ドリーム小説
Welcome to Adobe GoLive 5
麹塵の袍 =6= それから数ヶ月が経過した。
地に降りたは、堯天にほど近い街で暮らしていた。
麹塵の袍の代わりに、今は青い襦裙を揺らして川に足をつけている。
薬草などを集めては売る、小さな商いをして生計を立てていたのだ。
慣れない労働に、足は腫れ上がっている。
川で冷やすのも、いつの間にか日課のようになっていた。
遠く見える堯天山を見上げると、景麒を思い出す。
最後の思い出となった口付けを、そっと抱えて生きてゆこうと思った。
川の流れが踝(くるぶし)で遊び、腫れは少し治まった。
もう少し浸しておこうと、は川を見つめながら歌を歌い出す。
川に足を浸しながら歌ったのは、何十年ぶりのことだろうか。
幼い頃、諷詠とよくやった。
母が口ずさんでいたのを、諷詠が覚えていてに教えた。
このように、夏も近い気候の中にあると、それはより鮮明だった。
殺伐とした宮城から抜け出し、こうやって過ごすのも悪くはない。
きっと、これでよかったのだろう…
「山に消えゆく鷺の影、遠き楼閣揺らめいて…」
ざっと言う草を踏みしめる音に、の歌は途切れた。
「大卜」
信じられない声が背後から聞こえる。
川の水は絶えず流れていたが、その透明さはの姿を鮮明に写しだしていた。
そして背後に立っている者までも…
「わ…私は…もう、大卜ではございません。市井に住む、ただの女です…」
の声は震えを露わにしていた。
「…」
川中に映る紫の瞳がを捕らえた。
それを反らすことが出来ない。
辛くなって瞳を閉じると、隣に人が座る気配を感じた。
恐る恐る開けられた瞳に映ったのは、紛れもなく景麒だった。
「台輔…」
ちらりと寄越された視線を受け止めただけで、意味もなく泣きそうになった。
自らの気を紛らわすため、は慌てて問う。
「な…何故このような所に台輔が…」
「主上をお迎えにあがる途中で…諷詠がよく歌っていた歌が聞こえた。もしやと思って音の許を探していると、ここに出た」
「主上を…?主上は今、地に降りられておられるのですか?」
堅い表情になった景麒が、辛そうな声で言う。
「呀峰をご存じか」
「あまり評判の良くない官だと聞いておりますが…」
一つ頷いて、景麒は説明を続ける。
「その呀峰が、主上に小さな土地を献上した。民居が六軒ほどの小さな園林。鹿や雉を飼う民がいて、子童が遊ぶ長閑(のどか)な土地…。そこで主上は機を織り、子童に刺繍などを教えて穏やかに暮らしているのです」
「では、ご政務は…」
の問いに、景麒の首は横に振らる。
「こうしてお迎えにあがっても、泣いて帰りを疎んじられるのです…どれほど請うても、金波宮へは戻らぬと…」
「台輔…」
言うべき言葉がなかった。
それほどまでに王を追いつめたのは、一体何だったのだろうか。
王が玉座に有り続ける為には、このままではいけない。
景麒の様子からして、その声も殆ど届いていないのではないだろうか。
「台輔の言葉は、きっと主上に届きますわ。主上とて、そのように悲しい台輔のお顔を見れば、考えを改めるのでは…」
「だと良いのですが…」
「何を申されますか、台輔。それを一番信じねばならないのは、台輔なのですよ」
「大卜…いや、殿は…お強い」
それっきり、どちらも口を閉ざしてしまった。
さらさらと流れる川の音だけが、ただただ静かに聞こえている。
ふと、川に目を向ける。
中に入っても膝が浸かる程度の深さだった。
何を思ったのか、は川の中に入る。
どぼん、と軽く水が跳ねて光に瞬いた。
屈んで両手に水をすくうと、空に向かって放つ。
小さくなった水しぶきが広がり、瞬きを繰り返して消えた。
完全に消え切らぬ内に、再び水をすくって空に放つ。
幾度か同じ事を続けていると、七色の光が宙に生まれた。
「台輔、とっても綺麗でしょう?」
ただ頷く景麒の紫眼は、七色の光を映し続けていた。
表情にこそあまり変化はないが、喜んでくれている事は分かる。
は川の中から景麒を見て言った。
