ドリーム小説
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麹塵の袍 =7= 景麒がいなくなった川の畔(ほとり)は、変わらず涼しげな音が耳に入っている。
しかし撫でるようだった音色は、今や無機質な音でしかない。
「台輔…」
呟いた声に答える者はおらず、ただ残響だけが静かに消えゆく。
その後は自宅には戻らず、隣の街に向かった。
誼の深い薬師がその街にはいたのだった。
「あら!久しぶりね、。蒼耳子が手に入ったのね」
蒼耳子(そうじし)とは一般的な薬草である。
果実を乾燥させ、五十倍の水で煎じて服用するのだが、果実だけでなく葉も使い道があり、他の薬草と調合する事もある。
「少しだけなの」
「そう。ねえ、本当なの?枯れていっているのが、蒼耳子だけではないって」
「…知っていたのですね」
「噂になっているからね。でもおかしいわね…蒼耳子が枯れるなんて」
「え、ええ…そうですね…」
今まで容易く採取できていた薬草が、近頃では困難を極める。
枯れているのを始めに眼にしたのは、一ヶ月前のこと。
蒼耳子はその最たるものと言って良いだろう。
蒼耳子は需要が高い。
頭痛や解熱に効くものとして、広く使用されている。
広く使用される程、多く生存しているはずのものが、次々と枯れているのだ。
これが示唆するものを、国官であったは良く知っている。
だが、それを人に言うことは憚られた。
「ねえ、。知ってる?この間、麦州の方で蝗早があったそうよ」
「まあ…こんな時期に?」
蝗早(こうかん)とは、天災の一種である。
日照りが続き、蝗(いなご)の群れに作物を食われる害の事を言う。
しかしこの時期、蝗早に遭うには早すぎる。
「まさかねえ、国が傾いているなんて事…あるのかしら?」
はその言に、胸を鷲掴みにされたように感じた。
妖魔が増えたと言う話こそ聞かないが、蒼耳子が枯れたり、気象が異常を示したりと…。
目前の女性はいとも簡単にそれを言ったが、本人にしてみれば、不安を口に出しただけに過ぎない。
だが、国官であったにとっては、容易に口に出せるはずもなく、ましてやそれに頷くことも出来なかった。
「新王が登極してまだ数年。前王時代の荒廃がまだ残っているのでしょう…」
誤魔化すように言ったに薬師は笑う。
「そうよね。やっと空位を抜けたんだもんね。薬草はきっと、今年の気候のせいで枯れたのかもね。何か特別な理由があってのことかもしれない」
「ええ、きっとそうでしょう。ああ、でも今日は蒼耳子だけではなく、車前草が手に入ったのです」
「あら!それは珍しいわね!!」
車前草(しゃぜんそう)は車前子(しゃぜんし)と言う名の薬になる。
種子を用いて煎じると、咳止めや下痢止めになる。
葉も乾燥させることで使われるが、その際には効能が変わり、整腸効果があるとされている。
葉を乾燥させたものは、そのまま車前草と呼ばれる。
「それに、ほら。紫花地丁もたくさん」
紫花地丁(しかじちょう)は春によく採れる。
小さな紫の花が可愛らしく、一般的には菫(すみれ)と言う名で知られている。
乾燥させれば煎じ薬として使えるが、そのまま塩で揉み、直接患部に塗布する事もある。
腫れ物には欠かせないものが、この紫花地丁であった。
「紫花地丁も車前草もこんなにあるんじゃあ、国が傾いてるわけないか」
「ええ…」
そう言った会話をしていると、閉門を知らせる鐘の音が響いた。
「あら、なんだかすっかり引き留めちゃったわね。お詫びに、今日は泊まっていってよ」
「でも、そんな」
「遠慮しなくていいのよ」
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
その後、夕餉をご馳走になった。
薬師といたためか、薬草の話で盛り上がり、調合について夜遅くまで話をした。
それによっては、少し辛さを紛らわすことが出来た。
その翌日。
小さな民居の中、の大きな溜息が漏れていた。
荒れ果てた自宅の中に佇んで、思わず溜息が漏れたのだった。
遅い朝餉を取り、隣の街から帰ってきたのはつい先ほど。
昼を廻った所だった。
帰り道にも拾っていた薬草の入った籠を、取り落として中の様子を唖然と見ていた。
の自宅に、何者かが乱入したようだ。
家具はすべて破壊され、金目の物は消え失せ、着る物も引き裂かれていた。
眼を覆いたくなるような惨状を目の当たりにしたが、その場に居なかった事を感謝せざるを得ない。
「何故…こんな事が…」
近隣の者に聞いてみると、昨夜から今朝にかけて襲撃があったらしいとしか分からなかった。
他の民居に被害はなく、を狙った者と考えた方が良さそうだ。
「まさか…」
思いついてしまった考えをうち消すかの如く、は首を振る。
ふと何者かが歩いてくる気配を感じた。
慌てて中を見回し、壊れた家具の物陰に身を潜める。
「人の気配は」
ぼそりとした声がそのように聞こえた。
「…ひとつ、ございます」
新たな声は比較的はっきりと聞こえたが、知らない声だった。
