお、どうだ?その後は」
「相変わらずと言ったところだな」
「そっか…まだ苦しんでるのか?」
問われた尚隆は、これまでの事を掻い摘んで話す。
話し終えた尚隆に、六太は深い溜息を落として、その顔をじっと見つめた。
なんだとでも言いたげにしている顔を、しばらく見ていた六太は、もう一つ大きな溜息を落としてから、その口を開いて言った。
「その華明にしても、にしてもさ…なんだってこんな奴がいいんだろ。俺にはさっぱり理解できないね。もっと他にいい男がいるのにさー」
「本人を目の前にして言うか?」
「影で言ったって、意味がないだろ?少しは反省したらどうなんだよ」
「何を反省しろと?」
「遊び回ってる事をだよ!お前のせいでは苦しんでんだぞ?」
「そうか。よし、反省した」
あっさりと返されたそれによって、六太はこけそうになっていた。
しかしすぐに体制を立て直し、軽く尚隆を睨みながら言う。
「とにかく、早くなんとかしれやれよ!あんな苦しそうな顔を、これ以上見てられないからな」
そう言って六太は、軽い足音と供に消えていった。
自嘲気味に笑った尚隆は、それを見送ることもせずに、房室を出て南へと下った。
が倒れた庭院へと行き、南東の一角に屈みこんで目を凝らしている。
辺りに目を配らせてしばらく、尚隆は立ち上がって進み、再び庭院に屈む。
夜の闇だけが、それを見守っていた。
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