ドリーム小説




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麹塵の袍


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それから数ヶ月が経過した。

地に降りたは、堯天にほど近い街で暮らしていた。

麹塵の袍の代わりに、今は青い襦裙を揺らして川に足をつけている。

薬草などを集めては売る、小さな商いをして生計を立てていたのだ。

慣れない労働に、足は腫れ上がっている。

川で冷やすのも、いつの間にか日課のようになっていた。

遠く見える堯天山を見上げると、景麒を思い出す。

最後の思い出となった口付けを、そっと抱えて生きてゆこうと思った。

川の流れが踝(くるぶし)で遊び、腫れは少し治まった。

もう少し浸しておこうと、は川を見つめながら歌を歌い出す。

川に足を浸しながら歌ったのは、何十年ぶりのことだろうか。

幼い頃、諷詠とよくやった。

母が口ずさんでいたのを、諷詠が覚えていてに教えた。

このように、夏も近い気候の中にあると、それはより鮮明だった。

殺伐とした宮城から抜け出し、こうやって過ごすのも悪くはない。

きっと、これでよかったのだろう…





「山に消えゆく鷺の影、遠き楼閣揺らめいて…」

ざっと言う草を踏みしめる音に、の歌は途切れた。

「大卜」

信じられない声が背後から聞こえる。

川の水は絶えず流れていたが、その透明さはの姿を鮮明に写しだしていた。

そして背後に立っている者までも…

「わ…私は…もう、大卜ではございません。市井に住む、ただの女です…」

の声は震えを露わにしていた。

「…

川中に映る紫の瞳がを捕らえた。

それを反らすことが出来ない。

辛くなって瞳を閉じると、隣に人が座る気配を感じた。

恐る恐る開けられた瞳に映ったのは、紛れもなく景麒だった。

「台輔…」

ちらりと寄越された視線を受け止めただけで、意味もなく泣きそうになった。

自らの気を紛らわすため、は慌てて問う。

「な…何故このような所に台輔が…」

「主上をお迎えにあがる途中で…諷詠がよく歌っていた歌が聞こえた。もしやと思って音の許を探していると、ここに出た」

「主上を…?主上は今、地に降りられておられるのですか?」

堅い表情になった景麒が、辛そうな声で言う。

「呀峰をご存じか」

「あまり評判の良くない官だと聞いておりますが…」

一つ頷いて、景麒は説明を続ける。

「その呀峰が、主上に小さな土地を献上した。民居が六軒ほどの小さな園林。鹿や雉を飼う民がいて、子童が遊ぶ長閑(のどか)な土地…。そこで主上は機を織り、子童に刺繍などを教えて穏やかに暮らしているのです」

「では、ご政務は…」

の問いに、景麒の首は横に振らる。

「こうしてお迎えにあがっても、泣いて帰りを疎んじられるのです…どれほど請うても、金波宮へは戻らぬと…」

「台輔…」

言うべき言葉がなかった。

それほどまでに王を追いつめたのは、一体何だったのだろうか。

王が玉座に有り続ける為には、このままではいけない。

景麒の様子からして、その声も殆ど届いていないのではないだろうか。

「台輔の言葉は、きっと主上に届きますわ。主上とて、そのように悲しい台輔のお顔を見れば、考えを改めるのでは…」

「だと良いのですが…」

「何を申されますか、台輔。それを一番信じねばならないのは、台輔なのですよ」

「大卜…いや、殿は…お強い」

それっきり、どちらも口を閉ざしてしまった。

さらさらと流れる川の音だけが、ただただ静かに聞こえている。

ふと、川に目を向ける

中に入っても膝が浸かる程度の深さだった。

何を思ったのか、は川の中に入る。

どぼん、と軽く水が跳ねて光に瞬いた。

屈んで両手に水をすくうと、空に向かって放つ。

小さくなった水しぶきが広がり、瞬きを繰り返して消えた。

完全に消え切らぬ内に、再び水をすくって空に放つ

幾度か同じ事を続けていると、七色の光が宙に生まれた。

「台輔、とっても綺麗でしょう?」

ただ頷く景麒の紫眼は、七色の光を映し続けていた。

表情にこそあまり変化はないが、喜んでくれている事は分かる。

は川の中から景麒を見て言った。

「でも、宮城ではこんな事は出来ません。水があっても、とてもこの通りにやる勇気がありません。地に降りたからこそ、見る事の出来る素晴らしい物もあるのです。台輔、私は自分が強いかどうかなど分かりません。でも、悔いてはおりませぬ。私の責任なのですから」

