ドリーム小説
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麹塵の袍 =17= 景麒が目覚めると、腕に重みを感じた。
首だけを持ち上げて見ると、が椅子に座ったまま、牀(しんだい)に俯せて眠っている。
そっと半身を起こした景麒は、の乱れた髪を射し込む陽に添って、すっとかきあげる。
微かに身を捩(よじ)る。
微笑ましくそれを見つめていたが、まだ幾分か気分がすぐれない。
牀を動かさないようにして移動をし、窓を開けに立つ。
流れる空気は冷涼で、肌寒さが心地よかった。
しばらく窓の前に立って、瞳を閉じる景麒。
流れていく風は穏やかであったが、国情を思えば冷たさが染みる。
「台輔…」
呼ばれた声に驚き、振り返った景麒。
その視界にの悲しげな相貌があった。
「まだ寝ていなくては。それにお体が冷えてしまいます」
その冷たい風が、の目を覚まさせたのだと気がついた。
「引き留めてしまったようで申し訳ない。大卜も休まれるが良いだろう」
「私は台輔のお側についていたいのです。ご迷惑ならすぐにでも退出いたしますが、お許し下さるのな…」
「迷惑ではありません」
被さるように言うと、は笑って窓に手を伸ばした。
「空気の入れ換えも、房内を冷やさぬ程度に」
窓を閉めると、景麒を促して牀に戻す。
あまり寝ていないと予想されるに向かって、景麒は横たわりながらも様子を伺っていた。
「いつか…」
ぽつりとが言うので、顔の全体を捕らえていた景麒の瞳が一点に集中される。
その点はの瞳に注がれていた。
「再び戻ってきましょうか。台輔が初めてこの金波宮に来られた時に思ったことが」
何の事だろうかと、景麒の瞳がに問いかける。
「金波宮。その名に恥じない王朝が…」
「王が不在の今、そのような事を思う官吏がいようとは思っていなかった」
「確かに…不安ではございますが」
はそう言うと、近くに置かれていた景麒の手を握って言う。
「台輔が選ばれた王、今度こそは長い治世を敷いて頂きたいと思うのは、国民の悲願でございましょう?」
揺れる瞳が景麒を捕らえた。
今まで起きた事を一気に思い出したのか、それとも近頃の忙しさに押しつぶされそうになっているのか。
「確かに…前冢宰や前六官長などは、そのように考えていないだろうが」
そう言うと、は同調したように頷いたが、すぐに口を開く。
「小娘と侮ってはなりませぬ。主上の瞳の中には、壮絶な思いが籠められておりました。深く不思議な瞳のお方です。その中に、大きな苦悩が見えるのです。決して人には晒さぬ苦悩。心の中の葛藤。それらに立ち向かう強さを、瞳が語っております」
「いつもながら、感心する。大卜の目にかかれば、隠し事など到底出来ない」
笑った景麒はの瞳から目を反らし、遙か遠くを見つめるようにして言った。
「あの方は…お強い。心がとても強くていらっしゃる。迷いながらも、きっと良い方向に慶を導いてくれることだろう」
「そうですか」
にこりと笑うに目を向け、そのまま瞳を閉じる景麒。
気怠い眠りが待ち構えていたようで、そこへ落ちるまでに幾分もかからなかった。
次に目覚めたとき、はどこにもいなかった。
ぴっちりと閉められた扉に目を向けたが、朝か夜かは分からない。
はどこにいるのだろうか。
大宗伯として政務に従事しているのか、それとも帰って眠りについたのか。
そう思っていると、房室の扉が開かれる。
「台輔、起きられたのですね。朝餉になさいますか」
のその言で、どれほど眠っていたのかを知った。
明るい笑顔で景麒に目を向けるを、しばらく観察して口を開いた。
「少しは休まれよ。看病して倒れては元も子もない」
「大丈夫ですわ。ただ人ではありませんもの。倒れるほど、疲れてはおりませぬ」
「しかし…」
「台輔は何も考えずにご養生下さいませ。私は台輔に起こして頂いたのです。側について、声をかけていただいた。それがなければ、未だ蓬山で眠っておりましょう」
はそう言うと、景麒の側まで寄ってきて続ける。
「私は…王に…、いえ、先の王が道を踏み外す一因になってしまったように思っております。王に憎しみの目を向けられてしまいました。殺したいほど、憎まれたのです。これ以上の罪がありましょうか」
「のせいではない。主上をお諫めするべきは麒麟の責。選んだ主を正しき方向へと導けなかったのは、わたしの責…」