その直後、目前の家具が跳ねるようにして取り除かれ、は眼を閉じて身を伏せる。
しかし襲ってくるような気配はない。
そろりと瞳を開けた瞬間、その行動を瞬く間に後悔してしまった。
目前には巨大な獣がいた。
一瞬、犬かと思ったが、その鋭い目つきと体躯の大きさに妖魔だと気が付く。
妖魔は息がかかりそうなほど間近に迫っている。
恐ろしさから何も言えず、また、身動きする事も出来なかった。
「失礼を」
妖魔はそう言って、すっと姿を消した。
妖魔が人語を話すのも驚いたが、姿を消したのはもっと驚いた。
唖然とするの前に、もうひとつの声の主が現れる。
「申し訳ない。班渠が驚かせてしまったようだ」
の驚きが最大になった。
瞳はこれ以上ないほど見開かれる。
長い布に覆われた頭髪の下は、紛れもなく金であるその人物。
「た、台…輔…。今のは…いえ、それよりも何故、こんな所に台輔がおられるのです」
「忠告をしに…しかし手遅れとばかり…よく、ご無事で」
「昨夜は隣街の薬師と語り明かしておりました。幸運なことにも…」
景麒は安堵の溜息を吐きだしてから言った。
「必要な物だけを纏めて、すぐに荷造りを」
「…荷造り出来る物など、何一つ残っておりませぬ」
「では、すぐにでもここを出ねば」
すっと入り口に向かう景麒に、は何も問いかけずについていく。
景麒は険しい表情をしていた。
それが語るものを、は聞くのが恐ろしい。
里を離れ、ひたすら歩く景麒。
人気が無くなると、先ほどの獣を召喚した。
「班渠が貴女を安全な所まで運ぶ」
「な、何故ですか…?」
「主上が貴女の殺害を…。内々にと言うことでしたが、主上の護衛に付けていた、わたしの使令がすべてを聞いてしまったのです。依頼を受けたのが昇紘でしたから、希望は薄いかと…」
景麒もそうだったが、昇紘や王もまた、の所在する正確な場所は知らなかった。
戸籍を調べ、分かって手配し行われたのが今朝だったのだろう。
景麒は使令に命じて、再会した川付近の里を探させていたのだと言う。
「そんな…私は…私は何と罪深いのでしょう…殺されるほど憎まれていたとは」
衝撃的な事だった。
王に殺意を抱かせるほど疎まれる事だったのだ。
何故、景麒がを気にかけるのか、それは本人ですら分からない。
諷詠の存在があったのだとも言えるし、互いの考えが分かると言うのもあったのかもしれない。
いずれにしろ、それが王の怒りを買っている。
「貴女のせいではない」
「ですが…私は…」
それ以上は何も言えなかった。
せり上がるようにして漏れた嗚咽によって、言葉はかき消されてしまった。
涙を抑えようと努力してみるが、どうにも止めることが出来ない。
すると、ふわりと暖かい腕がを包む。
優しく抱きしめられると、より多くの涙が溢れてくる。
それでも景麒の腕は、気遣うようにを包んでいる。
微かな安堵感が、次第にの心を静めていった。
「国を出たほうが良いのかもしれない」
景麒の腕の中、の肩が跳ねたように動く。
「国…を?」
「この国に安全な場所はない…」
「そんな…でも…」
「わたしには王を守る使命がある。弱みを握られてはいけない」
「私が…台輔の弱みになりましょうか?」
「ならぬとお思いか?」
真面目に返された言に、は顔を上げて景麒を見つめる。
見つめ返すのは紫の澄んだ瞳。
深く、深く色めく。
どうしてこの瞳を恐いと思ったのだろうか。
「台輔…これ以上の喜びなど、きっとどこを探してもございませんわ…私は王にはなれない。けれど台輔、いつまでもあなたを思っています…誰よりも深く」
「…」
悲しい瞳が互いを見つめる。
離れねばならないと分かっていたが、景麒は腕を放すことが出来なかった。
もまた、景麒の腕の中から抜け出す事が出来なかった。
このまま時が止まってしまえばどんなに楽だろう。
しかし別れを覚悟した二人に、過ぎゆく時は残酷にのしかかる。
せめて陽が暮れるまで引き留めたいが、それは叶わないと分かっている。
こうしている今にも、王は宮城を出ようとしているかもしれない。
いや、景麒を探しているかもしれない。
を殺し損ねたという報告が入り、その時景麒がいなければ…どのようになるのか。
考えるのも恐ろしいことだった。
それでも、王に逆らうことは出来ない。
長く官吏として宮城に勤めたも、それは同じだった。
何をする事も出来ない。
二人は永久に別れることを決意していたのだった。
しかし、崩壊を恐れて足掻(あが)くが、心までは言うことを聞かなかない。
の心は景麒にしか向いておらず、それを殺して生きて行くのは辛い事だ。
だが、これ以上国を傾ける一因になることは避けねばならない。
王の目前から消え、景麒の目前からも消えることが最善なのだ。
すっと解かれた腕はどちらからか。
遠ざかる銅色の毛並みが視界から消えるまで、景麒は身動きもせずに立ち尽くしていた。
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