そこまで言うと、少しの表情が曇る。

「ただ、他の方に申し訳なかったなと…思います」

「それは関係ない」

強く言われた景麒の声に、は伏せかけていた顔を上げた。

「あの一週間の間、主上が手をあげた女官が数名。中には仁重殿に詰める天官もいた」

誰がどうと言う問題ではないのだと、景麒の瞳が補足をする。

「でも、台輔は主上を敬愛しておられましょう?主上も台輔を愛しておられる。でしたら、主上を諫める事が出来るのは台輔しか…」

何故、こんな事を言わねばならないのだろう。

こんなにも辛い事を…言わねばならない。

が生み出した七色の光は、もうどこにも見つける事は出来なかった。

代わりに、さきほどの重い空気が戻っている。

冷やすために入れられた足は、冷気を伴って全身を襲おうとしていた。

「大切なお方だとは思う。慶にとって…国にとって、王はかけがえのないもの」

「でしたら、大丈夫でしょう。さあ、台輔。いつまでもこんな所にいてはいけません。早く主上をお迎えに…」

涙が薄く視界を覆っていたため、顔を上げる事が出来ない。

しかし、景麒はの目前から消える気配を見せない。

それどころか、水は景麒がに手を差し伸べるのを映しだしていた。

「手を」

動けないでいるに、景麒の声がかかった。

しばらく止まっていたが、景麒の手がさげられる事はなかった。

は下を向いたまま手を伸ばし、引かれるままに川からあがる。

そしてそのまま景麒の胸元に入り込んでしまった。

むろん、景麒がそのまま引き寄せたのだった。

「腕に抱きたいと思う感情とは…かけ離れている」

「台…輔」

「敬愛と…ただ愛しいと思うのは、別の感情だった。それを教えてくれたのは貴女だ」

「そんな…でも…」

は抱きしめられたまま、幸福感と罪悪感の狭間で身動きが取れないでいた。

瞳を閉じればたちまち酔ってしまいそうになる。

こうして出会えた事は、二人にとって奇跡に近い。

それが、より離れがたい心情を生み出していた。

「景麒!」

ふいに叫ばれた甲高い声。

びくりとの体が萎縮する。

恐ろしい思いで声の方向を見ると、子童の手を引いた王が立っていた。

「主…上」

「汚らわしい…汚らわしい!!」

慌てて平伏するに、王は歩み寄って睨み付けていた。

むろん、は顔を伏せており、それを見ることはなかったが、見なくとも手にとるように分かった。

どのような心情でいるのかも、容易に想像出来る。

「主上、お迎えにあがりました。一緒にお帰り下さいますね」

「何を言っているのです!誰が帰ると言ったのですか?」

「お帰りいただかない事には、決済が終わりません。諸官も不安に思っております。もう何日宮城にお戻りになっていないのか…」

「迎えに来たのではないのでしょう!?そう、そうよ…この人に会いに来たのね…」

「大卜とは偶然ここで…」

「言い訳など…聞きたくありません!なんと汚らわしい…なんと…」

その後の言葉は、口中でぶつぶつと呟かれ、聞き取ることが出来なかった。

それが徐々に大きくなると、耳を覆いたくなるような内容が聞こえてくる。

「ああ、そうだわ…国に女がいるからいけないのよ。景麒の瞳に、女を映すなど…そうよ、どうして今まで気が付かなかったのでしょう」

さらにぶつぶつ言いながら、王はその場を去っていった。

途中からは、などまるで眼中にない。

手を引かれたままの子童も、その様子が恐いのか、泣きそうになっていた。

「主上…」

呆然と立ち尽くす景麒には言う。

「台輔、すぐに主上を追って下さいませ。ご様子が少し…心配でございます」

「…」

「台輔、早く!王宮の中で女を追放すると言うのならまだしも…それが国で行われたとしたら、ただ事では済みませぬ。どうか、追って主上をお諫め下さいませ!」

を見つめる視線は刹那の間。

直後、王のあとを追う宰輔の後ろ姿を、は寂しげに見送った。



続く






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市井に降りても、怒りの矛先は…

                     美耶子