ドリーム小説
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麹塵の袍 =10= どれほど待っただろうか。
長くもあり、短くもある時の終着点は、もちろん諷詠が戻ってきた足音によってだった。
姿勢を正して顔を引き締める。
しかし、入り口からは背を向けて立っていた。
「景台輔、お待たせ致しました」
「の事で、言っておきたいことが…」
「お待ち下さい。ここではそれをお聞きする事が出来ません。こちらへ」
返答を待たずに歩き出した諷詠に、景麒は困惑気味についていった。
逗留していた紫連宮を抜け、諷詠についてしばらく歩く。
隧道を抜けると少し開けた場所に出た。
足首までの淡紅色の花が、風に揺れている。
「駒草苑が…。ここは初めて見る」
「景台輔でもご存じありませんでしたか」
「蓬山のすべて知っているわけではない」
「さようでございますね。特にここは複雑に隠れておりますから、分かりにくいことでしょう」
少し歩くと駒草は淡紅から純白へと姿を変え、さらに罌粟(けし)に変わっていった。
強い風によって赤や黄の花が舞い上がり、その様子を見ながら足を進めていると、色合いの違いに気が付いた。
丁度広場の中心にあたる部分である。
円形に青く染まった所があった。
鮮やかな色合いの、青い罌粟である。
「!」
思わず立ち止まる景麒。
青い中心には、布のようなものが見えている。
布の正体は罌粟と同じように青い襦裙だった。
人が横たわっている…。
「…」
それだけを呟くと、立ち止まった諷詠を通り過ぎて近寄る。
すぐ横まで来ると、間違いないと確証を持った。
青い花に囲まれた、青い襦裙。
幾度となく逢いたいと願った相貌がそこにある。
抉られたはずの首は青い罌粟が覆っており、傷が隠されていた。
手は胸の上で組まれている。
ぴくりとも動かないが、を失ったあの日から、何も変化はないように見える。
「諷詠…これは…」
「景台輔が驚く姿を、初めて拝見いたしましたね」
諷詠はそう笑って言う。
それでも何も言うことが出来ない景麒に、諷詠は静かに問いかけた。
「景台輔は近頃の梧桐宮をご存じですか?」
「梧桐宮?」
「ええ。金波宮のです」
問われて梧桐宮の様子を思い浮かべようとしたが、と話した時の事しか思い出せなかった。
今思えば、が宮城から出てからというもの、梧桐宮に足を運んでいない。
その思考を、瞳に浮かんだもので判断したのか、諷詠は景麒に続けて言う。
「大卜が…景王の命で宮城を出されてから、梧桐宮に詰める春官が次々と宮城から消えたのです」
それには様々な理由が存在する。
女として追い出された者、大卜の後を追った者、女の国外追放を聞いて国に絶望した者など、中には偽王に荷担するため、宮城を出た者もいたと言う。
しかし、それとがここにいる理由が、さっぱり繋がらない景麒。
訝しげな視線を諷詠に向け、説明の続きを促す。
「もちろん、一国の事情に蓬山が関わる事などありません。しかしながら梧桐宮に住む霊鳥は、天から王に与えられたもの。長く慶には大卜を始めとする、霊鳥を世話する官を失っていた。その為幾羽かが、霊鳥であるにも関わらず、衰弱し始めたのです」
驚いた顔の景麒に、諷詠は申し訳なさそうに言う。
「わたしが様子を見に行った時には…祭祀などに使う雉はすでに死に絶えておりました。白雉や鳳凰はまだ大丈夫だったようですが、鸞などは衰弱がかなり激しい有様でした」
ちらりとに目を向けた諷詠が、続いて口を開く。
「天が与えた鳥を、国に関わらないように助けようと、慶の出身であるわたしが下界に降りてきたのです。本来なら下山する事などない我々女仙が、慶をうろうろする事は、喜ばれる事ではないのですが…」
生まれ育った国の事、懐かしい思いに囚われた。
だが、思っていた以上に荒れているのを見て、様子を見に行く衝動に逆らえなかった。
首都から少し離れた街で、民の暮らしぶりを見て心を痛めている時に、妖魔騒動が起きたのだという。
