ドリーム小説
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海客と海客 〜後輩〜 =17=
「尚隆……」
細く掠(かす)れた声だった。
瞳を開けることも出来ないまま、はその名を呼んだ。
再三再四、夢を見た。
幻なのか夢なのか分からないものもあった。
だからこそ、名を呼んだ。
まさにそれこそが夢ではないかと思ったから。
「ここにいる」
手に確かな温もり。
知らず安堵の息が漏れる。
「ここは……?」
そう呟くと、少し瞳に力をいれる。
霞む世界が少し広がり、また少し力を入れた。
「ここは雁だ。よく頑張ったな」
しだいにはっきりしていく景色。
は少し微笑んで問いかけた。
「私は……どれぐらい眠っていたの……?」
「六日ほどだな」
「そう……その間に何か変わったことは……?」
「いや。特別な事は何も」
「そう……」
山岡の存在を尚隆は知っているのだろうか。
確認せねばと思う気持ちと、知らないのならそれでもいいかと思う気持ちが相まって、何も言葉が出なかった。
何故自分がそう思うのかが分からないため、判断に苦しいところだった。
山岡の瞳の中で蠢(うごめ)いている孤愁(こしゅう)に同情したのだろうか。
それとも裏で糸を引く何者かの存在を感じたからだろうか。
考えねばならない事は山ほどあった。
しかし意識はまたしても下降を始めている。
何よりも大切な事を成すため、は焦って手に力を入れた。
僅かに浮上しかけた意識に集中し、尚隆の方へ顔を向けて言う。
「逢いたかった……」
それだけを言うと、すべり落ちる意識。
完全に落ちる直前、唇に微かな感触があった。
「かわいそうに……レギーナ」
懐かしい声に意識が浮上する。
瞳を開けると、思った通りの人物がそこにはいた。
「先輩」
小さく声を出すと、体全体が軋(きし)むように感じた。
「気が付いたのね。お水飲む?」
頷いたは、体を起こそうと腕に力を入れた。
しかしまだ無理だったようで、力は何かに吸収されるようにして消えた。
代わりに小宗伯がの頭を軽く持ち上げ、水を口元に運んで飲ませる。
水は体内に入ると、瞬く間に浸透していった。
「辛(つら)かったわね」
「……いえ、大丈夫です。こうして生きていますから」
「貴女は強いのね。でもしっかり休んで治さないとね。今は何も考えず眠りなさい」
「でも……」
「いいから。まず体力を戻す方が先決なの。でないと……本当に死んでしまうわよ」
今までがむしゃらであっただけに、そこまで考えていなかった。
いや、心の奥底では、非常に危険な状態であろうとは思っていた。
常に緊張していたせいか、その思考が表面に現れなかったのだ。
だが今、こうして言われると、ようやく恐怖が沸き上がってきた。
ぞくりと背筋が寒くなる。
緊張を解いてよいのだろうか?いや、すべき事が残っている。
「先輩」
このままではいけない。
まだ何も大切な事を伝えていない。
はそう思いながら決意をこめて小宗伯を見つめた。
「先輩、実は……」
そこまで言って、先が出てこなかった。
山岡が生きている。
たったそれだけの言葉が言えなかったのだ。
尚隆に言えなかったように。
「だめよ」
ふいにそう言い放ったのは小宗伯だった。
「今は話すことさえ毒なの。何も心配しなくて大丈夫よ。瞳を閉じてしまいなさい」
小宗伯はそう言うと一度切り、何かに気が付いたように付け加えた。
「すべてこちらに任せておきなさい。主上が良いようにさなってくださいますから」
「……?」
不思議そうなに笑いかけ、小宗伯は水差しを持って退出していった。
小宗伯が消えた方を見つめながら、小さく呟く。
「先輩、山岡さんは……」
何故言えなかったのか。
山岡が死んだと知ったときの様子を思い浮かべれば、生きていたのだとすぐにでも教えたかった。
しかしそれは同時に、他の者の殺害を行ったのが、山岡であることを告げることになる。
その勇気がなかったのだろう。
尚隆に言っても同じ事だ。
すぐに伝達されるであろう事は容易に想像出来た。
それでも言うべきなのだと、警告音が心の奥底から聞こえている。
この警告音の正体がはっきりしない。
ゆえに、やはり何も言えないのだろうなと考えながら、は瞳を閉じた。
瞳を閉じてしばらく、意識が半分落ちかけている状態で、房室(へや)の中に人の気配があるのを感じ取った。
「だ……れ……?」
今のは言葉になったのだろうか。
自分ではよく分からない。
瞳を開けることもままならず、相手が動くのを待つばかりだった。
「先輩……?」
気配は答えない。
訝(いぶか)しく思っていると、側に寄ってくる。
