ドリーム小説
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麹塵の袍 =9= 雲海に出ると真っ先に血を落とし、宮城へと戻った。
宮城は何も変化がないように思われた。
派閥争いがあっても、命を落とすことなどない。
災害に苦しみ、散って行くのはいつも民だった。
「蓬莱…」
行ったことがあるかと聞いた。
夢のような国なのか、行ったことがない景麒には想像も出来ない事だった。
「蓬莱へ…蓬莱?」
虚海の果てにあると言う蓬莱に思いを馳せると、何かが心の奥底から沸き上がる。
「これは…いや、まさか」
そうは呟いたものの、徐々に確信めいたものが景麒の心を支配し始める。
国中探してもいないはずだと、納得するまでに幾刹那もなかった。
その日の夜。
景麒は苦しみを伴う熱にうなされていた。
血の充満する街の中、血にまみれたを抱いていた為に、苦しむことになったのだ。
妖魔の現れた街から戻ってきた使令達は一様に、あまりにも凄惨な血の匂いを纏っている。
ゆえに助けを借りることもできず、景麒は一人苦しみながら蓬莱へと渡る事を心に決めた。
その後、体力を取り戻した景麒は雁に渡った。
胎果である王と宰輔に助言を賜り、蓬莱へと渡る為の準備に入る。
景麒の長い苦しみが始まろうとしていた。
王気を目指して、見知らぬ不思議な世界に降り立つ。
ゆらりと消えそうな錯覚を覚えて、ふとの事を思い出した。
が見たかったであろう、蓬莱と呼ばれる幻の国である。
しかし幻であるはずの世界では、自分の方が幻のようで、存在が消えそうになる。
その幻の世界に抗いながら進んでいた為か、の事は徐々に薄れていった。
いや、王気が近付くにつれてそれは薄くなっていたのかもしれない。
大きな箱形の建物のような場所についた頃には、すっかり念頭になかった。
「間違いない…」
そう呟き、吸い込まれるようにして建物の中へ進む景麒を、見た者は少なかった。
王気とは、形があって、形がないものである。
ゆえに、目前で王を見るまでは、女王などとは思ってもみなかった。
しかも気の弱そうな少女である。
追っ手から逃れて、呉剛門を開くのに一苦労であった。
しかし無事に慶へ行くことは出来ず、ようやく見つけた王とはぐれてしまった。
「…」
呻きさえ出すことが出来ず、景麒は身動ぎをした。
戒めの鎖が不快な音を立てている。
人型にもなれず、言葉を発する事も出来ず、征州城の一郭に篭められていた。
征州は北に雁を望む北西の州で、その州都は維竜と言う。
ここに先王の妹が、州侯と結託して偽王の拠点を築いている。
塙王が暗躍している事は分かったが、今の状態ではどうすることも出来ない。
囚われて如何ほどだろうか。
果てしなく長い時間を、この戒めと供に過ごしている事だけが分かった。
ただ国が傾いてゆくのを、見守ることしか出来ないのは、これまでに感じた事がないほどの苦しみだった。
天命のない王が麒麟を利用し、国主の座に着こうとしている。
これがまかり通るのなら、あの時を助けられなかった自分は、何だったと言うのだろうか。
舒栄が玉座に就けるのなら、命を助けるためにが玉座についても良いはずだ。
そう思ったが、すぐにその思考は消えていった。
どのように思おうと、天命のなかったと契約することは出来ない。
信念や正義の問題ではなく、生理的に無理な事だ。
本能が許さないのだから。
「…」
溜息さえ、声にはならなかった。
愛する王を失い、愛した人を失い、新たに見つけた王までも失った。
これ以上、何を失えばいいのだろうか。
もう、楽になっても良いのかもしれない。
景麒がそのような事を考えていた時だった。
開くはずのない扉が、静かに開けられ、緋色が瞳に飛び込んでくる。
「!」
驚いても声にはならない。
すべてを失ったのだと思っていた。
しかし、まだ失っていないものがあった。
