ドリーム小説
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千草の糸 =17= それから三日後、尚隆の許に再び朱衡がやってくる。
「たったいま青鳥が参りました。主上の仰った通りの場所におりました。いかがなさいますか?」
「では、明日にでも向かうとするか」
「主上…」
咎める様な声を出した朱衡だったが、こう言い出す事は分かっていたので、何も言わないまま口を噤んだ。
「俺が行かんことには、意味がなかろう」
「こちらですべきことは?」
「を見張っておるのだな。体を明け渡してしまうと、自分の意思がなくなるようだからな。何があってもおかしくない」
尚隆が言い終わったところへ、に付けてある女官が駆け込んで来た。
「何事だ?」
訝しげな顔を向けて問う尚隆に、女官は青い顔で告げる。
「さまが、刃物を持たれて…ど、どうすれば…」
朱衡がもう少し詳しく問いただそうと、口を開きかけたが、それよりも早く尚隆は立ち上がっていた。
止める間もなく退出しており、まっすぐ正寝の方面へと向かっていた。
女官達の悲鳴が聞こえる方へと足を進めていくと、走廊の途中に立っているを見つけた。
女官の言った通り、手には刃物が握られ、その切っ先は自らの喉元に向けられている。
「さま!お止め下さい!」
「どきなさい。行かなければならないの」
どうやら抜け出す為の作戦のようだった。
「お前が行きたいと言うのは庭院か?それとも俺の許へか?」
尚隆の声に反応した顔は、その顔を認めて固まっていた。
「どうした?逢いたいと言っていたのではないのか?」
の体を動かしているであろう華明に対し、尚隆は冷たい声色で語りかけていた。
切っ先と手の動きに注意しながら、尚隆はゆっくりと歩いて行く。
固まったように動かないの目前まで来て、手に握られた物を難なく奪い取る。
それを床に捨てて、の体を肩に担ぎ上げた。
「ご苦労だった。怪我人はいないか?」
言葉を失っている女官達に質問した尚隆は、何の反応もない事を見て、苦笑しながら指示をだす。
「もし、怪我人がいるのなら手当てを。もう退がって良い。大丈夫だ」
「で、で、ですが…」
「大丈夫だ」
語調の強くなったのを感じ取った女官達は、おずおずと後退してその場から離れた。
それを確認してから、尚隆は肩にを乗せたまま自室へと向かい、中に入って行った。
「そんなに逢いたかったか?」
肩から下ろして早々に聞いた。
大人しくしていた、を操っている者はそれに答える。
「もう三日も姿を見せないから、どうしたのかと」
そこには何も感情を見出せない。
もし、これがあの花娘だとすれば、これほど表情がないのも頷ける。
「何が目的だ?」
「最初に言ったはずですが」
「お前は華明か?それとも華瑟か?」
「体を重ねれば、おのずと分かりましょう」
「その気はないと何度言えば分かる」
「貴方こそ今ので分かったでしょう?望みが叶わぬのなら、この体など壊して新しい物を探すまで」
「それが出来るのなら、を選んだりはしまいよ」
「…」
ふらりと体が揺れたのを見ながら、尚隆は無言のままのに声をかける。
「どうした」
「…しょ―――さま…尚隆さま…」
取り巻く雰囲気が変わり、呼ばれた声色によって、が戻ってきた事を知った。
「…大丈夫か」
「日に日に…彼女の意識が強くなっております。私が私である時間が減ってきているような気も致します。ですが同時に、彼女であった時の記憶が存在し始めました…尚隆さま。彼女の考えが流れて参ります。ですから、私に近付かないで下さいませ…彼女は…殺してでも…手に入れたいと…思って、おり、ます…手に入らなければ…殺しても…構わないと…さえ、考えて…おり…」
またふらりと体が揺れる。
床に崩れそうになった体は、意識を取り戻した者によって踏みとどまった。
「華明になったか。そうまでして抱かれたいか?そうする事で、お前は満たされると?」
何も返してこない華明の顔を、尚隆は荒く掴んで振り向かせる。
ふいにの体である事を思い出しのか、その力は緩まったが、体ごと引き寄せる。
「お前の望みを叶えてやろう」
そう言われた直後、唇は浚われ、体は倒れて行く。
冷たい床に押し付けられ、あっと言う間に体を覆う衣は肌蹴てくる。
いつかの花娘を抱いた時のように、相手の事など考えないかのような行為だった。
だが、女は何も言わず、ただ受け入れている。
尚隆はふと動きを止めて、その女を見下ろした。
「やはり、光州の…」
「…覚えていたのですね。貴方は何度も私を抱いた。この体の主の変わりに。夢現の中、何度もこの名を呼んだ。私は、何度もその名を聞いた。きっと…意識してはいなかったのでしょうね。何度かに一度は、と…」