そしての額に手があてられた。
大きな手だった。
女性の手ではないとはっきり分かるほどに。
「尚……」
額にあてられた手が安らぎと温もりを伝える。
「尚隆……」
額にあてられた手に、自らの手を寄せて握った。
それをそのまま頬にあてると瞳を閉じ、吐息とともに呟いた。
「私……尚隆の事が好きみたい」
気配は何も答えない。
代わりに握られた手の感触が少し強くなった。
手の温もりが心強く感じているのに、涙が溢れて零(こぼ)れ始めた。
「お願い……このまま手を放さないで」
そう言いながら瞳を開けるが、視界は歪みきって何も見えない。
尚隆の顔を見ようと、さらに瞳を開けるのだが、自分の意志に反して闇が視界を覆い始めた。
どれだけ頑張っても闇の浸食はくい止められず、じわじわと体を包み始めるようだった。
それに気づき、恐怖を感じた始めた。
「何、これ……」
累々(るいるい)と続く動物の死骸。
倒壊した家々。
木々は一本も地面に植わることなく横たわっている。
「これは……」
一度見た景色だった。
二度と戻りたくない、あの孤島。
「沛乎島(はいことう)……」
そこへ引きずられて行くような感覚。
「い……や……。やめて……!」
闇に絡みとられて動けない体。
「だめよ、そっちへは行きたくないの!」
もがいても引きずる力は衰(おとろ)えない。
「……」
足も手も感覚がない。
ただ腕だけは何かに掴まれたような感触があった。
「ひっぱらないで……!」
激しく上下する体。
揺すぶられているようでもあった。
「しっかりしろ、!」
「……!!」
その一言で、の瞳が開いた。
はっきりとした視界の中、漆黒の瞳が目前にある。
「あ……」
腕を掴んでいるのは尚隆だった。
の額にはびっしりと冷や汗。
「夢……?」
そう気付いて、大きな息が漏れた。
その瞬間、掴まれた腕が解放される。
「尚隆……」
「大丈夫か」
問われたは頷いて答えた。
「夢だったのね……」
安堵の息が漏れたのだが、完全な悪夢とは言えなかった。
後半はともかく、前半は幸せだったのだから。
「随分うなされていた」
尚隆はそう言うと、の額に浮かんだ汗を乾いた布で拭う。
夢の中を思い出すその行為に、大きく鳴り響く胸の音を聞いた。
「これは……本当に現実?」
「夢であってほしかったか」
「いいえ。現実であってほしいわ。だって、こんなにも近くにいる……」
小さく笑う尚隆に、の瞳が真っ直ぐ向かう。
瞬く間に緊張が身を包み、喉に空気の塊が詰まって声が出なかった。
落ち着こうとするがどうにも思い通りいかず、焦りからか瞳は潤いを帯びる。
それでもは瞳を逸らさなかった。
すぐ側にいる尚隆をひたすら見つめ続ける。
夢の中で言った事を、もう一度告げるために。
「わ……私……。あの、私……」
喉が一気に枯れて、口が思うように動かない。
過剰(かじょう)な痛みを示す胸は、激しい鼓動を打ち続ける。
「私……尚……」
そこまでしか言えなかった。
乾燥しきった喉が限界を訴えた為だ。
「……うっ……」
ぎゅっ目を瞑(つぶ)ると、苦しさと情けなさでいっぱいになった。
元々溜まっていた涙が好機とばかりに流れだし、それによって瞳を開ける事が出来なくなる。
「……っ」
頬に尚隆の指が触れ、涙を拭っていった。
その指はそのまま首の下にまわり、軽く持ち上げて静止した。
頭が少し後ろに倒れている。
「……っ!」
直後、唇に何かが触れた。
それと同時に、冷たいものが喉を通る。
ごくりと音を立てて水を飲んだ。
薄く瞳を開けて尚隆を見た。
「もっと飲ませてやろうか」
そう言う尚隆に、は何も言い返せずにただ頷いた。
すると尚隆の表情が和らぎ、再びその手は首を持ち上げる。
自らの口に水を含んでに寄せる。
徐々に近付いてくる相貌(そうぼう)を、はじっと見つめ続けた。
すでに閉じられた尚隆の瞳を見つめながら、やはり夢だろうかと考える。
「……ん」
口移しで入ってきた水は、体の隅々に行き渡るような気がした。
「なかなか良い声をだすな」
にやりと笑った尚隆の顔を、直視出来ずに顔を背けた。
鏡を見なくとも、今の自分がどれほど赤いのか手に取るように分かる。
「また少し眠れ。今は体力を戻すことが先決だからな」
そう言う優しい声と同時に、頭に手が置かれた。
それはこの上ない安堵感を運んでくる。
全ての力が抜けていくようだった。
「……うん」
まだ頬を染めたまま、ちらりと尚隆に視線を送った。
そのまま衾褥(ふとん)に身を隠すようにして潜り込んだ。
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