ドリーム小説
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海客と海客 〜後輩〜 =18= それからは治療に専念する日々が続く。
どういった事か、誰もに詳細を聞いてこなかった。
もう命に別状はないと思われるが、巧で何があったのかを話す機会はついに訪れないまま、十日ほどが過ぎた。
「……っしょ」
寄りかかれる場所を探しながら、は房室内をふらふらと歩く。
窓から零れる鬱金(うこん)を見て、外の景色が見たくなったのだ。
歩く練習も今朝から始めた事だしと、自分に言い聞かせながら壁伝いに移動した。
窓を開けると外は黄昏(たそがれ)。
橙(だいだい)に染まる雲海の瞬きが美しく、手招きをしているようだった。
もう少し頑張れるだろうかと、扉を目指して庭院へ出る。
欄干(らんかん)までなんとか辿り着くと、上がった息を整える。
大きく深呼吸をすると、雲海の見える場所まで欄干を支えにして移動した。
建物と緑が途切れ、雲海の反射が扇形に見える場所まで辿り着く。
足は少し震えたが、立ってられないほどでもない。
再び息を整えると顔を上げた。
「この景色……」
斜陽(しゃよう)に染まる白い建物と、乱反射を繰り返す雲海を見ていると、なぜかとても懐かしい思いに包まれた。
子供の頃を思い出しそうな、そんな既視感(きしかん)。
「ここにいたか」
ふと背後から声がする。
振り返らずとも、誰の声かは分かる。
「尚隆」
首だけを動かし、隣に移動してくる人物を目で追う。
「歩いて大丈夫か」
「ええ、もうすっかり良くなったわ」
「青い顔で言う事ではないな」
「……青い顔してる?」
「そうだな、戻ったほうがいい」
「もうちょっとだけ……せめて陽が沈むまでここにいたいの」
了承の頷きが返ってきたので、は微笑んでから雲海に顔を向ける。
遠くに聞こえる波の音。
静かに波打つその音は、遠い瀬戸内の波を思い出させた。
日常的ではないその風景が、今の景色と重なったからだろうか。
「黄昏時に言った事を覚えているか」
ふいに問われたは、隣に顔を向けて尚隆を見た。
欄干に両腕を置き、黄金に染まる雲海の照り返しを浴びたその顔は端正で、我知らず見惚れていた。
しかしふと我に帰って口を開く。
「黄昏……?いつの黄昏?」
「他国だったかな」
「他……」
それが巧であることはすぐに分かったが、様々な記憶と思いが駆けめぐり、しばし言葉を失った。
しかし今言われた事の記憶を手繰り寄せ、少しだけ尚隆のほうに顔を向けて言った。
「窓の……上と下?」
尚隆は右手を欄干に残し、左手を腰にあてての方を向く。
落ちかけた陽が、漆黒の髪を鬱金に染めていた。
「そうだ」
「来島の話だったかしら……?」
とても意味ありげな質問だと思った。
しかし途中で閉ざされた事もよく覚えている。
気になっていたのだが、問い返すのも変だろうかと思い黙っていた。
何が原因でそうなったのだろうかと考え始めたに、尚隆から予想外の言葉が発せられる。
「レギーナになればいい」
「え……?」
尚隆がそこにいた事に、あまりにも驚いたため、今まで忘れていた重要な言葉。
「あれは……。どう言う意味、だったの?」
「男が女を求めるのに、意味などなかろう」
あまりにもはっきり言われてしまったため、どう反応してよいのか困る。
は顔を黄昏に染めたまま何も言えず、尚隆に背を向けてしまった。
「……嫌がるものを無理に、とは言わぬ」
「い、嫌だなんて、そんな!」
誤解させたくないとばかりに、反転して否定しようとした。
しかしにやりと笑った顔が現れ、また言葉を失ってしまった。
「……なんだか、からかわれているみたいで楽しくないわ」
軽く頬を膨らませてそう言った。
それを大きな笑い声が包む。
笑われたことによって、完全にからかわれたのだと思い、頬をふくらませて怒る。
「もう、本気にしちゃったじゃない!」
一緒に笑ってしまえばよかったのだが、何故か泣きそうになっている事に気付き、再び背を向けてしまう。
柔らかだった夕陽の色が、心の奥を刺すように感じた。
これは情緒不安定だなと、胸中で呟く自分を感じながらも、涙が溢れ出すのを止めることが出来なかった。
「泣くな」
背後から冷ややかな声が聞こえる。
びくりと背筋を伸ばした瞬間、驚きで涙がひいた。
確かに、こんなことぐらいで泣かれては迷惑この上ないだろう。
しかし縮まったかに思えた距離が、一気に遠ざかったように感じ、再び涙が頬を伝い出す。
「体に障るだろう」
ふいに体が軽くなる。
「これ以上歩かせては、小宗伯の雷が落ちる」
抱えられて戸惑いを隠せないは、ただ目を見開いて尚隆を見る。