ただの娘に戻りたかった予王は、最後の瞬間まで王であった。
慶の民を思い、宰輔を生かした。
一緒に連れていこうとはせずに、自らが罰を受けることで民を救おうとした。
他に道がなかったとはいえ、あまりにも悲しい人生だ。
景麒がそう考えていると、が口を開く。
「空位になって荒れ始めた国土を眺めては、あの時台輔と出会わなければと…そう考える事を止められません」
「だから、それはの責ではなくわたしの…」
景麒の言葉を遮って、はなおも言う。
「ですが、こうしてお側にいると、とても満たされるのです。そう思うこともまた、止められないでいるのです」
「…」
言葉が詰まったのか、景麒はその名を呼んでから次の声が出てこない。
それを分かっているのかいないのか、遠くに目を向けて言う。
「天福がこの身に降り注いでいるのですわ、台輔」
の視線の先には、予王の残像でも見えているのか。
それとも蓬山に思いを馳せているのか。
西を向いているのは偶然だろうか。
夜の雲海。露台の欄干に手を置いて眺めると、静かな細波(さざなみ)が鮮明な月明かりに照らされて見えている。
はまだ仁重殿にいた。
景麒が眠っている間に休憩をとりながら、宰輔の身の回りをすべて引き受けている。
元冢宰である現在の太宰は忙しいのか、のやりように反対することはなかった。
人員が少ないと言うこともあったのかもしれない。
だが何よりも大きいのは、が大宗伯としての債務を放棄している事にあったのかもしれない。
女御のように働いていれば、大宗伯として春官府に赴く事は目に見えて少ない。
いや、むしろ皆無に近かった。
しかし、そこも考えなしではない。
今は三公へと移動になった元大宗伯に、その権限を譲っていた。
春官に対してのすべての指示は、元大宗伯から発せられる。
もちろん、三公と兼任している訳ではない。
現大宗伯が、執政に困って元大宗伯に指示を得ると言う体裁である。
元大宗伯から届いた書面に、が決裁を出して春官府に届けられる。
届けられる大宗伯の書面に目を通しながら、はやはり自分には無理だと痛感させられた。
例え仮とは言え、無理なのだと思い知るには、充分なほどの書面だった。
自分が大宗伯の器に満たない事を思い知らされるようでもあったが、そこに任命してくれた大宗伯の心根が嬉しかった。
『鳳飢えても粟を啄ばまず』の信念の元、官吏としてこの宮城に留まって来た成果なのだろうと思う。
麹塵の袍は枷だ。
心の悪を戒める、なくてはならぬ枷。
あるいは気高い霊鳥から受ける、恩恵なのかもしれない。
正しく生きることが、まだ難しい国ではあるが、このままこの王朝が消える瞬間まで居たいと願う。
何故ならこの王朝が終わるときには…
「」
ふと、途切れる思考。
露台にいるのにはっきと聞こえた景麒の声。
「台輔…起きられて大丈夫なのですか?」
振り返って問うと、頷きが返ってくる。
「姿が見えないので」
もしやと思ってしまった。
まだ仁重殿(ここ)に居ることを知って安堵する。
「お倒れになった台輔を放置して、消える事など出来ましょうか」
雲海から吹き込む風が、の髪を揺らす。
「冷たい風が吹いております…地上はここよりさらに寒いのでしょう」
「主上がその空の下におられる」
「ではやはり雁の王宮におられる訳はないのですね」
がそのように聞いた直後、何者かの声が景麒を呼んだ。
「台輔」
以前に聞いた事があるような声だった。
使令の声だろうと判断し、軽く礼をしてその場を離れた。
房室内に戻ると、暖かさが心地よかった。
しばらくすると景麒も中に戻ってきたが、その表情は硬く険しい。
「どうかされましたか…」
「明日は朝議を開く。主上からの指示を持って」
「では、私は退出して明日に備えましょう。退出ついでに使いを各六官長の官邸に送ります。明日、朝議が有ることを触れていたほうが良いでしょう」
ただ頷いて答えとした景麒に、再度礼をしてその場を離れようとした。
だが、何かに手を引かれてその足を止めた。
景麒がを引き留めるように手首を掴んでいる。
「荒れるかもしれない。充分に気を付けられよ」
真剣な眼差しが、事の深刻さを物語っていた。
「台輔も、お気を付けになって…」
互いに頷き交わし、その日は別れた。
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