麒麟、と呟いた少女は静かに歩み寄り、名を尋ねて鬣を撫でる。
武装した正統な新王は、景麒を繋いでいた鎖を断ち切り、呪をも断ち切る。
これが泣き叫んで助けを求めていた、蓬莱の少女だったのかと、まじまじと見つめる事を止められない。
弱気だったさきほどとは違い、歓喜が沸き上がってくるのを感じていた。
もちろんそれが口調に出るわけではないのだが…。
新王の先導で雁州国へ向かい、そこで再会した新王と長く離れて療養をした。
離れているといっても、今までよりずっと身近に居ることを感じる事が出来た為、安心して療養する事ができた。
王の血の臭いがとれ、景麒の体力が回復するのを待って、蓬山へと出発する事になっている。
蓬山には諷詠がいる。
そのせいか、景麒の表情は蓬山行きが近付くにつれ、知らず強張っていた。
諷詠に会えば、告げなくてはならない。
がこの腕の中で息を引き取った事を。
鬱々とした気分はいつもの無表情よりさらに酷く、機嫌が悪いようにさえ見えた。
それに気が付かぬまま、ついに新王と供に蓬山を目指す日が訪れてしまった。
蓬山に降り立つと、すでに数人の女仙が出迎えていた。
その中に諷詠の姿はなく、ほっと安心して主の後に続く。
「蓬山ってのは、随分静かなんだな」
新王が独り言のように言った。
自分に問いかけている訳ではなさそうだったので、何も返す事はせずに黙ってつき従う。
蓬山には出迎えた女仙以外、人の気配はなく、閑散としていた。
蓬山公がいないせいもあるだろうが、何やら寂しい感じは拭えない。
天勅を明日に控え、今日はそれぞれ休む事になった。
一人になると、女仙が世話の為にやってくる。
さすがにその中には諷詠もいた。
「景台輔、お久しゅうございますね」
「…」
「まあ、そのように恐いお顔をなさっていては、新しい王に怖がられておしまいになりますよ」
軽く笑った諷詠の軽口に、景麒は何も返す事が出来なかった。
変わりにじっと諷詠を見つめて、の事を思い浮かべる。
蓬山にいた頃、それですべてが通じたように、これで分かってくれるのなら、と、少々卑怯な思いがあったことも否定は出来ない。
「ああ、景台輔。夕餉はいつになさいますか?」
問われてもなお、じっと見つめる景麒の視線に気が付かないのか、諷詠はちらりと目を合わせはしたが、長くは見てくれなかった。
故意なのか偶然なのかは判じかねるが、こうなっては口に出して言うしかない。
「諷詠…話したい事が…」
「誠実そうな女王でございますね。改めてお喜び申し上げます、景台輔。貧困に苦しむ国であることに変わりはございませんが、私の生まれたかつての故国…慶をよろしくお願い申し上げます」
その言によって、の事を口にする事が出来なくなってしまった。
ただ頷いて答えとした景麒は、完全にきっかけを失った。
どうしたものかと考えても、何も良い案は思いつかない。
それでも棚に茶器を揃えていく諷詠を見ながら、必至に考えていた。
「諷詠、頼む」
こんな言葉しか出てこない。
「…ああ、そうそう」
「諷詠」
少し強く出た声が、諷詠の動きを止めた。
「から…伝言が」
しかし諷詠は首を振って景麒に向き直った。
「それを聞く為には、しばしお待ち頂かねばなりません」
やはり諷詠は瞳に宿る意思を読みとったのだろう。
心の準備がいると言うことなのだと、景麒は理解して頷いた。
「すぐ、戻って参ります」
戻ってくれば、の事を話さねばならない。
最後に彼女の語った言葉を伝え、諷詠に残した言を伝えねばならないのだ。
血にまみれた自らの腕を、今もはっきりと思い出すことが出来た。
血の臭いに逃げたいと思う本性と、命の灯火が消えかかったから、離れられなかった心情とが渦巻いていたあの瞬間。
それをまた思い出しながら語らなければならないのだ。
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