偶然にもを見つけ、その様子に慌てて何も考えず蓬山へと運んだ。
玄君に頼み込んで、諷詠がすべてを面倒見ることで治療を許されたのだという。
「治療…?それでは、は…」
「ええ、死んではおりません。ただ、傷が深かったため、未だ目覚めておりませんが」
罌粟の花の中にを置いているのは、痛みを和らげる為だろうか。
しかし、が生きているのなら、それだけで良いような気さえする。
「景台輔、もっとお喜びなさいませ」
諷詠はそう言うも、景麒から声が発せられる事はなかった。
ただ眠り続けるを凝視したまま、深い色合いの瞳を反らせないでいる。
「積もる話もございましょう。わたしはこれで失礼させて頂きます」
軽く礼をして退がる諷詠。
景麒はまだ固まったようにを凝視していた。
時折吹く風が青い罌粟をも巻き上げ、一片がの頬に治まる。
そっと花びらを取り除くと、微かな息が景麒の手にかかった。
「…」
小さく呼ぶと、風が答えて花が舞う。
青い罌粟が景麒を取り巻き、ふいに視界を遮った。
目前で舞う罌粟を追って、横に向けられた顔。
そこには緋色が佇んでいた。
「主上…」
「驚いた。ちょっと迷ってしまって」
そう言うと静かに歩み寄る。
「?この人は…」
「前王によって追放された、慶の大卜でございます」
「大卜って言うと?」
「春官です」
「それだけじゃ分からない。もう少し具体的に」
「梧桐宮に於いて霊鳥の世話をする役職です」
「ああ、へえ…慶の人と蓬山で会えるとは思っていなかったな」
「わたしもです」
新王がちらりと見た宰輔の顔は、初めて見るような穏やかな顔をしていた。
こんな顔もするのかと少し驚いたが、つられるように笑って言った。
「早く目覚めるといいな」
「はい」
本当にと、強く心中で願う。
新王が罌粟苑から去って、どれほど経過しただろうか。
まだ明るかった空は赤銅色に染まり、しだいに暗さを増していった。
見上げると、四方を岩盤が囲んでいる。
空に続く岩盤、色とりどりの罌粟の花。
気候も穏やかに優しい。
そのためか、景麒はの側から離れる事が出来なかった。
前王が禅譲した瞬間と、を失った瞬間を比べると、を失った時の方が辛かったと、今はそう思った。
それは新たな王を得た事によって、過去の喪失が和らいだせいかもしれない。
「貴女のおかげで、わたしは王に巡り会うことが出来た…」
ただじっと見つめる先に眠り続けるのは、一度手放してしまった愛しい存在。
青い罌粟がを包み、静かに揺れている。
血の臭いはしない。
首を覆っている罌粟を除くと、やはり傷跡が現れるのだろうか。
ただ人なれば、完治は難しい。
生きていたことが、奇蹟に近いのだから。
「まだいたのですね」
ふいにかかる声に、景麒は顔を上げる。
諷詠がそこには立っていた。
景麒に微笑みかけると、諷詠は手に竹筒を持っての横に座る。
「景台輔、の首を支えてくださいますか」
「首を…?」
「はい。首の後ろを持ち上げて頂きたいのです。無理ならば一人でも出来ますが、なかなか時間がかかりますから」
「持ち上げても平気なのか?」
「はい」
景麒は諷詠の指示に従って、首をそっと持ち上げた。
の首から青の罌粟は落ちず、まるで体の一部のように首から離れない。
諷詠は竹筒をそっとの口にあて、静かに傾けていった。
中に入っている透明な水のようなものは、すっと吸収されるようにして消えていく。
「ありがとうございます。景台輔、お体に触り無いよう、お休みなさいませ」
極力揺らさないようにして、の頭を降ろした景麒は頷く事によって答えとした。
しかしいっこうに腰を浮かせる気配がない。
その意味が分かっているのか、諷詠は黙ってその場から離れていった。
空はすでに夜の風景を映しだしていた。
夜の闇にも一層鮮やかに咲き誇る罌粟の花や、空を埋め尽さんとする星ですら、景麒の瞳を奪うことは出来なかった。
ただひたすらを見つめ続けている。
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