ドリーム小説
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麹塵の袍 =5= 一日の仕事を終え、自宅に戻ったは改めて書簡を取りだした。
少し高鳴る胸を押さえ、深呼吸をする。
はらりと開くと、見覚えのある諷詠の文字が目に飛び込んできた。
文面にはつつがなく暮らしていると始まり、景麒がどのようにして泰台輔とお付き合いしていたのかが、快活な文字で綴られている。
報告書のようだと思うと、思わず笑みが漏れた。
夏至の頃から、すでに三ヶ月近くが経過している。
秋分を間近に控えた晴天の日。
梧桐宮に変化が訪れた。
鳳が大きな羽ばたきを見せる。
はすぐに先触れを指示し、門扉を開放させた。
鳳は南東へ向けて優雅に飛び立つ。
一路、王の許へ向けて。
その後、戻ってきた鳳を迎えると同時に、戴国に泰王が即位した事を聞いた。
「まあ、では台輔のご指導のたまものでしょうか」
そう言うに、下官はぽかんと口を開けていた。
分からぬのならよいと言って、は梧桐宮の中に戻る。
その数日後、景麒は泰王の招集に応じて、戴極国へと向かった。
何か大事があったのかと、知らせを運んだは少し不安を感じていた。
諷詠の書簡により、景麒にとって、泰台輔が良い影響を及ぼした事は知っていた。
その泰台輔のためにと、即位式もまだ行われていない国へ向かったのだ。
しかし、大きく危惧した事はなかった。
景麒は五日程で戻ってきた。
様子を窺う限り、良い結果が得られたのだろうと想像する。
戴も新王を迎えて進み始めた。
慶もこれから良くなって行けばよいと、は景麒を見ながら思う。
再び灯された希望の炎が、今また消えようとしていることをこの時はまだ分からなかった。
慶東国が新年を迎えてしばらく、祭祀が続くこの時期は、春官の忙しく動き回る日々が続く。
大卜であるも、雉人らと供に忙しく過ごしていた。
金波宮は変わらず日々を送っている。
必要最低限の祭祀には、王も務めを果たしているようだ。
他官府ではどうか分からないが、空位の頃を思えば充実した日々が続いている。
祭祀の行われる時期が嵐のように過ぎ去り、まもなく春分が訪れようとしていた。
その日、梧桐宮を訪れた宰輔は、ただ何も言わずにと対峙していた。
鸞を出して欲しいとも、青鳥が必要だとも言わない。
仕方なくは、失礼を承知で景麒の瞳を見つめた。
気配に気がついたのか、少し横に向けられていた景麒の顔が、のほうに移動しようとしていた。
視線が合う直前に、は目を反らした。
読みとるにはまだ充分ではない。
それに気が付いたのか、景麒はふっと息を吐いて問う。
「大卜は、現状をどう思われる」
「どう、とは…?」
「主上を見て、どう思われる」
「それは…」
難しい質問だった。
正直な所を言うわけにもいくまいと、は考えながら口を開く。
「前と違って、台輔を避けることをおやめになりました。これは、大きな進歩ではないかと。台輔も随分とお気持ちを汲んでおられる…そのたまものでしょう」
「本当に思っている事を言っていただきたい」
強い口調の景麒に、はちらりと顔をあげた。
真剣な眼差しがを射抜いている。
どきり、と走る鼓動を気力で押しとどめるようにして、胸元で手を握りしめながら言う。
「初めに宮城に来られた時の様子と、酷似しておられます。台輔を…とても思っておられるかと…その、女性として…」
とてもその瞳を見つめて言うことなど出来なかった。
紫の瞳がもたらす効果は、口を閉ざすには充分だったからだ。
しかし景麒はその瞳の印象と相反する声色でそれに返した。
「まさか。そのような事…」
「いいえ、台輔…。主上は台輔を…愛しておられます。台輔の愛を渇望なされ…」
すっと頬に当てられた手に、は口を噤んでしまった。
