ドリーム小説
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麹塵の袍 =3= 諷詠の話を聞いた一件以来、景麒は頻繁に梧桐宮を訪れるようになった。
言葉は少なかったが、諷詠との思い出をぽつりと語っては聞かせてくれる。
それはの瞳の中に、話して欲しいと願う感情が見えたからだと言う。
途中で王が迎えに来ることも多かったが…。
しかし、それによって宰輔がの心の中を占める割合が増えてしまった。
自嘲的に呟く大卜(だいぼく)。
自ら曰く、『蜘蛛が網を張りて鳳凰を待つ』だと。
蜘蛛(ちちゅう)が網(あみ)を張りて鳳凰を待つとは、身の程知らずと言う意味を持つ。
これには困り果てている。
一度抱いてしまった感情を、どうする事も出来ないまま数ヶ月が過ぎていた。
その間、梧桐宮には王もまた、よく渡ってくるようになっていた。
宰輔を迎えに来る以外にも、である。
鸞を使用するのだと言って来るのだが、その鸞が飛び立った例(ため)しはない。
それを知っていて容認している。
梧桐宮の静寂さが、王に好かれたのだろうと推測した。
そして、王を迎えに来る宰輔。
いつも咎めるような口調である。
それを聞いている限り、王は派閥争いの波に呑まれ、冢宰らに責め立てられ、宰輔にまで意見をされ、逃げるようにして西宮に来ている事が分かった。
西宮は内宮である。
追って来ることの出来る者は限られている。
梧桐宮はすっかり逃げ場所となってしまったのだ。
しかし景麒が責める内容は、王としての債務を果たさなければいけないと言う、ごく当然の事だった。
それを果たさなければ、天命を失ってしまうのだと。
ただし、そこの部分だけは言外に含ませてある。
それを王が理解しているかどうかは分からない。
ただ、宰輔に向けられていた、憧れを見るような視線は、今の王にはなかった。
己の半身だと言うのに、怯えきった表情をしている。
霊鳥を愛でている時は穏やかで優しい表情をしていると言うのに、景麒が来たと分かるととたんに萎縮してしまったようになる。
恐ろしい官吏の中に戻す、酷い人物が来たかのような瞳をに向け、いないと言ってほしいと何度も懇願するのだ。
それでも仕方なく引き受ける。
「お待ち下さい、宰輔。この先に王はおられません。どうか…」
しかし景麒はいつも見抜いている。
の背後に隠れている王気を。
「麒麟につまらぬ嘘はつかない事だ。通されよ」
無造作にを払うと、何の躊躇いもなく中へ進もうとする。
いつもはそこで平伏し、抵抗を止めてしまうのだが…
「お待ち下さい、台輔」
扉にかけられた手が止まる。
「私は今、王はいないと申し上げました。これが何を意味するか、お分かりになりませんか」
静かに振り向いた景麒は、を軽く睨んでいる。
その視線に、恐れと畏怖で震えが起きようとしていた。
身分をわきまえず、宰輔に意見してしまった事に対する恐れ。
神獣の視線を真っ直ぐ受けてしまった事によって起きた畏怖。
ただの大卜(だいぼく)に、それらに立ち向かうほどの覇気があるはずない。
しかし、震える体を叱咤するように、は拳を握りしめて言った。
「少しは主上のお気持ちを汲んで下さいませ」
「日増しに政務の滞りが増えている。これ以上遅れては…」
「誰でも…このような状況では逃げたくなりますわ…。焦ってはいけません。長い空位の末にやっと現れた王を、こんな形で失ってはなりません」
「しかし…」
「主上は台輔しか頼る方がおられないのです。その台輔までもが主上を責めてどうなりましょう?気性の穏やかな、お優しい方でございます。どうか…」
分かったのか分からなかったのか、景麒はしばらくに目を向けていたが、無言で踵を返した。
怒っているとも、理解したのとも、どちらにもとれるその行動。
景麒の姿が消えると、思わずその場に座り込んでしまった。
ようやく緊張が解けて、胸が大きくなり始めた。
鼓動は早い。
体全体が震えている。
あの視線を受け止めることが出来る者など、この世に存在するのだろうか。
王は…受け止める事が出来るのだろうか。
いや、出来るのなら、こんな所に逃げて来たりはしまい。
「大卜、景麒は…」
背後から消え入りそうな声が聞こえる。
急いで扉を開けて中に入ると、にこりと笑みを作って言った。
「大丈夫ですわ、主上。本日の所は養生なさいませ」
雉を抱きながら、泣きそうな表情をしている王に、続いては言う。
「主上は、生き物がお好きですか?」
「え?…ええ。とても心安らかにしてくれますから」
「さようでございますか。では、何か生き物を飼われてはいかがでしょう?」
「でも…また怒られてしまうわ」
「そのような事がございますか」
「いいえ…いいえ!あたくしが何かを言えば、みんなが反対を始めるのです。何一つとして、聞き入れられた事がありません!」
ついには涙を流し始めた王に、はあやすように背を撫でた。
「それならば、私が台輔にお願いして参りましょう」
「本当に?大卜、本当に?」
「ええ、嘘など申しません。台輔はいつでも主上の事を思っておられますもの。主上たっての願いを、聞き届けないはずございませんわ」
「景麒が…あたくしの事を?」
「ええ、麒麟とは、そのような生き物だと聞いております。主を思わない麒麟など、この世に存在しないのです」
王を諭すように言いながら、は自らの心が軋んでいる事に気が付いた。