「でも、宮城ではこんな事は出来ません。水があっても、とてもこの通りにやる勇気がありません。地に降りたからこそ、見る事の出来る素晴らしい物もあるのです。台輔、私は自分が強いかどうかなど分かりません。でも、悔いてはおりませぬ。私の責任なのですから」
そこまで言うと、少しの表情が曇る。
「ただ、他の方に申し訳なかったなと…思います」
「それは関係ない」
強く言われた景麒の声に、は伏せかけていた顔を上げた。
「あの一週間の間、主上が手をあげた女官が数名。中には仁重殿に詰める天官もいた」
誰がどうと言う問題ではないのだと、景麒の瞳が補足をする。
「でも、台輔は主上を敬愛しておられましょう?主上も台輔を愛しておられる。でしたら、主上を諫める事が出来るのは台輔しか…」
何故、こんな事を言わねばならないのだろう。
こんなにも辛い事を…言わねばならない。
が生み出した七色の光は、もうどこにも見つける事は出来なかった。
代わりに、さきほどの重い空気が戻っている。
冷やすために入れられた足は、冷気を伴って全身を襲おうとしていた。
「大切なお方だとは思う。慶にとって…国にとって、王はかけがえのないもの」
「でしたら、大丈夫でしょう。さあ、台輔。いつまでもこんな所にいてはいけません。早く主上をお迎えに…」
涙が薄く視界を覆っていたため、顔を上げる事が出来ない。
しかし、景麒はの目前から消える気配を見せない。
それどころか、水は景麒がに手を差し伸べるのを映しだしていた。
「手を」
動けないでいるに、景麒の声がかかった。
しばらく止まっていたが、景麒の手がさげられる事はなかった。
は下を向いたまま手を伸ばし、引かれるままに川からあがる。
そしてそのまま景麒の胸元に入り込んでしまった。
むろん、景麒がそのまま引き寄せたのだった。
「腕に抱きたいと思う感情とは…かけ離れている」
「台…輔」
「敬愛と…ただ愛しいと思うのは、別の感情だった。それを教えてくれたのは貴女だ」
「そんな…でも…」
は抱きしめられたまま、幸福感と罪悪感の狭間で身動きが取れないでいた。
瞳を閉じればたちまち酔ってしまいそうになる。
こうして出会えた事は、二人にとって奇跡に近い。
それが、より離れがたい心情を生み出していた。
「景麒!」
ふいに叫ばれた甲高い声。
びくりとの体が萎縮する。
恐ろしい思いで声の方向を見ると、子童の手を引いた王が立っていた。
「主…上」
「汚らわしい…汚らわしい!!」
慌てて平伏するに、王は歩み寄って睨み付けていた。
むろん、は顔を伏せており、それを見ることはなかったが、見なくとも手にとるように分かった。
どのような心情でいるのかも、容易に想像出来る。
「主上、お迎えにあがりました。一緒にお帰り下さいますね」
「何を言っているのです!誰が帰ると言ったのですか?」
「お帰りいただかない事には、決済が終わりません。諸官も不安に思っております。もう何日宮城にお戻りになっていないのか…」
「迎えに来たのではないのでしょう!?そう、そうよ…この人に会いに来たのね…」
「大卜とは偶然ここで…」
「言い訳など…聞きたくありません!なんと汚らわしい…なんと…」
その後の言葉は、口中でぶつぶつと呟かれ、聞き取ることが出来なかった。
それが徐々に大きくなると、耳を覆いたくなるような内容が聞こえてくる。
「ああ、そうだわ…国に女がいるからいけないのよ。景麒の瞳に、女を映すなど…そうよ、どうして今まで気が付かなかったのでしょう」
さらにぶつぶつ言いながら、王はその場を去っていった。
途中からは、などまるで眼中にない。
手を引かれたままの子童も、その様子が恐いのか、泣きそうになっていた。
「主上…」
呆然と立ち尽くす景麒には言う。
「台輔、すぐに主上を追って下さいませ。ご様子が少し…心配でございます」
「…」
「台輔、早く!王宮の中で女を追放すると言うのならまだしも…それが国で行われたとしたら、ただ事では済みませぬ。どうか、追って主上をお諫め下さいませ!」
を見つめる視線は刹那の間。
直後、王のあとを追う宰輔の後ろ姿を、は寂しげに見送った。
|