「愛すると言う感情は、わたしには分かりかねる。ただ…わたしは蓬山で泰麒にお会いし、しばらくご一緒させていただいた」
それは諷詠からの書簡によって知っていた。
しかし、それと今のこの景麒の行動が結びつかない。
「泰麒はとてもお可愛らしい方でした。花や鳥を愛でるような感覚とは、明らかに違う感情が生まれました。それは主上を思う気持ちとも少し違う。そう…今のこの心境と、とても似ている。それをどのように言ってよいのか分からないが…」
「え…?」
「ただ、愛しいと思う、貴女を」
最大限にまで開かれた瞳は、紫の視線を受け止め続けていた。
「どう言うのが正確なのか、生憎と判断できない。恐らく、これが一番近い言い方なのだと思う」
「た…台輔…」
頬に当てられた手が、熱いような気がした。
早鐘を打つ心を、もはや止めることは叶わず、見開かれた瞳に映る景麒の顔が、少し近づいてきた。
唇が触れるまでに、もう幾刹那もないかに思われた。
「何を…何をしているのです!」
ぴたりと止まった動作。
恐る恐る声の方を見るの瞳には、絶望を呼ぶに相応しい人物が立っていた。
「主上…」
そう言ったのは景麒だった。
「離れなさい…」
小さな声に、それでも動けないでいる二人。
「離れなさい!景麒に触れないで!!」
頬を打つ苛烈な音が、景麒の耳に響いた。
打たれたのは。
顔は背けられたまま、呆然としている。
「景麒、いらっしゃい」
袖を引く力に抗うことが出来ず、景麒はを振り返りながら、その場を離れなければならなかった。
二人の影が梧桐宮から消えてもなお、は身動き一つ取れないでいた。
景麒の言った事に、未だ信じられない気持ちがあったのと、王の尋常ではない怒りの籠もった目が、をその場に縛り付けていた。
嫉妬の目を王に向けられることがあろうとは、よもや思ってもみなかった。
しかし、気持ちを覗かれてしまえば、言い訳の余地はない。
はそれほどまでに景麒を思っていたのだから。
王宮から女を追放するとの勅令が出たのは、その翌日の事であった。
驚き戸惑う官の中で、はそれを厳粛に受け止めた。
宰輔に恋をしてしまった罪が、宮城全体に広がろうと思わなかった。
「大卜…」
その日、誰もいなくなった梧桐宮を尋ねる者があった。
「た、台輔…いけません…ここに来てはまた…」
「申し訳ない。主上を止めることが出来なかった…」
「いいえ…台輔の責任ではございませぬ。私が台輔に恋をしてしまったのが、いけなかったのですわ…どうか、主上を…慶国を正しい方向に導いて下さいませ。私は地に生きて、それを見守っております」
「大卜はもう…覚悟を決めておられるのか…わたしも覚悟を決めなければ」
「台輔…最後に…私の願いを聞いて頂けますか」
「わたしにできる事なら」
「…て下さい」
あまりにも小さく言ったため、その言を拾うのは難しかった。
しかし恥じらいを含む瞳を見れば、何を言ったのかはすぐに理解できた。
景麒はに近寄り、その肩に手を置く。
近づいてゆく相貌。
最初でありながら、最後であろう別れの口付けは、甘くせつないものとなった。
閉じられた瞳からは涙がこぼれ落ちる。
驚いたように見ている景麒から逃げるようにして、はその場を走り去った。
自宅に戻ると荷を纏め、そのまま宮城を去っていった。
宮城から出た女達の一行は、まばらに散っていった。
これで王も少しは平素を取り戻すかと、景麒は祈るような面持ちでいたのだが、女がいなくなったからといって、王が朝議に出る事はなかった。
政の一切を放棄し、閉じこもるようになっては如何ともしがたい。
ただ傾くのを待つより他に手はないのだろうか。
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