そう、王を思わぬ麒麟はいない。
には恐ろしく感じたあの視線が、そのまま王に向けられる事はないのだ。
何をどう頑張っても、は王ではない。
思いを通わすことなど、出来はしないのだから。
懐柔するように王を宥め、は宰輔の住まいである仁重殿へと赴いた。
台輔に謁見を求めると、意外にもすぐに許可が下りた。
「失礼致します」
中に入ると、静かな瞳の景麒がを見ていた。
やはり、心がはねる。
「主上は…」
「はい。今は自室へ戻られております。そこで台輔にお願いがあります」
ただ頷く景麒に、は心を静めようと心がけながら言う。
「主上に、何か生き物を差し上げてほしいのです。小鳥でも子犬でも構いません。それらによって、心安らかになられる事を願って…」
「それは、主上に聞いてみません事には」
「主上が望まれた事なのです」
がそう言うと、景麒の動かぬ表情の中に、僅かな変化が訪れた。
いや、厳密に言えば、その紫眼の中に現れた。
今度はがまっすぐ見る。
その瞳に現れたものを、瞬時に読みとると、すぐに目を反らす。
景麒の瞳に現れたのは孤愁であった。
半身である己よりも、に告げたのは何故だろうかと考えているようにも見えた。
「台輔…。本当に差し出がましいことばかり申しまして…でも台輔、そのように悲しいお顔をなさってはいけません…」
「悲しい…わたしが悲しい顔を?」
「はい、瞳がそのように語っておられます」
そう言うと、景麒は溜息をついて椅子に座った。
に顔を向けて静かに言う。
「大卜もかけられよ」
「いえ、そんな恐れ多い」
「気負うことはない。大卜を見ていると、諷詠を思い出す」
諷詠(ふうえい)の名が出たことによって、の緊張が少しだけ弱まった。
「では、諷詠に感謝してかけさせていただきます」
は椅子に腰掛けたが、瞬く間に沈黙が房室を包んだ。
景麒が何を考えているのか、それをあれこれ想像して次に備えようとしていた。
「諷詠も…」
ぽつりと景麒が言うので、はその瞳に注目した。
視線が合うことはなかったので、そのまま見つめ続ける。
「諷詠も瞳から感情を読むのが得意だった。わたしは…あまり話すのが得意ではないので、諷詠のような女仙はとても楽でよかった」
そう言われて、は一つの事に思い当たった。
それはまだ二人が小さい頃。
二人で口を閉ざし、何を考えているのか当てあう遊び。
それは大きくなってからも、しばし行われた。
互いの些細な動作や、目の動きなどで判断するのだが、何よりも瞳の表情を読むようになると、面白いぐらいに言いたいことが分かるようになった。
そのせいか、は相手の瞳をじっと見つめる癖があった。
それを景麒に言うと、知っていると返ってきた。
「同じような癖を持っているから、すぐに分かると諷詠が」
初めに瞳が合ったとき、が諷詠の友だとすぐに分かったのだと言う。
「では、お互いまだ治っていないと言うことですね。いつまでも子童のような事をしてと、お笑いになって下さいまし」
「笑いません」
真面目な表情で言った景麒が、何やらおかしかった。
言葉にこそ出してはいないが、諷詠に感謝しているのが分かる。
「王にも、それが出来れば良いのだが」
「それは台輔、通常では無理でございます。私と諷詠は少し変わっていたのですわ。通常、思っている事は口に出さねば伝わりません」
「大卜が口に出さずとも、わたしには分かります」
だからさっきも退いたのだと言いたいのだろう。
「では、台輔も特別なのですわ」
そう言うと、は笑うのをやめて景麒に向かう。
「主上は今、迷っておられるだけなのです。慶は仮朝に慣れております。覇権を競う者達が、主上を苦しめているのですわ。あのように官同士が拮抗する中に放り込まれれば、誰でも逃げたくなってしまいます」
「しかし主上はずっと逃げておいでだ。このままでは…」
「天命があったのでしょう?それならば、大丈夫ですわ」
「天命はありました…」
しかし、と景麒の瞳が動く。
表情にも変化が訪れる。
瞬時に読みとったは、驚いて景麒に言った。
「台輔…それは…」
王と宰輔が金波宮にやってきた初日、不安に揺れる瞳を確かに見た。
今、景麒が思っている事が、その原因だったのだろうか。
「…」
「真実、天命であったのでしょう?ならば、信じるより他に…いいえ、台輔。そのようなお顔をなされてはいけません。台輔が王を信じねば、誰が王を信じると言うのです」
「それは…」
「確かに、主上は心の優しい方です。優しすぎるほどに…だから、朝議等、官達の中に入るのが恐いのですわ」
「それらから逃げていては、何も解決しまい。天命が去る前に、わたしは麒麟として主上を正しい道へと導く義務がある」
「天命が…去る…」
「努力していただかなければ、天はあの方を見捨ててしまうでしょう」
「しかし…」
はそれ以上何も言えなくなった。
登極から僅か数ヶ月。
よもや天命が去る可能性があるなどと、宰輔の口が言うとは思わなかった。
気が付けば椅子から立ち上がっていた。
無表情な景麒の顔が、それを見ている。
瞳には、苦渋が満ちていた。
「何か…生き物を飼ってそれを回避出来るのなら、容易い事です。さっそく手配いたしましょう」
景麒はそう言って立ち上がった。
をそのままに、自室を後にする。
大卜(だいぼく)はしばらくその場で立ち尽くしていたと言う。
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