「お前の名は?」
「忘れているのなら、お好きなように呼んで下さい」
ふっと意識が途切れたように頭が横に向き、再びそれが動いて尚隆を見た時には、瞳にいっぱいの涙が溜まっていた。
「悲しい心…彼女は名を伏せております…尚隆さまを思う、せつない感情だけが膨大に過ぎ、彼女の心を支配し、苦しみを招いている…」
尚隆はの上から足を退けて、肌蹴た衣を整えてやる。
引き起こす代わりに、両腕に抱きかかえ、牀榻へと入っていった。
「尚隆さま…私は…勝てないやもしれませぬ。彼女の心が…痛いほど分かるのです。ですから、どうぞお離れ下さいませ。私に近付くのは、危のうございます」
横たわったまま言うに尚隆は笑いかける。
「構わん。がどうしたところで、俺を殺す事は出来ぬだろうよ」
「ですが…」
何かを言いかけたは、再び瞳を閉じる。
涙が一粒零れ落ち、それが頬から消えようとする直前に、再び目が開かれる。
「名を言う気にはなれんか」
「何を…」
開きかけた口を制すように、手を掲げて言う尚隆。
「名のない女など、抱きようがないからな」
「…」
「どうした?」
「では、と」
「それでは答えにならん。名を言う気になったらまた呼べ。刃物など使わずにな。いつでも来てやろう」
すっと立ち上がった尚隆は、そのまま房室を後にした。
それを引き止めることも叶わず、の手は宙に浮いて止まっていた。
尚隆はそのまま禁門へと向い、騎獣を出して光州の方へと消えていった。
昼をまわった頃、光州に降り立った尚隆は、一度来た街に戻っていた。
以前はと二人で来た。
その時には紅葉が色付いていたのだが、まださほどに時間が経過していないのにも関わらず、枯れた色が世界を占めていた。
街にも木枯らしが吹き抜けている。
民の多くは寒そうに身を縮め、急ぐようにして歩いていた。
そんな街の中でも、一際装飾の明るい一角へと向かった尚隆は、以前に呼び止められた女を往来に見つけ、足をそちらへと向けていた。
「風漢の旦那!この前はどうもすみませんでしたねぇ。大丈夫でした?」
「何、たいした事はない。それよりも、空いているか?」
「空いてなかったら、こんな所で客なんざ引いてやしませんよ」
「そうか…では上がらせてもらうぞ」
女は嬉しそうに頷いて先行く。
「珍しい楽器を弾く女がいるのだとか」
先行く女にそう質問すると、大きく目を開いて、感嘆の声を上げていた。
「よくご存知ですねえ!そうですよ。とても珍しい楽器で…だから、ちょっと値が張るんですけどね…で、でも、一度入った客は夢を見ているようだと言って、帰って行きますからね」
「空いておるか」
「ええ、そりゃあもう!値が高いんで客がつき難いってのもあるんでね…でも、値だけの演奏はさせてもらいますよ」
自分が演奏するわけでもないのに、女はそう言って立ち止まった。
「何かご用意いたしましょうか?」
「いや、今日はいい。演奏を肴に寝るとしよう」
「では、何かあれば房内の女に申し付けてください」
扉を開けながら、女は軽く頭を下げた。
尚隆は房室の中まで進み、人の気配の方に向かって座った。
そして女の顔も見ずに、榻を座りやすいように整えながら言った。
「駮弾琴の演奏を頼む」
名も問わないその様子に、特に動揺した風もなく返答がある。
「欠けた楽器ですので、満足のいく演奏は出来ませんが、それでも?」
「構わん」
「では僭越ながら」
びいいいぃぃいん
緩い弦を弾く音が房内に響いた。
なるほど、と尚隆は半ば寝そべりながら思った。
楽士の奏でるものよりも、数段音が鮮明な気がする。
目を開いて女を見る。
女の顔は、昔光州で抱いた顔とは違っていた。
遠い記憶のせいか、確実にそうとは言えないのだが…。
そして手に持たれた駮弾琴の柄は、確かに欠けている。
「指で弾く事は可能か?」
「指、ですか?」
眉を片方だけ上げた女は、警戒するような顔で尚隆を見る。
「無理にとは言わぬ」
「私の指で弾く音は、聞くものを眠りの深海へと誘います。まだ何もされておりませんが、それでも良いと言うのなら」
「構わん。何もせんからそれで充分だ」
「何もしない?」
「おかしいか」
「いえ…では奏法を変えます」
撥を置き、指を添えると、力強い音から一転して、繊細な音色に変わった。
流れるような旋律に、絡められたように動けないでいる。
その旋律は、尚隆を眠りへと誘う。
絶え間なく襲ってくる眠気に、抗おうと身を起こそうとした時にはすでに遅く、崩れるようにしてその場で眠ってしまった。
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