ドリーム小説
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麹塵の袍 =16= 手の空いた天官は通り道の扉を開き、先に進んで湯浴みの準備をさせた。
の指示によってである。
体を洗って血を流し、新しい袍に着替えてもらったが、苦しそうな表情は変わらない。
牀に横たわって、喘ぐような呼吸が続いている。
黄医が駆けつけてきてようやく、天官と供に退出した。
「大宗伯、ありがとうございました。とっさのご判断、見事でございました」
「いえ…驚きましたが、夢中で差し出がましいことをしてしまいました」
「差し出がましいなど、とんでもない。我々だけでは、きっと狼狽えて何も出来なかったでしょう。本当にありがとうございます」
「いえ、お役に立てたのでしたら光栄ですわ」
治療の行われている房室の扉を見てそう言い、春官府に戻ろうと再び歩き出す。
しかし仁重殿を抜ける直前、報告に来た者と出会い、その報告を受けてしまった。
中に入れないからと、報告を持ってきた人物はすぐさま戻り、この場に留まっていて良いのか分からないもまた、しばらく動けないでいた。
しかし届けなければならない報告だと判断し、再び治療の行われている場所まで戻った。
先程いたはずの天官はすでにおらず、房室の前に立ち再びどうしたものかと考える。
すると、どこからともなく声が聞こえた。
「大宗伯」
首を左右に振って声の主を捜したが、見つける事が出来ない。
軽く首を傾げていると、再び声がした。
「台輔のお側についていて戴きたい。我々は多く血を被りすぎた。主上の警護に戻ると、そうお伝え願えますか」
内容によって、景麒の使令だと分かった。
姿を現さないのは、驚かせない為だろう。
「はい。どなたがそう言っていたと伝えればよろしいのでしょう」
「驃騎がそう言っていたと、お伝え下さい。芥瑚は宮城に戻りますが、しばらくは出てくる事ができません」
「確かに賜りました」
がそう言った所だった。
房室の扉が開いて黄医が出てくる。
に目を止めると、安静にしていれば良いと言って退がった。
は黄医と入れ替わりに房室に入った。
中では景麒の苦しげな息づかいが聞こえている。
そっと歩み寄って覗くと、薄く瞳が開かれた。
熱があるのか、顔がうっすらと赤い。
しかしそのせいか、少し潤いを帯びた瞳の色合いは澄んだものだった。
深いその色合いに魅せられて、はしばらく動くことが出来なかった。
見つめ合ってしばし、景麒が口を開く。
「ご心配をおかけしたようで」
「いえ。お苦しそうでございますね。何かご用命があれば、遠慮せずに言いつけてくださいませ。それから台輔に伝言です」
その会話によって、ようやく反らせることができた視線。
椅子を引き寄せながら驃騎に頼まれた事を伝えた。
それを受けた景麒は、天蓋を見つめながら呟いた。
「芥瑚」
「お側に」
苦しそうな女の声が、どこからともなく聞こえた。
「驃騎や班渠は」
「さほど影響はないかと思われます」
「そうか」
安堵の息が漏れ、景麒の表情が少し和らいだ。
しかしはまだ伝えていない事があった。
瘍医の診断結果を持った報告を受けていたのだ。
景麒がこうして倒れる原因となった少年の容態を、告げなくてはならない。
「あの…台輔。さきほど、瘍医の許から来た官吏から伝言を預かっておりまして」
静かな視線がに注がれる。
「息はあるようです。ですが…助かるかるものかどうか…」
小さな男の子だと聞いた。
一体何があったのだろうか。
「瑛州固継の里家にいた子童で…」
の疑問を読みとったのか、そのように語り出そうとしている。
苦しそうに眉根を寄せた景麒に、は次の言葉を手で制して言った。
「今は台輔もお休み下さい。かように眉を寄せておられては、回復いたしませんよ」
そう言うと、ふっと笑う顔があった。
「眉と体調とは関係ない」
よほどおかしかったのか、そう言いながらも顔は笑っている。
「いいえ。全身の力を抜かなければなりません。体調の悪い時は、沈むように寝るのが一番ですわ」
「大卜もやはり同じように?」
「ええ。今は体調など崩しませんが、ただ人であった頃はそうでございました。つい数ヶ月前も…ただ人でありました。ゆえに、蓬山で眠り続けておりましたでしょう?台輔に起こしていただくまで…」
一瞬、息を呑む音が聞こえた。
「わたしが起こした訳では…」
「いいえ。台輔のおかげで目覚める事が出来たのです。私を呼んで下さった」
「声はさほど…」
出せなかった。
その景観に溶け込むように存在した、に魅入られてしまったからだ。
「聞こえたのです。何度も、何度も…心の声が。瞳を見ずとも聞こえてきたのです。台輔の声に呼ばれて、お顔を拝見したくなったのです。呼ばれるままに意識を向けると、瞳を開くことが出来ました。そして見えたのです」
青い花の舞い踊る世界に、金の髪が揺れていた。
瑠璃色の瞳はどこまでも深く澄んで、を映しだす。
煌めく星、青い罌粟、金の髪。
すべてが鮮明に思い出せる。
夢を見ているのだと思わせるほど、現実味のない景色だった。
「…」
ふいに呼ばれた名に、は息を呑んで景麒を見た。
「水を」
喉が痛いのか、再び眉には力が入っていた。
急いで水差しを取り、景麒に差し出そうとしたが、思いとどまり言った。
「失礼を」
首の後ろに手を添えて、そっと持ち上げると、ふと景麒が笑うのが分かった。
何だろうと疑問に思ったが、先に水を飲ませて、首を降ろした。
水を飲み終えた景麒に、は問いたげな視線を投げる。
「逆だったか…」
ぽつりと景麒が言うので、首を傾げて言う。
「逆、とは?」
「今と逆だった。蓬山では、わたしがの首を持ち上げ、諷詠が薬をのませていた」
「で、では私は、台輔に薬を飲ませて頂いたのですか?」
小さな頷きがそれに答え、は赤くなって俯いた。
しかしそれに気がつかないのか、景麒は追い打ちをかけるように続ける。
「だから、今のの心境がよく分かる。きっと、同じであっただろうから」
それによって、ますます赤くなるのを、どうやっても止めることは出来なかった。
今のの心境とは、景麒を気遣う事はもちろん、早く良くなってほしいと思っている。
だが首を持ち上げる際に、限りない愛しさが込み上げてきた。
そこまで分かって言っているのだろうか。
「もちろん、分かっている」
「台輔…とても…嬉しく思います。少し気恥ずかしいですが」
赤いなりにも顔を見せ、にこりと微笑みを見せる。
「でも台輔。話はそろそろお止めになって、瞳を閉じていただきませんと…お体に障りますから」
「まだ、大丈…」
「こ、これ以上は…私が恥ずかしさで参ってしまいます」
微かに笑う景麒の瞳が、徐々に閉じられていく。
ほっと安堵したは、それでもその場から動かずに見守っていた。
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