「泣かせたとあってはなおさらだな」
尚隆はそう言うと、の頬に唇を落として涙を拭う。
更なる驚きで涙は完全に止まった。
そのまま房室まで運ばれてしまった。
横になるまで瞬きも出来ずにいた。
「眠れそうか」
まだ驚いた表情のまま、牀の上で首を横に振った。
天地を瞬時に駆けめぐったような心情であった。
その心中に気付かぬのか、尚隆は牀に手をついてに近付く。
どくん、と大きくなった鼓動は、耳元でうるさいほど大きな音をたてた。
「雷が落ちる前に退散するとしよう」
指が頬に残った涙を拭う。
そのまま頬を撫でる指に瞳を閉じると、ますます鼓動の音は大きくなる。
しかし両頬を尚隆の手が完全に包みこむと、驚くほど静かに感じた。
我が事ながら不思議に思い、瞳を開けたその瞬間。
漆黒の瞳が目前にあった。
大胆に、でも優しく落とされた口づけ。
すべての時間が止まった。
「本気だと思っても……いいの?」
誰もいなくなった房室で、一人ぽつりと呟いた。
嵐のように渦巻いていた感情が過ぎ去った後、無意識に呟いた言葉だった。
「レギーナ」
扉が開き、女官が一人現れる。
「先輩」
彼女をレギーナと呼ぶのは、小宗伯しかいない。
「今日の体調は、どう?」
に近付いた小宗伯は優しく微笑みながら、気遣う表情を垣間見せる。
「わりと良いと思います」
そう言って起き上がろうとしたを、小宗伯は手で制して言った。
「そのままでいいのよ。お水飲む?」
「あ……いいえ、大丈夫です。あの、先輩?ちょっと聞いてもいいですか?」
「どうしたの?」
は少し戸惑ったような様子を見せながら、半身を起こして小宗伯に向き直る。
小さく息を吸い込んでから問いかけた。
「先輩は、朱衡さんとどういった関係なんですか?」
「関係?」
「その……結婚とかしないんですか?」
「ああ、そういうことね。私達は野合と言ってね、籍を一緒にしているわけではないけれど、結婚しているようなものなの」
「籍は別だけど結婚?一緒に住んではいるんですか?」
「もちろんよ」
「結婚できないからそうしているんですか?」
「……。何かあったの?」
「あ……いえ。その……ちょっと疑問で……」
「言ってごらんなさい。主上に何か言われたの?」
こくりと頷くに、小宗伯は腰に手を当てて言う。
「近頃また政務をさぼりがちだと言うのに、レギーナを困らせるような事を言うなんて。まったくあの方には困ってしまうわね。で、告白でもされた?」
「……先輩って、時々鋭いんですね」
「まあ、身近な人のことくらいわね。色々見えていると分かる事もあるのよ」
そう言うと、小宗伯は意地悪く笑う。
は頬を薄く染めながら、少し逡巡(しゅんじゅん)して言った。
「レギーナになればいいって……そう言われたんです」
「レギーナに?それって告白どころか求婚じゃないの」
「で、でも、冗談かもしれません」
「冗談で言うことかしら……でも……そう、レギーナに……」
小宗伯はそう言うとしばしの間、顎に手をあてて宙を見据えた。
そしてのほうを改めて見て言う。
「今後、変な誤解がないようにここで教えておくわね。その言葉の持つ意味を厳密に遂行する事は難しいの。なぜなら一度玉座についた王は、婚姻を結ぶことが出来ないから」
「え……」
「これは自然の摂理と同じくらい、どうしようもない事なの。だけど、一緒にいれないって話じゃないのよ。方法はいくらでもあるわ。寵妃と言えばいいのかしら。それなら飛仙でも良いわけだし」
「ひせん?」
「そう。仙籍に入るの。主上や台輔のように、神籍に入る事は出来ない。でも同じ時を生きる事が出来るのよ。私達にはとても大きな意味を持つ、言葉の壁がなくなるという利点もあるし」
「ひせんも先輩と同じ仙なんですか?」
「ええ、同じよ。ただ格は違うわ。だけどまあ、そんな事は関係ないわね。目下、言葉の壁と体の事が問題だから」
「体?それはどう関係があるんですか?」
「仙籍に入ると、年をとらなくなるの」
「ああ、そういえば怪我をした時にそう言っていましたね」
「そうよ。怪我なんて……」
そこまで言った小宗伯は、何かに気付いたように顔を上げた。
「怪我なんて?」
「……」
「あの、先輩?」
「……ああ、ごめんなさい。ちょっと用事を思い出してしまったの」
小宗伯はそう言うと、を気遣うように見る。
「もう横になって。また明日来るわ」
「あ……はい」
「じゃあね。おやすみなさい」
「おやすみなさい。先輩、いつもありがとうございます」
微笑んでそれに答える小宗伯。
は扉が閉まるまで見送っていた。
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