ドリーム小説
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麹塵の袍 =13= しばらくして、は鸞を手に戻ってくる。
王の在所まで持って行くつもりであったが、王はその場に留まって待っていた。
「まあ主上。正寝の方までお持ち致しましたのに…」
「え?あ、ああ…うん。ありがとう」
「これからは使いを下されば、すぐにでもお持ち致しますわ」
「うん、そうする。ありがとう」
王はそう言うと鸞を受け取り、その場から去ろうとした。
しかし、すぐに足を止めてを振り返る。
「雁まで、何日で行くのかな?」
「雁でしたら三日ほどで…」
最後まで言えずに、は何かを思いだしていた。
確か、現在の王は雁の禁軍を借り受けて、偽王の乱を鎮めたと聞いた。
では、雁国へ飛ばす鸞、受取人は延王であろうか。
「雲海の上でしたら…」
「ああ、いい。下だから」
「雲海の下でございますか?」
「うん、雁の大学に友達がいて、そこに放つから」
「さようでございましたか。差し出がましいことを申しました」
「いや。…そんなに堅くならないでほしいな。大卜のような若い官吏は少ないから、もっと気さくにしてくれるとありがたい」
そう残すと、鸞と供に梧桐宮を後にする主。
「複雑な感情が渦巻く瞳。主上…」
まさに様々なものが、内から見え隠れしている。
それに加えて、やはりこちらにあまり馴染みがないのか、言動に戸惑いを色濃く感じる。
それが分かっているのか、ちらりと弱気な感情が見え隠れしていた。
そうなると、前王を思い出さずにはいられない。
「大卜」
再び、落ちくぼんだ所に陥りそうになっていたは、呼ばれた事によって急激に浮上するような錯覚を覚えた。
金波宮に戻って四日が経過していた。
一番逢いたい人物の声が、その背後から聞こえたのだった。
大卜と呼ばれたのは、いつ以来だろうか。
「台輔…」
表情を取り繕う為に、しばらく振り返る事が出来なかった。
「先程主上が来られたと思うのだが」
急激に心の膨らみがしぼんだのを感じた。
予王を思い出したのだ。
西宮に逃げてきた王を追って、宰輔がやってくる。
その繰り返しを何度見たことだろう。
日増しに見るのが辛くなっていく光景を思い出したのだった。
「先程参られましたが…今はもう正寝かと」
「そうか」
振り返らないまま言ったは、そのまま踵を返す宰輔の音を感じ取っていた。
それが一層切なく心に痛い。
「大…いや、」
改めて名を呼ばれて、は驚いてしまった。
背をむけたままの景麒に、驚愕の表情を露わにしたまま固まっている。
「今宵、お時間よろしいか」
「え…」
「忙しいのなら、いつでも構わないのだが…」
そう言うと、振り返る宰輔。
目が合うと、首を振っては言った。
「いえ、大丈夫です!」
「では今宵」
「はい」
深く頭を下げたの先で、宰輔が去りゆく音が小さく聞こえていた。
言われた通り、宵の頃。
西宮を退出してきたと、仁重殿に戻る景麒は偶然にも合流する事ができた。
そのまま仁重殿へ戻る宰輔に従い歩いていく。
それもまた、に様々なものを思い起こさせた。
王に何か生き物をと言った事もあった。
諷詠が蓬山に居ると聞かされたのも、景麒の房室ではなかっただろうか。
やがて懐かしい房室が現れる。
今も変わらず、同じ場所にいるのだと思うと、何やら不思議な感じがした。
「不思議ですか?」
見透かされたのか、房室に入った直後、そのように質問が飛んできた。
「ええ、少し…。懐かしさもございます」
頷いた景麒は昔のように、座るよう言った。
向かい合って座ってしばらく、景麒はぽつりと呟く。
「あの時は、まだ舒覚様がご健在であった」
以前、が来た時の事を言っているのだろう。
「あれからもう何年か…」
「随分経つようでもありますし、ほんの先日だったような感覚もございます」
景麒はそれに頷くと、しばらく沈黙を守った。
ややして静かに言う。
「わたしはここで…失道と言われる病にかかった」
突然言い出した景麒の言に、は目を見開いた。
「失道…」
が宮城を出ていた時だ。
噂には聞いていたが、当の本人から聞くと、やはり現実感が生まれる。
それに伴う苦しみもだ。
「お辛い時期だったのですね…」
「病に冒されて苦しかったのは、王を失う可能性が日々増えていると言う事実。辛いと言えばそれか…」
しかし、と景麒は続ける。
「それよりも、がこの腕の中で動かなくなった時の方が、心に受けた痛手が大きいと感じた」
さらに驚いてしまったは、ただ食い入るように景麒を見つめる。
「青い罌粟に守られていた…あの場所で見たを忘れることができない」
どれほど嬉しかったか、どれほど天に感謝した事か。
しかし景麒のその思いは音にならず、ただ瞳の中で静かに揺れていた。
変わらぬ表情の中に、微かに浮かんだ喜びを感じ取るのは通常なら無理だろう。
しかしには充分だった。
その心根が嬉しく、込み上げてくるものを止める事が出来ない。
「台輔…」
卓子に涙が落ち、小さな水泡を作り出していた。
かたりと鳴る椅子の音が聞こえたが、顔を上げることが出来ず、ただ溢れるものを押さえ込もうと必死になっている。
ふいに、肩に置かれた手。
直後、その手は優しくを包む。
「台輔…台輔」
振り返るとしがみつくように腕を伸ばし、その胸元に顔を埋めて泣く。
戻ってくる事が出来た喜びを、全身で感じていた。
その数日後、即位の儀があった。
かつてないほどの大きな歓喜が、金波宮を包んでいる。
時折聞こえる溜息すら、かき消されるほどであった。
「それにしても、ご立派でしたね」新しく入った春官の若い官吏が、やや興奮気味にに言った。
「ええ、とても凛としておられて。今度の主上は、どこか凛々しさがございますね」
「わたくしは前王を存じあげませんので、比較することは叶いませんが、大卜の言われることは分かるような気が致します」
「先の王…予王は強さにこそ欠けておりましたが、とても慈悲深いお方でした」
「さようでございましょう。我々に台輔を残してくれたのですから」
「ええ…本当に」
それこそが、一番感謝すべき事だった。
国民としても、一人の女としても。
偽王の乱の関係か、即位式までに随分と日があった。
このまま冬至を越してしまうのではないかと囁かれていたが、さすがにそれはなかったようだ。
「春官あげての、忙しい時期が参りましたね。まだまだ覚えねばならない事もございましょうが、今しばらくは祭祀に向けて専念しましょう」
「はい」
小気味よい返事を聞きながら、は梧桐宮を後にする。
春官府に赴き、大宗伯や他の春官と、祭祀についての合議が待っていたのだった。
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